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何故、学校教育に成果主義を入れないのか?

 学校こそ成果主義を入れるべきだとは思いませんか? 例えば  ・生徒と保護者の支持率  ・生徒の全国テストの成績  ・部活動の成績 などで決め もし、それらの成績が著しく悪かったら免許剥奪など 教師に成果主義を入れることに賛成ですか?

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  • tknaka
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回答No.19

#16, #17です。質問者様はただ単に教師にイチャモンを付けたいだけで、社会経済の全体の中で教育問題を真摯に考えているわけではないことが分かりました。 教師の労働に全く期限がないと本気でお考えですか? 毎週複数の授業をするための準備はいつするのでしょうか? 「次の授業」をしなければならないというのは期限に他なりません。また、その授業は指導要領に沿って内容を網羅していくものでなければなりません。(実際には昭和の戦争時の歴史をほとんど扱わずに終わりにしてしまう教師が居て、それで許されているのは、文科省、教育委員会、教師、親共におかしい) また、試験はいつまでに作成しなければならないか、採点をいつまでに終わらせて成績表を付けなければならないか、すべて期限に縛られています。真面目な教師はそれをすべてキチンと期限内に終わらせるために、授業の空き時間はもちろん、放課後部活が終わった後も時間を取られます。更に、成果主義として、新しい学問的知識を更新していくとなったら、長期休暇中しか時間は取れないでしょう。その時間も次の学期の準備をしているわけです。また、長期休暇中に出した大量の宿題の採点をするならば、次学期が始まった直後は採点に時間を要するので、数週間分の授業準備はすべて長期休暇中に終わらせて置かねばなりません。複数科目を教え、上記のことをすべてやろうとした場合、2倍の時間がかかることをお忘れなく。そのため、複数科目の担当は教師本人の自己責任に基づく希望のみに拠る、と制限を付けました。更に、試験において選択問題を禁止して記述問題にした場合、採点にかかる時間が大きく伸びることになります。受験産業化のために選択問題・知識問題が氾濫したわけで、学校での試験問題が知識偏重(考えることではなく)になっていったのもこうした産業化の弊害ですから。 また、中卒に関しては、経済的な自然の流れから給料が上がっていくことは必死です。高卒採用が減っていくことになるので、高卒を採用できる企業はある程度の仕事の可能性がある魅力のある部分に限られていくことになると思います。おそらく現在の大卒レベルの仕事が高卒に振り分けられていくでしょう。変革後の大卒レベルは現在の修士レベルになっていくと思います。とすれば、現在の高卒レベルの仕事は変革後の中卒レベルになっていくことになります。単なるモラトリアムとしての高校・大学は必要ない。専門学校関係は中卒から入学を受け付け、実務レベルの教育を分担していけば良いと思います。また、インターンシップなどをもっと広範囲に適用し、教育の実態が実社会と乖離して行かないようにする工夫も必要でしょう。 教育改革は、社会全体の改革を含まれていなければならず、それを無視した教育だけの改革は意味がありません。また、教育に言う成果主義とは平均点を何点上げたということではなく、生徒が知らなければならないこと、考え方の根本を十分に教えたかどうか、子どもがそれを実行できる状況になっているかどうかが判断されるべきです。現在の相対評価制度(5は何人までというような)ではなく、絶対評価で判断していくべきと考えます。何人居ようがテストの成績80点以上は5、と言ったような。50点以上取れない場合は、単位を上げないという形にします。受け持ちの生徒の5割以上が毎年単位を取れないような場合は、教師の能力不足を考えていく必要があるでしょう。 そういう意味での成果主義導入は必要と考えます。ただし、こうした教育に右翼的、左翼的な偏向を付けてはならず、文科省および教育委員会による偏向評価は排除されるべきです。

tomodathi
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 すいません、この前の週末にいやな教師に会ったので少し私情をはさんでしまいました。しかし、確か絶対評価はもうすでに何年か前からなってると思います。 つまり、こういうことですよね? 今の高卒レベル→中卒 今の大卒レベル→高卒 今の大学院→ 大卒

