yy8yy8az さん こんにちは。
直前のお礼欄にお書きの内容に反応しました。
★ (No.11お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
でも、男の性欲がこれほど強くなくても良いのでは、と思ったのです。
例えば、人間にも発情期なるものが年に四回ぐらいあって、そして一週間もすれば消えてしまう、としたら。
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☆ これでしたら 強い・強くないの程度問題ではなく 動物のような本能の問題にからませて見ておられると受け取りました。
つまり逆に言ってわたしの回答は こうです。
○ 社会における男女両性の関係として 人間としてのふつうの交通(まじわり)関係から 特殊に性愛をともなう関係に到るまでの思惟と行為は そのすべてが 意志にもとづくものである。それゆえ ほかの動物におけるような本能の問題とは切り離されている。
★ なぜ、男の性欲はこんなにも強いのか?
☆ の問いに直接には答えていませんが 強い・強くないの程度問題そのものが重要なのではないという意味になると思いますが どうでしょうか。
すなわちいささか冗長になるかも知れませんが
★ 人間以外の動物はそれほどでもないと思いますが、人間は時として、殺人さえも起こします。
☆ とおっしゃるとき 二つの事柄がかかわって来ると考えます。
まづ
★ 人間は時として、殺人さえも起こします。
☆ つまりこれも 意志の問題ですね。自由意志による判断と選択とさらにその踏み切りにかかわります。
言いかえると 殺人をしなくて済む・あるいは しないというのは ひとの意志行為です。それと同じように――いかに 性欲がつよいとしても―― あるべき姿ではないかたちでその性欲に従うかどうかは元より しかるべき交通において性愛関係に到るかどうかも 当然の如く おのおの意志による自由な判断にもとづくということを意味する。こう考えます。
もう一つの事柄として ですからこれは蛇足になるでしょうが
★ 人間以外の動物はそれほどでもないと思いますが、
☆ については この人間とそれ以外という区別は 程度の区別ではなく 質の差異をともなっていると考えるからです。
早くいえば・そして低俗に言えば まづ第一点として ひとは四六時中 発情しているという状態になりうる特殊な動物である。第二点として しかもそれと同時に この発情を――いかなる時のいかなるかたちの発情であっても その発情を―― 本能によって行ないに移すものではないというやはり特殊な動物として生まれて来ている。
ですから言いかえると これらの特殊性は 第二点がもろに自由意志の問題になっていますし 第一点も間接的に 《本能による行動》から《意志による行為》への質的な進化〔かどうか〕の問題そのものです。
人間存在は――ほかの動物から進化しているのか退化したものなのか分かりませんが―― 明らかにほかの動物とは その存在じたいに固有の内容があると考えます。
そしてこの人間に固有の存在性の中に 強いか強くないかの程度問題を超えて性欲とそれをめぐる行動のあり方が納められていると考えます。どうでしょう?
* もし仮りに 発情したまま・欲情のままに行動したとしましょう。(ありうるかも知れません。独りでいるときには しばしばあり得るようです。その延長線上に 仮りに 欲望のかたまりとして行動したとします)。
ただし その時にも 事後的にとしても あぁ おれは欲望のかたまりと化していたと気づく《意志行為の主体》として わたしは存在します。
もし楽観して言うとすれば こうです。この自由意志の顕揚のために――つまりは言いかえると やがて将来すべきこととして 人間存在よ 万歳! と言わしめんがために―― 性欲を本能の次元から切り離してかたちづくりたまうた。(あるいは ひとが おのれみづから願って そのように進化した)。乞う ご批判。
お礼
私の質問に関係していることのようですが、答えられません。 分からないのです。 回答ありがとうございました。 ―――――――――――――― これで質問を締め切らせていただきます。 みなさま、回答ありがとうございました。