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織田信長についてどう思いますか?

織田信長といえば、大河ドラマや本などで、多く目にする機会があります。すぐれているというのはわかりますが、どういうところが優れているのか、あるいは良くなかったのか、みなさんの意見を聞きたいと思います。

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noname#115647
noname#115647
回答No.7

戦というものは、戦術面と戦略面を併せ持たなければ本当の価値はない。 そういった意味で戦国時代における最強の武将は、やはり織田信長であったろうと思う。またよく言われるように天才性があった。 甲斐兵は強かったが、武田信玄は必ずしも戦術面における天才ではなかった。大敗した戦も三度ばかりある。しかし戦略面においては無駄がなく、戦えばほぼ領土を獲得してきた。また内政等においても優れた政治的手腕を発揮した。信玄の時代は全てにおいて磐石の体制である。 越後兵も強かったし、上杉謙信は戦術面において天才性があったが、戦略性に欠けた。晩年期を除けば領土を得ることが少なく、労多くして功少なしである。内政面においては手腕を発揮したが、天才にありがちな人身掌握術に優れていたとは言えず、磐石の体制ではなかった。 北条氏康は全てにおいてバランスが良かったが、天下を狙うほどの意欲はなかったようだ。 信長の家系は織田家でも主流ではなかったが、これは父信秀の力が大きかったと言える。また広大で肥沃な尾張平野は莫大な財源となったであろう。また尾張は京にも近かった。 お膳立てが調っており、織田家統一には少し苦労があったが、この点においては恵まれていた。 ただし当時尾張兵(農兵)は恵まれすぎてか日本一弱いと言われており、何か工夫する必要があった。長槍、長剣である。 桶狭間の戦いは、従来は雷雨を衝いての奇襲説とされていたが、ここ近年では正面攻撃の強襲説が有力とされている。 今川義元も武田や北条と張り合ってきた戦国大名である。のんびり休憩している時を奇襲されて、命を落とすほどの馬鹿ではあるまい。 確かに兵力差からいえば、信長にとってはバクチであったろう。 信長には少しばかり確信があったに違いない。相手のものよりも長い槍や刀で突きまくっていけば、兵力差はあれど、敵を崩せるという確信。 重い長槍や長剣を振り回せば体力を消耗するのが早いから、突きが主体であったろう。予備兵も無かった。 相手の槍の穂先や刀の切っ先が到達する前に、敵にそれを到達させる。後に帝国海軍が考えたアウトレンジ戦法を、信長は編み出していた。 一気果敢に攻め上げて敵は崩れ、なんと勝った。信長の戦術的勝利である。 それからの兵農分離、楽市楽座(六角定頼が始祖で、斉藤道三も行っていた。信長は道三を真似たのかもしれない)は説明する必要はないだろう。 とにかく信長が短期間で獲得した領土は異常ともいえる早さで、信玄や謙信、氏康もとてもかなわない。もっとも条件に違いはあるが、それにしても抜群の戦術性、戦略性である。 しかしさすがに長島や本願寺の一向一揆にはてこずった。なんせ死ねば極楽浄土行きが約束されているのだから、「死にたい、死にたい」と大集団が突撃してくるのは始末が悪いのであろう。さすがの謙信もてこずったし、戦国大名で一向一揆で殺されているのもいる。 (しかし太平洋戦争における日本軍の万歳突撃などで誤解されてはいるが、突撃は相手を一気にひねり潰すのは有効な手段だ。アメリカ軍も突撃は数多く敢行している。) しかし信長は、天才にありがちな人身掌握術に長けていたとは言えないであろう。裏切った者の数は多かった。浅井長政、足利義昭、松永久秀(これはどっちもどっちか)、別所長治、荒木村重、最後は明智光秀。 すべて信長の唯我独尊、人を人とも思わない性格がもたらした災いである。信長は参謀をも必要とはしなかったし、作戦面においては彼がすべてを決めた。 しかし批判はすまい。革新には信長のような人物を必要とするのは、多くの歴史が証明している。

doormat55
質問者

お礼

とても、わかりやすい回答でした。 これをみると、他国と織田家の比較などもわかりやすいです。 聞いたことがありますが、尾張の兵は弱かったようですね。 桶狭間については、今のところ奇襲説を私は支持しています。 このテーマも興味深いですね。機会があれば、この質問項目を設けたいと思います。 信長への評価、上杉、武田への評価もうなずきながら読みました。 ありがとうございました。