その他の回答 (18)

noname#97906
noname#97906
回答No.18

利益追求社会、新自由主義に基づく規制緩和、成果主義 世相を象徴するこうした言葉を組み合わせると その先には金もうけのためには企業倫理を簡単に外す何でもアリの社会が見えてきます。 今回のアメリカ発の金融危機はそうした中から発生した現象といえます。 懲りずにアメリカ金融界が高額報酬に戻りつつあることにオバマ大統領が釘を刺したりしますが 崩壊した社会倫理を再構築するのは大変なことだと考えられますが暮らしやすい社会にしていくためには必要になります。 教育が導く人間形成から落ちこぼれた人間を社会的に使えるように矯正して再生適用するのが如何に困難であっても それでもそれをこぼさないような再教育や社会システムは必要なのです。 まだ固定化されていない教育段階で将来必ず考え方の矯正が必要になる教育を施すのは教育方法として決していいとは言えないでしょう。

  • tknaka
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回答No.17

#16です。教育に成果主義を入れることを考えているんですよね? なぜ名前だけで実質を伴わない高校が「高卒」というブランドのためだけに必要なんでしょうか? 企業側も実質を伴わない「高卒」にお金を払うよりも、実質を伴う「中卒」を鍛え上げれば良いだけだと思います。そのため、高校レベルの内実を伴わない高校は廃校。同様の理由で留年・中退規定も「原則」ではなく「実効」のあるものでなければなりません。ただ、「中卒」「留年」「中退」を理由に「人格的に蔑む」風潮は厳しく撤廃していく必要があります。これは「学校の成績≠人格」の徹底と絡んできます。 部活動を「非専門教師が行ない、しかも成果主義に入れなければならない」理由を提示ください。例に挙げたように、数学教師は数学を教えることを勉強して数学教師となりました。剣道を教えるための勉強はしておらず、怪我をした時などの救急医療の心得なども「数学教師になるため」に義務付けられているものではありません。しかも部活動の時間は勤務時間外になります。以上の理由から、これは成果主義から外す必要があるのでは? 数学教師の教育成果としては「数学」の成果を問われるべきで、専門外の剣道部の成績で問われるべきものではないと思います。 また、企業にてサービス残業も規制されている状況で、教師だけサービス残業を「強要」されなければならない理由を合理的かつ説得的に提示ください。これは「授業準備・試験問題作成・試験採点」に関しても同様ですので、これに関しても理由をお願いします。なお、「わざとだらだらやって不正受給」は一般企業でも見られるため、説得的な理由とはなりませんので悪しからず。また、不正受給は成果主義で指導・訓告・処罰の対象になってくるはずです。 「教師が生徒の躾に干渉してはいけない」というのは分かりますが、「躾がなっていない」場合は放校処分を行なう権利を当然有しているものと判断して良いですね? 親はそれに対して文句を言い、嘆願・脅迫の類を行なうことは認められません。そうしなければ学校の秩序崩壊が起こるのは確実です。 残業・長時間通勤に関しては、「禁じる」というとこまでは必要ないかも知れませんね。ただ、これを「企業が強要することは禁じる」必要があります。通勤時間をドア・ツー・ドアで一時間以内を通常とし、その時間内における家賃の7割を保証するなど。その分給料体系の見直しは必要となりますが。ただ、「家賃が高いからもっと遠くに住め」というような圧力をかけることを禁じるべきです。(これは東京一極集中など過度の都市化、過疎化も防げて地方活性化の意味でも良策) 中高で複数分野の担当を許可するならば、それぞれの科目に免許を取っていること、それぞれの科目をトップレベルで維持することを義務付け、教師側の希望および自己責任に拠るとし、学校運営側が強制できない形にするべきだと考えます。そうでなければ、学校運営側が教師に無理を押しつけた上で、教師自身が成果主義で引っ掛かることになり、二重三重の不利を押しつけられることになります。 教育に成果主義を導入するのは、現状にそのまま取り付けることは不可能です。成果主義を導入できるだけの素地を作る必要があります。現状の学校および教育形態はその素地を持っていないと判断しています。

