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国教会の成立について

こんにちは。 世界では現在も宗教問題は多数の問題を生んでいます。その中でも、16~17世紀の宗教戦争は、政治も巻き込んで酷い戦争となりました。 しかしそんな16世紀にあって、全国的な改宗を行ったのがイングランドのヘンリー8世です。 …というのが、私の知っている国教会成立です。  しかし疑問に思うのが、大陸では剣風吹き荒れる中、ヘンリー8世の離婚問題という、政治的…というより、極めて世俗的な理由からの改宗が成功した、してしまった理由というのは、どこにあるのでしょうか。  それとも、私の知らない虐殺や大反乱が当時あったのでしょうか。  ピルグリム・ファーザーズに代表されるカトリック勢力があるのはわかりますが、大陸での強硬な反対を考えると、あまりに穏健すぎるような…  国教会成立時のイングランド情勢について、詳しく知っている方、ご教授お願いします。

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  • nacam
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回答No.5

他の方も言われているように、国教会成立の時点では、カトリックとなんら教義に違いがありませんでした。 ただ首長がローマ教皇かイギリス国王かの違い程度でした。 その後少しずつ国教会とカトリックは、教義内容が変わってゆくのですが、それを大きくゆり戻すのが、メアリー1世です。 母親がカトリックの本拠地スペイン出身であり、夫がスペイン王フェリペ2世という関係上、メアリ1世は、大きく舵をカトリックに戻します。 それによる弾圧などのため、メアリー1世は、血のメアリー(ブラッデーマリー)と呼ばれることになります。 メアリー1世の死後は、エリザヘス1世の治世となり、メアリーにより幽閉されていた関係上エリザベスは、徹底的な反カトリック政策をとり、国教会の基本を作り上げます。 この間カトリックは、スペイン、アイルランド、フランスなどに逃れます。 エリザベスの時代のスペインとイギリスとの対立は、ある意味カトリックと国教会との対立であったといえます。 (反イギリスの立場から、それまで非カトリックであったアイルランドはこのころカトリックに全面的に改宗しています) イギリスの宗教問題は、これからで、エリザベス1世の死後、スコットランドからジェームス1世がイギリス王としてやってきます。 このときスコットランドのカルビン派の考え方がイギリスに入り、国教会の考え方が、いかにカトリック的なのかに疑問をもった人々による国教会の改革運動が起こります。 それがピューリタンです。 ピューリタンは、弾圧され、そのためイギリスから逃れたのが、ピルグリム・ファーザーズなどです。 ピューリタンの逃れた先は、アメリカとオランダがほとんどでした。 ジェームス1世の次のチャールズ1世の時代になると、ピューリタンばかりでなく、スコットランドのカルビン派、カトリックも弾圧の中心となり、それらが団結し、一挙に国教会側との対決に至ります。 これがピューリタン革命です。 国教会との戦いが進むと、考え方の違いから、カトリックが、そしてスコットランドのカルビン派(長老派)が戦いから手を引き、革命軍のほとんどが会衆派となり、ピューリタン革命が成功します。 会衆派の中心であったクロムウェルの死後、会衆派は勢力を失い、チャールズ2世が王政復古となります。 チャールズ2世は、カトリックを優遇したため、国民の大多数の国教会の反発にあい、チャールズの子ジェームス2世の時に名誉革命が起こり、イギリスでは国教会中心がようやく固まります。 その間会衆派をはじめとするピューリタンは、アメリカに逃れて、後のアメリカ合衆国の基礎をつくります。

jazzyheart
質問者

お礼

丁寧な説明、大変参考になりました。 回答、ありがとうございました

その他の回答 (4)

  • tiuhti
  • ベストアンサー率66% (447/668)
回答No.4

No.3の方も仰っている様に、国教会成立の時点で、それほど目立った反発がなかったのは、教義の点でほとんど違いがなかったからでしょう。 (参考URLもご覧ください) 英国国教会が、教義の点でもプロテスタントになったのは、次のエドワード6世の時代で、英語の一般祈祷書の使用の強制をきっかけに、イングランド南部で農民暴動などが起きています。 その後も宗教対立は、ピューリタン革命(それと同時期のアイルランド支配の強化)等々、長く影響を及ぼしていきます。

参考URL:
http://jp.encarta.msn.com/encyclopedia_761562628_3/content.html
jazzyheart
質問者

お礼

ありがとうございます、参考にさせていただきます。

  • pri_tama
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回答No.3

 私の理解なのですが、英国国教会ってTop(首長)がローマ教皇か英国国王かの違いで教義に殆ど差が無く、教会の上層部以外には国教会に変っても対して影響が無かったからでは?  (実際、英国内の聖職者に対して国王がキリスト教の首長であり、保護者である事を認めさせた事が、国教会の始まりな訳で…。)  まあ、大法官トマス・モアの様に反対して処刑された方もいますが…。  なお、英国でも大陸で有った様なプロテスタントとの抗争は有りました。もっとも国教会(国王)側がプロテスタントを迫害するという形でしたが。  ヘンリー8世の娘であり、ブラッディ・マリーと渾名されるメアリー1世による大虐殺、メアリーの異母妹のエリザベス1世による迫害、そして清教徒革命(内戦)が有る訳ですし…。

jazzyheart
質問者

お礼

確かに、有名どころではあります。ただ、大陸側に比べるとマイナーな気がするのはわたしだけでしょうか。 回答、ありがとうございました

  • tanuki4u
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回答No.2

アンリ四世 元々ユグノーだった、アンリは王様になるために(パリに平和理に入城するために)カソリックに改宗しています。 ヘンリー八世のカソリックバッシングも、金に困ったヘンリー八世が教会の資産を没収するために行った面もあります。 宗教戦争が政治を巻き込んで というのではなく、政治や経済問題が「宗教を理由に」戦争したという感じです。

jazzyheart
質問者

お礼

なるほど。色々な理由が並行的に、といったところですね。 回答、ありがとうございました

  • tanuki4u
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回答No.1

ピルグリム・ファーザーズ → これらは清教徒 宗教改革は、一面で経済と政治闘争。 30年戦争は、ハプスブルク家によるドイツの一元支配に対する、各領邦の自治権確保運動です。フランスのユグノー戦争も三人のアンリに象徴されるように、次は誰が王様になるのよ?の闘争。 で、この視点でイギリスを見ると 1 ノルマンコンクエストでそもそも王権が強かった 2 バラ戦争で、その王権の中で、だれが一番強いか決着が付いていた これの生き残りゲームで、勝ち残ったのが、ヘンリー八世の父親、ヘンリー七世となります。 なので、国内で宗教にかこつけて大げんかをする必要が無かった分けです。

jazzyheart
質問者

お礼

王権が強いというのは、納得がいきます。 回答、ありがとうございました