その他の回答 (8)

  • denbee
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回答No.9

No.8の方の意見がちょっと偏っているように見えますので、 ちょっと信長をフォローします。 「罪のない民衆を虐殺した」 という点を強調されていますが、本当にそうでしょうか? このころの宗教勢力は、武力を伴った政治団体であり、自分たちの権益を守るために、 たびたび政治に介入しています。 また、宗教勢力同士の抗争も激しく、「天文法華の乱」は宗教勢力同士の 抗争にも関わらず、民衆にも多数の被害を出しています。 そもそも、叡山にしろ本願寺にしろ他の大名と同盟を結んで、集団として行動しています。 「何の罪もない」「無力な民」がそんなことが可能でしょうか? 従って、これらの勢力を「無垢の民衆」と捉えるのは誤りです。 また、信長はきちんと手続きに沿って行動を行っています。 例えば、叡山の焼き討ちでは、前年に通告を行っています。 非戦闘員である女子供を巻き込みたくないのであれば、 事前に退避させておけばよかったのです。 (そもそも戒律を守るべき仏門の領土に女性がいる時点でアウトですが) 伊勢・長島の一向一揆に対する対応にしても、降参後に殺戮を行った点については、 言い訳しませんが、少なくとも降参する前の時点では信長軍と戦闘を 行っています。 (だから「降参」するんですが) 「何の罪もない民」がただ信長軍に殺されたわけではありません。 そもそも、伊勢・長島の一向一揆自体が本願寺からの差し金で武力蜂起を行い、 信長軍に対して先制攻撃を行っています。 「お上に楯つくな」とは言いませんが、少なくとも先に手を出しているのは 一向衆です。一向衆は何の罪もないのでしょうか? 降参後に殺戮の是非について、敢えて信長を弁護するならば、 先制攻撃を受けた点と、一向衆によって弟を殺された点でしょうか。 何にせよ、信長が 「一方的に罪のない民を殺した」 というのは、ちょっとフェアな説明ではないと思います。

doormat55
質問者

補足

この宗教に関する信長の行動については、今、調べたりしています。 わかりやすい補足説明、ありがとうございました。

  • hurasuke
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回答No.8

 美点と欠点についての意見とのことだったはずですが、あなたはどうやら欠点には目をつぶりたい方のようですね。多分これでわからなければ、多分伝わらないと思いますから最後にしますね。  あなたのおっしゃるように、その時代背景を把握しないことには人命の重さというのは確かに論じられないものかも知れません。ただ、数万年前の原始人の時代ならともかく、文明を持っていた時代の話です。殺生が禁じられていたのは明らかな時代の話ですから、現代と一緒だと私は思いますよ。  人が人を殺すことは、死を持って償う法がこの時代からありました。現代もそうですが、戦争とは国家として軍隊としてそれをやるのです。とても罪深いのはおわかりかと思います。しかし、情けないことに人間はとても愚かな存在で、たまに戦争をしてしまうのです。国内であっても対国外であってもです。できればなくなって欲しいですが、その希望は儚いものかも知れない。  では、捕虜や民間人の虐殺までも同レベルに論じるべきものですか?今話の論点は「政治機構が衰えて、乱れた世の中を統一する戦いの中」にあります。何の為に統一し、何の為に戦うのでしょうか?私は「その国の人間全てが幸せである為」以外の理由での戦いを全く許容できません。信長の戦いとは、基本的に自己満足の為のものであって、他者を幸せにする為のものとは無縁でした。私が信長を評価できない理由はそこです。  あなたは同じように虐殺を実行した劉邦を出して、権力者が民衆を切り捨てることを正当化しています。劉邦は項羽に比べればマシな人でした。項羽はもっと残虐に民衆を虐殺していますからね。その差があればこそ天下を取れたのでしょう。しかし、同様の理由で私には評価できません。また、信長の弟子であった秀吉も、民衆に対する仕打ちを何度も行っていて、人間として最低であったと私は思いますから。  そういう形で罪を正当化できる見方ができる方というのは、日本が行った侵略戦争も、西欧諸国も同様のことをやっているじゃないか!と正当化できるのではないですか?他の人がやっていようが、悪いものは悪い・・・それだけだと思うんですが、そうまで欠点に目をつぶって美点を探したいという心理はどうやっても理解できません。  しかも今回私が述べた虐殺は、国家対国家の正面決戦ではなく、無抵抗の民衆を虐殺した点です。時代背景とか以前に、人として最低です。それがお分かりにならないのならば、何を話しても仕方ないように思うのですが?  同時代に戦国武将は数多くいます。虐殺の記録のない武将ってたくさんいますよ。そういう武将ばかりであったのなら、無駄な戦乱の世にはならなかったと私は考えます。ただ、乱れてしまった世の中で、毒を持って毒を制すようなやり方しか通用しなかったのは事実なんでしょう。だからこそ信長のような猛毒が必要だったのだとは思います。思いますが・・・賞賛される筋のものじゃありません。歴史の中の悲しい1ページです。