tomodathi
質問者

補足

部活動を「非専門教師が行ない、しかも成果主義に入れなければならない」理由を提示ください。例に挙げたように、数学教師は数学を教えることを勉強して数学教師となりました。剣道を教えるための勉強はしておらず、怪我をした時などの救急医療の心得なども「数学教師になるため」に義務付けられているものではありません。しかも部活動の時間は勤務時間外になります。以上の理由から、これは成果主義から外す必要があるのでは? 数学教師の教育成果としては「数学」の成果を問われるべきで、専門外の剣道部の成績で問われるべきものではないと思います。 また、企業にてサービス残業も規制されている状況で、教師だけサービス残業を「強要」されなければならない理由を合理的かつ説得的に提示ください。これは「授業準備・試験問題作成・試験採点」に関しても同様ですので、これに関しても理由をお願いします。なお、「わざとだらだらやって不正受給」は一般企業でも見られるため、説得的な理由とはなりませんので悪しからず。また、不正受給は成果主義で指導・訓告・処罰の対象になってくるはずです。  教師は勤務時間8時間ありますね? しかし、休み時間、昼休み、授業の無いときを含めると実質の労働時間は4,5時間になりませんね? もし、残業をみとめるならその時間に遊んで残業をして受給する人間が増えますが、一般企業ならばもし、そのようなことをした自分がその分苦しみます。しかも、一般企業ならば仕事の期限はあるが学校にはないから残業を認めるわけにはいきません。 なぜ名前だけで実質を伴わない高校が「高卒」というブランドのためだけに必要なんでしょうか? 企業側も実質を伴わない「高卒」にお金を払うよりも、実質を伴う「中卒」を鍛え上げれば良いだけだと思います。そのため、高校レベルの内実を伴わない高校は廃校。同様の理由で留年・中退規定も「原則」ではなく「実効」のあるものでなければなりません。ただ、「中卒」「留年」「中退」を理由に「人格的に蔑む」風潮は厳しく撤廃していく必要があります。これは「学校の成績≠人格」の徹底と絡んできます。  それを認めるなら企業も中卒の就職をもっと広めるこ認めた上に 中卒の給料を上げたることを認めるならばいいですが。

  • tknaka
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回答No.16

何を以て成果主義と言うのか分かりませんが、私自身の考えで言えば成果主義を入れることには反対しません。ただ、その結果出てくるものはおそらく質問者様が考えているものとは異なると思います。 ・高校・大学のうち、授業レベルが国内的・国際的に見て明らかに劣る学校は廃校(私立を含む。大学で分数計算の補習などは不可能) ・義務教育を含め、授業内容を十分に理解していない生徒は留年 ・高校・大学など義務教育以降の教育機関に関しては複数回の留年は強制退学(具体的に何回にするかは議論する必要があります) ・すべての試験から選択問題を末梢、記述問題のみとする (鉛筆を転がして正解にあたるような問題はなくす。これは定期テストから司法試験まですべてそうすること) また知識を聞く問題も極力減らす。(歴史の年号・人名問題や条文名を聞くような問題) ・教育は「正解」を教えるものではなく「考える手法」を教えるものであるということを徹底する ・部活動は教師の教育範疇ではないため、学校とは切り離す (地域で心得のある者がコーチを務めるか、あるいは各部活動のためにそれを専門とするコーチを自治体が雇う) ・授業で扱う内容がより密になるため、学級規模を小さくする (一学級18人程度) ・躾の部分は、家庭教育の範疇であるため、「躾」のできていない子の入学を遅らせる、または特殊学校に通わせる。特殊学校の教員に関しては社会教育士など特別の免許制度を構築する。(親の成果がマイナス評価される) ・親が子どもとの時間を十分に取れるように残業や長時間の通勤を禁じる。(企業は短時間通勤を可能にするように立地・家賃手当を考える必要あり) ・「学校の成績≠人格」であることを教育関係者、親、世間が明確に自覚すること ・教師は基本的に単科教師とし、複数分野の科目を教えることはしない。(各分野の先進レベルを維持するのはそれ自身勉強が必要で難しいため) ・授業準備、試験問題作成、試験の採点など雑務もすべて公務であるため、労働時間に組み込む ・教員を対象として各教育分野に関する継続教育の機会を設ける こうした前提の中で教師に対する成果主義を入れることは可能でしょう。 特に質問者様の挙げている部活動の成績を現状において評価対象とすることは絶対反対です。数学の先生が自分の趣味から剣道部の顧問をしていたとしても、剣道の師範ではないため、剣道の成績を上げることができなかった直接責任を取る必要はないと考えるからです。また、剣道部の指導を熱心にしたことから数学の授業準備が十分でなかったとしたら本末転倒です。

