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もののあはれ
もののあはれ、という感覚はどのように養われるのでしょうか。わたしは子どものころ、「もののあはれ」という言葉をはじめて勉強したとき「なんだこれは」と思いました。しかし大人になるにつれ、いつの間にか桜が散る潔さや美しさなどにもののあはれを感じるようになりました。この日本人独特の感覚は、どのような教育、またはどのような経験を通じて養われていくのでしょうか。 よろしくお願いします。
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「人生経験そのもの」からだとおもいます。 わび、さび、人生の酸いも甘いも噛み分けて、 そういった「きび」が解る様になるのだとおもいます。 こういう感覚は 言いかたが違うだけで 日本人独特とは限らないと僕はおもいますが、 「独特」と言うのならば、たとえば日本の四季は ほかの四季とは違って独特かも知れませんので 一つには、その日本の四季に育まれた感覚なのかも知れませんね。
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- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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内在のものが、そこの民族性と自然というなかで、芽吹き、成長し、葉と花をつけ、また土と水と空気、そして虚空の中に帰っていくのでしょうか。 何かがこの世にきて、生活と経験、知覚する中で、形象となって来るのでしょうか。 少し角度を変え、引き下がって観ると民族的心性といえましょうから、その種子というのは夫々の民族性と自然の中での経験で形になっていくのでしょうか。 内発であり、外発であり。経験であり、経験する何かがあるのでしょうか。 前のお答えの切り張りみたいになってしまいましたが、私たちヒンドゥ的修行をしているものは、英語でいうとfeelingが最初に求められます。 経験のチャクラ、脊柱の腰骨の神経叢(の機能というセンター)です。 日本語で言えば、そこはかとなき感じるもの。 生き方です。何事のおわしますかは、という中でのことです。 つまりは恵まれて出会う経験と生きることではないでしょうか。 意識化と探求は有意義ですが、実も蓋もないことばでの分析と表現には馴染まないというのが、万国共通のようです。
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コメントいただきありがとうございました。
質問者さんも気づいておられますが,それは「内発的なもの」ではないとぼくは思います。「教育」や「文化」,すなわち「他人から次第に教え込まれたり感化されていくもの」だと,ぼくは確信しています。 「桜が散る潔さや美しさなどにもののあはれを感じるようにな」らなければ日本人とはいえない,という通念が日本社会にあるとすれば,それは国粋主義にきわめて近似した危険な考えかただと思います。学習指導要領改訂を問題視するぼくは,中高教科書の著者でもあり,この問題にかなりトゲトゲしくなります。 なお,日本の気候は,夏は熱帯,冬は寒帯に匹敵して世界的にも差が激しく,ぼく個人はとても賛美できるものではないと考えています。
お礼
ご回答いただきありがとうございました。
お礼
ご回答ありがとうございました。人生の中でいろいろな「きび」を経験したことで「もののあはれ」を感じる心が養われるのですね。ありがとうございました。