doormat55
質問者

お礼

私は、功罪を合わせて知りたいと思っていますし、判断したいと思っています。ただ、より宗教と信長の背景を知ったうえで、コメントしようと思っています。 戦国時代は殺生が盛んにおこなわれていた秩序が失われていた時代だと認識しています。 そういう中で、秩序を取り戻すためには、戦によって秩序を取り戻す必要があったのだと考えます。 信長と離れますが、私自身は戦争について、なくなってほしいと常に思っています。戦争は外交の延長であるという論理もありますが、いつかなくなってほしいと思っています。ただ、それは理想です。現実に目を向ければ、また様々な見方をしないといけないと思っています。 戦争のことは長くなるので、別の機会に譲ります。項目を設けて、話したいと思います。 戦国にいたる背景をいえば、室町時代の将軍足利家の基盤はかなりもろいもので、守護大名が支えていました、将軍の暗愚な政治も多く、政治機構はあまり機能しなくなり、ついには、守護同士が争うようになりました。そういう歴史の流れの中に、信長が現れました。 私は全体的な判断として、信長は偉大な人間だったと思っています。 しかし、一揆の弾圧をおこなったことだけをみて、信長はだめだとは思いません。功罪みると功の方が大きいと思っています。 ありがとうございました。

  • jamiru
  • ベストアンサー率5% (170/3044)
回答No.6

信長は根性無し。反動からか根性がある人間を好んだ。 危機が迫ると部下を置いて逃げ出すほどです。 松永久秀、荒木村重、明智光秀など根性がある者に甘い。 腐った根性の持ち主である森長可にも甘い。 信長自身の発想力は敵将の頭蓋骨に金を塗った杯にして酒を飲む程度です。 佐々成政にダメ出しを喰らって自重したとか。 革新的なことも信長自身の発想と言うよりも、他者の発想をパクって部下にさせて更に色んな人に聞いて上塗りしていったものです。 だからこそ部下は自由な発想や行動が取れたのかもしれませんね。 気に入られなければ首が飛びますけど。

doormat55
質問者

お礼

大名をやって、いつ殺されるかわからない身分、多くのものを守り、ある時には殺害しなくてはならない、戦国時代という殺しあいの世界は、今の我々とは全く違う状況です。 そういう中で、平和を構築しようとする努力や意志の強さ、能力、多くの犠牲を払って、最後は謀反にあって殺害されてしまった。信長の行為は功罪あるでしょうが、中世から近代への大きな原動力になりました。 信長死んだらどうなるか、無になるという考えの人でした。 そういう信長を今の感覚で根性がないというのは、私はそういうふうに感じることはありません。 ですが、信長は根性無しという意見は、初耳であり新鮮に感じました。 荒木は裏切ったり、妻を捨てて逃げ、妻子を信長に殺されています。その行為は卑怯だと思います。 それでも、生きぬいたのは、また違う無常観、苦しみ耐える重さや辛さががあったのでしょう。 松永久秀はおもしろい武将ですね。裏切りを繰り返し、将軍の義輝を殺したり東大寺を焼いたりしています。確か3つの罪を働いたのですが、ご存知あれば、どなたか教えてください。 そんな久秀が信長に降って、将軍足利義輝と会った話はおもしろいですね。信長が過去の松永の行為を紹介し、さすがに松永も顔を真っ赤にしたとか。 最後は、再び信長を裏切り、信長がほしがっていた茶碗もろとも爆死するという、すさまじい人でした。信長より年はだいぶ上だったと思います。信長としてみれば、自分でもできないようなことをやってしまう、過激なじいさんだと内心、好感をもっていたような所があります。裏切っても、茶碗を差し出せば許そうとしています。 色々な方にこたえていただいております。ありがとうございます。 意見はさまざま、評価はさまざまあるのは当然です。 専門的に丁寧に答えてくださっている方々、ありがとうございます。 また、あまり知識はないけれど、好きだったり嫌いだったり、色々な意見をお持ちの方もいると思います。意見がなにかしらあったら、詳しくなくとも、ぜひ、回答してください。