tomodathi
質問者

補足

・高校・大学のうち、授業レベルが国内的・国際的に見て明らかに劣る学校は廃校(私立を含む。大学で分数計算の補習などは不可能) 大学のみ賛成理由は、高卒でないと就職がかなり制限されるため ・義務教育を含め、授業内容を十分に理解していない生徒は留年 ・高校・大学など義務教育以降の教育機関に関しては複数回の留年は強制退学(具体的に何回にするかは議論する必要があります) 基本賛成、しかし、原則にして欲しい ・すべての試験から選択問題を末梢、記述問題のみとする (鉛筆を転がして正解にあたるような問題はなくす。これは定期テストから司法試験まですべてそうすること) また知識を聞く問題も極力減らす。(歴史の年号・人名問題や条文名を聞くような問題)賛成 ・教育は「正解」を教えるものではなく「考える手法」を教えるものであるということを徹底する ・部活動は教師の教育範疇ではないため、学校とは切り離す (地域で心得のある者がコーチを務めるか、あるいは各部活動のためにそれを専門とするコーチを自治体が雇う)反対 ・授業で扱う内容がより密になるため、学級規模を小さくする (一学級18人程度)賛成 ・躾の部分は、家庭教育の範疇であるため、「躾」のできていない子の入学を遅らせる、または特殊学校に通わせる。特殊学校の教員に関しては社会教育士など特別の免許制度を構築する。(親の成果がマイナス評価される)賛成 しかも、教師は生徒のしつけに干渉をしてはいけない ・親が子どもとの時間を十分に取れるように残業や長時間の通勤を禁じる。(企業は短時間通勤を可能にするように立地・家賃手当を考える必要あり) 反対 禁じるのではなく残業は ・「学校の成績≠人格」であることを教育関係者、親、世間が明確に自覚すること 賛成 ・教師は基本的に単科教師とし、複数分野の科目を教えることはしない。(各分野の先進レベルを維持するのはそれ自身勉強が必要で難しいため) 大学のみ賛成、中高は多くの強化を教えたほうが給料を高くする  ・授業準備、試験問題作成、試験の採点など雑務もすべて公務であるため、労働時間に組み込む 反対、わざとだらだらやって不正受給する教師が増えるだけ、 ・教員を対象として各教育分野に関する継続教育の機会を設ける

  • dai-ym
  • ベストアンサー率22% (848/3824)
回答No.15

子供の教育とは短期的に成果が出るものでないことが多いです。 大人になってから成果の出ることもあるし、1年や2年で成果の出るものじゃない。 またテストの結果や部活の成績を成果とすると今以上に出来る生徒の取り合いになり、出来ない生徒の底上げが出来ません。 実際に実力テストのときにできの悪い生徒を無理やり休ませた学校とかありましたよね。 そういうふうに出来の悪い生徒を排除する流れになってしまいます。 生徒と保護者の支持率だと余計モンスターペアレンツに気を使う、酷い教育になってしまいます。 長期的に見ないといけない部分も多くあり、成果の分類分けも非常に難しいので現実的には無理ですよ。 ただ、成果でなくもう少し能力を見るようにする必要はあると思います。

