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古代、大和湖の存在を証明するもの
日本最古の道といわれる山辺の道は、奈良盆地の東の山裾に伸びています。 山辺の道の標高は約60m~70mだそうです。 なぜ山麓に道がつくられているのか。 その理由は、6千年前、大和盆地にはまだ巨大な淡水湖が存在し、その湖岸にできた道が山辺の道である という説があることを知りました。 樋口清之氏が唱えた説だそうです。 大和湖があったことを示すもの(化石など?) は発見されているのでしょうか?
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樋口清之氏の著書を読んでいませんが、いくつかのWebには 「6千年前、大和盆地にはまだ巨大な淡水湖が存在し」と同じ文言が出てきますね。 私は「巨大な淡水湖」という表現に疑問をもちました。 淡水湖ということは、近くの山から流れ出た川の水が盆地に溜まったということになります。 盆地の標高は、40m以上ありますね。 素人考えですが、 山辺の道は、縄文人たちが狩猟や採集をするために自然にできた道にしては、現在でもはっきりと道筋が分かるほどのしっかりした道で、距離も長く、物資の運搬を目的に当時の王権が作ったことは間違いないでしょう。 この道の建設を必要としたころには、巨大湖があるからその湖畔に沿って山辺の道ができたのではなく、巨大な湖はなく、あたり一面湿地帯で南北を通した川もなく、舟運を利用できない状態だから、この道ができたのではないでしょうか。 山の辺の道付近の地質と地形 http://near.nara-edu.ac.jp/bitstream/10105/355/3/kobunkazai4_15-17.pdf ここでは 「ある広さをもった湖沼を含むやや大規模な水域」があったと推定されています。
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- toshineko
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地質学の研究によると、後期更新世以降(数万年間)大きな湖だった時代はなさそうです。小規模な池沼はあったようなので、盆地の中心部は湿地帯や河川の氾濫原となっていて開発の手が入り難かったのでしょう。 参考URLの11枚目あたりに記載があります。
お礼
返事が遅くなって申し訳ありませんでした。 今、ご紹介いただいたサイトを読みました。 ●山の辺層は,砂層・シルト層・泥層を主とし,しばしば泥炭層をはさむ. ●層相の側方および垂直方向の変化が激しい→河川成堆積物である. ●当時すでに佐保川・布留川・初瀬川等の河川の基本的流路が決定されていた。 ●奈良盆地にはかって奈良化石湖の存在が考えられたことがある. ●泥炭層の形成と奈良化石湖の関連をとく研究者もいる。 ●泥炭層の水平方向の拡がりは大規模でない。 またその形成年代もそれぞれの地点で異なる。 ここから奈良化石湖は存在しなかったと考えられる。 湿地帯であったことで稲作が広がり、人口密集地となってクニが形成されたのかもしれませんね! 山辺の道がなぜ標高は約60m~70mのところに作られたのでしょうね。 次から次へと疑問がわいてきます。 大変勉強になりました。 ありがとうございました!
補足
回答ありがとうございます。 回答くださってとてもうれしいです♪ 今から出かけるので月曜日にご紹介いただいたサイトをじっくり読んで 返事いたします。
お礼
回答ありがとうございます。 ご紹介いただいたサイトには ●盆地東縁部の南半は、領家式岩類と朝和れき層と沖槙層のみよりなる。 ●朝和れき層とは、旧朝和村を中心に分布する更新統に対してつけられた地層名 ●模式地とされている長岳寺付近では、径1αm前後の亜円れきよりなるれき層 ●崇神・景行陵内をはじめ、他の地域では砂層・粘土層が多い。 ●1950年に織田延男氏は天理市南部の地震探査の結果、盆地東縁郡の更新統(ないし鮮桝統)の厚さを約90mと推定している。 ●朝和れき層は、段丘堆積物・扇状地堆積物よりなる他の更新統とは異なり、ある広さをもった湖沼を含むやや大規模な水域に堆積した比較的厚い地層と考えられる。 とありますね。 湖があったかなかったかについては、なかなか判断が難しいということなのでしょう。 今後の研究に期待したいです。 おっしゃるように湿地帯であったために、 標高約60m~70mのところに道を作ったのかもしれません。 その後治水技術が進んだのちに、上つ道や下つ道がつくられたのかも。 すばらしい推理をありがとうございます。 質問とずれますが 長い間古墳の向きがばらばらなのはなぜだろうと思っていましたが ここにヒントがあったので嬉しく思っています。 ●古墳の方向はそれぞれの地域の侵食方向即ち残丘の延びと配列の方 向に一致している。 もともとあった丘陵を生かして古墳を作ったので、 古墳の向きが一定しないのかもしれませんね! 大変勉強になりました。感謝いたします。