  • hurasuke
  • ベストアンサー率18% (191/1056)
回答No.5

 返答ありがとうございました。ちょっと追加させて下さいね。ご迷惑になったらごめんなさい。 >ただ、弱い人に暴虐だったというのは、どうでしょうか?  返答にあげていただいた部分(身分にこだわらない抜擢)は信長の長所です。能力のある人間を取り立てることは、組織においてはとても重要で、その思考は現代社会でも必要なものです。  私が弱いものに対して暴虐と言ったのは、武力を持たない商人からは高額の矢銭(一種の税金)を請求するのに、自分の思いのままにならなかった信玄・謙信には、このような要求を突きつけたことがないということです。石山本願寺との闘争末期では、無血開城を許しているのに、伊勢・長島ではそれをやらなかった。何故か、伊勢・長島では苦しめられた恨みを楽に晴らせるのに、大阪相手でそれをやったら自軍被害が出るからです。その恨みの矛先を、お小言の多い佐久間盛信にぶつけたのも有名な話でしょうか。家臣一人追放するのに、20年前の罪まで持ち出し、20か条近い罪を書き出したと言います。信長が、強い相手に勝った話は桶狭間と、美濃相手の長期戦くらいじゃないでしょうか?不屈の魂は認めますがね・・・。 >最終的には、天皇に対しても、かなりの介入をしようとしています。 >安土城の自分の寝室より低い場所に、天皇を迎えようとしていました。  信長の時代だけではありませんが、天皇は金銭的にも政治的にも苦しい立場に立たされていました。力無きものに対する弾圧と一緒だと思いますよ?本筋で話すならば、征夷大将軍も武家政治も、天皇が任命するものである以上、天下人たるものが下克上をしているようでは、戦乱の種を摘み取っているのか、自分でまいているのかわからないと思うのですが。 >信長は、そういった、宗教が政治に介入することを猛烈に怒っていたのは確かです。  私の思考としては信長の思想も理解はできるんです。宗教と政治は分けなければならないと思いますし、それ以前に当時の宗教は狂っていました。殺生を禁じているはずの宗教家が自ら殺人を肯定して、何もわからない民はそれが極楽浄土にいけると信じて・・・。 >ただ、やはり信心深い人もいて、いわゆる、何も罪もない人も殺したのも確かでしょう。  もし、信長の殺戮がこのようなことなら私は何も言いません。信長は間違って無罪の人間を殺したのではないからですよ。有罪の人間と付き合う人も全員有罪との理論で皆殺しを断行したからです。それも数十人ならともかく、数万人ですよ?普通大きな戦争になっても数万人は死にません。何故なら戦闘不能で倒れても、戦闘終了後に生き残る人がたくさんいるからです。しかし、民間人を縄で縛って並べて殺したら全員死にます。  信長を評価するのなら、こういう大量殺戮を真正面から見た上で、人間として許されるのかを考慮の上ですべきと思います。どうにも、信長を評価する人たちは、大量殺戮が他人事のように感じていて、そこには目を向けずに美点ばかり見ているようにしか感じられません。 >明智光秀については、私は好きな武将の一人でもあり・・・  本能寺の変の真相がどうとか・・・、それなりに研究されていはいますが、あまり的を射た書籍を見たことがありません。そんな中、桜田さんの書いた光秀だけは、納得できる形になっていました。歴史は嘘が多く、真実は行間の中に隠れているようで、この本はホントにお勧めですよ。