回答No.14

 私は教師を長年しておりますが・・・  学級の子供をこの子はAでこの子はCと評価することは不可能です。学習面ではいろいろなテストなどの方法があるので評価することはできます。それでも同じ成績でもこの子はもっと伸びるはずだと心を鬼にして通知票に低い評価を書くこともあります。逆に成績は低いけれど努力を認めて下駄を履かせた通知票を書くこともあります。しかし、どんな子供にも輝いている所があります。輝く時もあります。  理解は遅いけれど真面目に学習する子供、勉強は出来ないけどクラスの中心になれる子供イロイロいると思います。私はそんな子供達をこの子はAでこの子はBと決定することは出来ません。  貴方は二人のお子さんがいるとしてどちらがAでどちらがBであると自信を持って言えますか?  多くの職場でも結果は出ないけれど、みんなの相談役になっているような人や、宴会部長を引き受けるような人、人の業績を自分の成果のように自慢するヤツ、自分のミスを他人に押しつけるヤツいろんな人がいると思います。しかし、上司はいろんな面を把握して彼は係長に彼は課長にと部署を決めなければなりません。  数字で簡単に人事評価が出来るなら簡単ですが我々教師でも子供の全ての部分をABCで評価することは不可能なのです。  まして校長が全ての教師をABCで評価することは不可能だと思います。ただ、今でも能力があると認められる教師は教育委員会に出向したり人より速く教頭・校長に出世していきます。また教師の問題ある行動は先輩教師や教頭・校長に指導されています。  学力検査の結果を見せ合って問題点を話し合うことも普通の行われています。  

tomodathi
質問者

補足

> 学級の子供をこの子はAでこの子はCと評価することは不可能です。 学習面ではいろいろなテストなどの方法があるので評価することはできます。それでも同じ成績でもこの子はもっと伸びるはずだと心を鬼にして通知票に低い評価を書くこともあります。逆に成績は低いけれど努力を認めて下駄を履かせた通知票を書くこともあります。しかし、どんな子供にも輝いている所があります。輝く時もあります。  理解は遅いけれど真面目に学習する子供、勉強は出来ないけどクラスの中心になれる子供イロイロいると思います。私はそんな子供達をこの子はAでこの子はBと決定することは出来ません。 そういうは主観性の問題になります。 気に入った生徒のみ、評価を上げるという主観が多くなりますが 成果主義つまり、目に見える数字のみの評価が公平性を保ちます。 結果が見えなければ努力してないとみなせばいいのです。 例えば、真面目にやってるがテストの点が悪い ・要領が悪い ・真面目のふりをしている この二つしかありませんどちらにしても、悪い評価ですよね? その点成果主義は努力した人が報われる評価になります。

回答No.13

質問者の逆質問に回答しておきます >教師が人格教育や集団行動能力、コミニケーションスキルを評価、教育ができると思いますか?まず、教師にそれらが備わっている人間が何割いますか?それらは各個人で身につけるものであって教師に身につけられるものではない。 根本的に、正しい指摘ですが、これは質問者の「教育」の考えと、私の教育の発想が違うことに問題があります。  極めて簡単に言えば、教育者は「子供が学習する環境を整備する」のであって、直接的に教えることはありえない、という考えです。  これは数値化できる学力であっても同じことです。 従って、全ての教育の実情は教育者の手腕に依存しているわけではなく、むしろ当人とその当人の周囲環境の問題が「教育」問題と言えます。  以上のことから、教育者がどんなに優秀でも、教育授権者の資質で判断される成果主義の導入は限界がある、という話です。  ところで、成果主義という言葉を安易に使っていますが、現場教育でも成果主義は存在しています。学力考査の担当クラス別の平均点などは担当教諭で評価されますので、公教育でも成果主義は存在しているのが現実です。  習熟度クラス別編成があるなどの教育環境を考えれば、成果主義の導入が出来ない背景があるのは当然のことでしょう。  そもそも、教育評価=成果とは何を基準するのか?という問題を放置している人が『成果主義』という言葉を安易に考えていると思われます。  もし、質問者に成果主義の成果とは具体的に何を指し、どう考課するのか?という基準があれば聞いてみたいものです。  

tomodathi
質問者

補足

>そもそも、教育評価=成果とは何を基準するのか?という問題を放置している人が『成果主義』という言葉を安易に考えていると思われます。  もし、質問者に成果主義の成果とは具体的に何を指し、どう考課するのか?という基準があれば聞いてみたいものです ・ 生徒の学力が上がったかどうか? ・ 担当してる保護者、生徒からは支持されているか? ・