doormat55
質問者

お礼

戦国時代を生き抜く中で、強いものに対してあえて、挑発をするような行為は戦略としてなりたたないのだと思います。ですので、謙信や信玄に金を要求しなかったことが、強いものにへりくだっているというふうには思いません。 他の大名でも、あえてそういうことをする人をきいたことがありません。 また強い相手と戦うというのは、色々な考え方があると思います。 信長の戦争をみれば、あえて危険な戦争をしかけることは、ほとんどありません。 桶狭間はまさに、存亡をかけた戦いでした。ですので、少数であえて挑みました。美濃への侵攻は、稲葉など有力武将を籠絡してじっくりやっています。 基本的には多勢で少数を攻める、これは戦の上で、どこでも共通する戦略だと思います。 信長がとりたてて危険をおかさなかったというわけではないと思っています。 商人に対して、たとえば堺などの町は、自治が強い町でしたが、かなり高額のお金を要求していますので、商人に厳しかった面もあるのかもしれません。 ただ、堺は武装しており、敵対姿勢をとったこともあり、商人の中にも武装しているものはいました。 楽市楽座は革命的な経済政策で、今までのいたるところにある関所でとっていた関税をただにして、商人に喜ばれました。信長は経済政策に明るかったと思っていますし、そこもまた、すぐれた部分だと思っています。 佐久間への仕打ちは、確かにひどいのではないかと思っています。 また、のちの光秀の行動にも影響を与えたのではないでしょうか? 本能寺の変はなぜおきたのか、いづれこのテーマで見解は述べたいと思っています。 天下を掌握するめどがつくにあたって、余裕がうまれ、また抑えていた恨みのようなものも晴らせる状況になり、佐久間親子を餓死させてしまったのは、残念な行動の一つです 独裁者というか、たとえば中国の漢をきずいた皇帝の劉邦なども、晩年は多くの家来を殺害しています。猜疑心にさいなまれ、最後は人に会うのも嫌がったそうです。 そういう思考になる面もあるのかもしれません。 人間としての評価というのは、難しいところがありますね。 今の感覚と、当時の感覚の違いを考える必要があるし、それこそ文化や社会状況も違いますし、私は、信長に対しては、歴史的に傑出した人間という評価です。 ありがとうございました。

  • hurasuke
  • ベストアンサー率18% (191/1056)
回答No.4

 信長というと大河ドラマや本などの影響で、美点ばかりが伝わっていますね。空前絶後の大量殺戮者ですよ?それら事実を再確認した上で、それでも美点を褒める気がするなら、ご随意に。特に、自分より強い人間には弱気で、自分より弱い大名、自分の部下、民百姓にのみ強かったことがわかっています。唯一の例外の桶狭間は、信長の決断力は素晴らしかったですが、それ以上に義元が無能でした。悪運が強かったのは確かですが、人間としては全く尊敬できませんね。  悪行としては、比叡山焼き討ちが有名ですが、日本に与えた被害としては伊勢・長島一向一揆等の無差別虐殺の方が大きいです。一向一揆の指導者を武略で欺くのはよいでしょう。しかし、その下に従った何もわからない民百姓を、降伏を拒否して兵糧攻めにして、餓死者が出るようになった上でもったいつけるように降伏を認めておいて、涙を流して喜んだ民百姓に銃弾を浴びせました。武家のすることじゃありません。せいぜい餓鬼大将レベルですよ。ここだけでも2万人は殺されたと言われます。  結果さえ出せればやり方は問わないでしょうか?冗談じゃありません。自分が殺される立場だったら、こんなやり方許せるわけありませんよ。信長を褒められる人は他人事のように功績だけを見ているとしか思えません。  桜田晋也という人の書いた明智光秀を読んでみたらいかがでしょうか?それなりに文献を使っての小説なので、史実を歪めて書いていないと思います。というか、総見記や太閤記こそが、信長や秀吉の命令で書かれた歪んだ歴史書なんですが。記述と歴史の矛盾等、いろいろ書かれていて面白い本だと思います。