  • jamiru
  • ベストアンサー率5% (170/3044)
回答No.12

学び舎に正解は無いよ。 塾にはあるけど。 正解が大好きになると、すばらしい世の中の正解を示しているカルト教団にはいっちゃうよぉ~? 学校教育の成果主義は道徳の時間でこりてないのか。

  • zenuemon
  • ベストアンサー率29% (160/537)
回答No.11

地方では、職員に成果主義(評価制度)を取り入れようとしている県もあります。 公立学校の先生の給料は、もとは国民の税金なので 無駄な税金を減らせるのなら、公立学校に成果主義を導入してもいいと思います。 ただ、生徒と保護者の支持率=教師の人気であっても教師の実力とは限らないし、 生徒のテストの成績や部活動の成績が基準なら将来伸びる生徒を選んでしまうし、 そもそも出来の悪い生徒や外車を買う金はあるのに 給食費や授業料を払わない保護者に評価される筋合いもないです。 ですから、教師を評価するのは、生徒や保護者ではなくて、 教師の上司、すなわち教頭・校長が教師の仕事の過程・姿勢・成果等をもとに正当に評価するのです。 まー、成果主義といった大げさなものではなく教師間に給料格差をつけるのです。 教師間で給料の格差をつけることで教師のやる気を起こさせ、 教材や指導方法に反映させて、生徒のモチベーションを上げさせるのです。 ただ、最近は民間に限らず学校でもパワハラ校長やセクハラ教頭のニュースが多いです。 まずは、校長・教頭の育成が先のような気がします。

回答No.10

 根本的に成果主義は採用されていると言えます。    問題はそれを第三者が認識できない程度の見えない評価になっていることでしょう。  しかし、成果主義の限界を考えれば、教育における成果主義の妥当性は疑わしいものでしょう。  事例を精査してみましょう。 ・生徒と保護者の支持率  生徒と保護者の支持があることが、良い教育を保障しません。ただ生徒・保護者に迎合的な教育が行われてしまう可能性があります。 ・生徒の全国テストの成績  予備校・塾などで明確に数値化できる評価体系があれば成果主義は可能ですが、学校教育では、数値化できない教育内容の評価があります。  人格教育・集団行動能力・コミニケーションスキルなどは評価が不可能です。 ・部活動の成績  現在部活動を行わないケースが多い上に、部活動では成績に表れないケースもあります。ただ部活動の成績を求めるのが、部活動教育の目的ではありません。    実は、成果主義の評価は、公教育に馴染まないのです。 それは指導要領にもあるように、学力・成績以外の部分を学校教育が主体的に取り扱う必要性があるからです。  以上のようなことから、成果主義の導入は程度論であり、公教育には適さないと考えられます。  ただし、私学・市中教育などで、数値的評価が可能な領域の教育を主体にするケースは、成果主義もいいと思います。  もっとも、教える児童・生徒次第で教師が査定されるケースもあるので、運みたいなものもあり、あまりいいとは言えません。

tomodathi
質問者

補足

教師が人格教育や集団行動能力、コミニケーションスキルを評価、教育ができると思いますか?まず、教師にそれらが備わっている人間が何割いますか?それらは各個人で身につけるものであって教師に身につけられるものではない。 

noname#97906
noname#97906
回答No.9

勉強の出来不出来などが社会にでてから人の役に立つ人間になっていくかどうかということの基準にはならないからね。 極端な話、学校での勉強も出来て有名大学に入りながらオウム真理教に入って無差別殺人をする人間になってしまうのもいるということで、 教育の目的を根本的に判っていないですよね。

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