doormat55
質問者

お礼

確かに美点が多く取り入れられがちかもしれません。 行動には功罪がつきものですしね。悪い面も評価するというか、みていくのも大事なことですね。それを合わせて評価する、そういう姿勢は大切ですね。 ただ、弱い人に暴虐だったというのは、どうでしょうか? しかし、たとえば、差別されていた職業(鎧を作る人達)などを積極的に評価していますし、資料には浮浪者に施しをしたことなどもあったと記述が残っています。むしろ、貴賎、身分にこだわらない人だったと思っています。才能主義だったと思います。だから、秀吉なども登用されました。 最終的には、天皇に対しても、かなりの介入をしようとしています。 安土城の自分の寝室より低い場所に、天皇を迎えようとしていました。 確かに一向一揆などへの弾圧はすさまじいものがあり、評価が分かれると思います。宗教というのは本当にすごく、大きなうねりをおこしてきましたし、世界史などを見ると、宗教が原因で殺しあったりしていると思えることも多々あります。信長は、そういった、宗教が政治に介入することを猛烈に怒っていたのは確かです。ただ、やはり信心深い人もいて、いわゆる、何も罪もない人も殺したのも確かでしょう。 明智光秀については、私は好きな武将の一人でもあり、彼が謀反を起こした後、ほとんどの家来がそむかなかったのは、彼の卓抜した人望を裏付けると思っています。政治や統治にも優れていたようです。が、本能寺の変については、残念であるのは確かです。 ありがとうございました。

  • aburakuni
  • ベストアンサー率30% (470/1562)
回答No.3

勝ち残っていったのは、既成観念に囚われない戦い方をした事でしょう。源義経は戦いの作法を無視して戦闘に勝ちましたが、信長は既存概念を打ち壊して戦略で勝って行きました。 当時の戦国大名は農兵を主力の軍団を擁し、農閑期での戦闘を続けていましたが、信長は金銭を報酬に戦闘専門の軍団を創設し、農繁期に他国を侵犯し、勝ち負けがつかなくてもその農業生産力に打撃を加えて行きました。 軍団自体の強さはそれ程優れてはいないので、個々の戦闘において敗北する事は多かったのですが、敵地で戦って負けても焼き逃げすれば戦略的には勝ったに近い効果がありますし、勝てば完全に勝負を確定させると言う事で勝ち残れた訳ですが、一般の評判は当然悪くなりますね。

doormat55
質問者

お礼

そうですね、義経も、たとえば船戦で、いわゆる船頭は一般人として殺害するのは戦争論理にそむくことでしたが、射殺すなど、既成概念にとらわれない戦術をとってましたし、信長はまさにそういう常識に全くとらわれない人だったと思います。 いわゆる職業軍人を積極的に取り入れたり、まさにその通りだと思います。なるほど、確かにそうやって焼き打ちをするという行動も効果があると思います。 ありがとうございました。

  • syuitilwo
  • ベストアンサー率30% (169/547)
回答No.2

他の武将と比較すると絶対的に「優れていた」と言う所は 『運がついていた』と言う点です。 どんな武将も運が味方してくれなくては、流れ弾にでも当ってしまいます。 そう言う意味で、信長ほど数々の絶体絶命の危機から逃れて生き延びた武将は他にそうそういないと思います。

doormat55
質問者

お礼

確かに運は大きな要素ですね。 天地人とはよくいったものですが、天運はすごいものがあったのでしょうね。 今川との戦いにはじまり、浅井の裏切り、武田との対決など、危機を多く切り抜けたというのもそうですね。 ありがとうございます。

  • tomban
  • ベストアンサー率26% (2616/9771)
回答No.1

優れていたところというと「改革者」であった、ということですかね。 楽市楽座を広めたこと、宗教の自由(ただし、政権に歯向かうものには容赦が無かった)など。 悪かったところといえば「数限りなく」ありますね。 最終的には「魔王」なんて言われてますから。 総じて言えば「革新」を常としたところがあり、破戒創生が彼の本分だったということでしょう。 「天下布武」は単純でわかりやすい思想ですが、「武」というものは絶えず「新たな脅威」を必要とするものですから、ある意味での「限度枠」があります。 そういった思想は「内部分裂」を生みやすいというのは、今も昔も同じです。 戦争の天才が政治の天才じゃないよ、ということですね。

doormat55
質問者

お礼

そうですね、破壊者というか、容赦ない部分はありましたよね。 確かに武というのは、敵が必要となる、そういう面で、信長が世界侵出を視野に入れていたのも理解できますね。 ありがとうございます。