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次の和歌の意味を教えてください
「春ぞとは霞にしるし鶯は花のありかをそこと告げなむ」 春になったことは霞がかかっていることによって分かるが、花は霞に隠れて見えない---までは分かるのですが、告げなむが分かりません。 未然形と連用形の形が同じですから、前後の意味で考えるということなのですが、「告げてくれ」でも「告げてしまうだろう」でも意味が通ると思うのです。 見えない→鶯よ、花のありかを告げてくれ 見えない→花のありかは鶯が告げてしまうだろう 前者の方がカチっと決まっている感じはしますが、後者でも可能なような気もします。 是非教えていただきたいです。
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http://mickey.homelinux.net/~u-ryo/notes/sundai/kobun/lecture3.html によると、 桑原岩雄・中島繁夫・関谷浩『古典文法入門』駿台文庫 に、この歌が取り上げられていて、 当然、 「告げてくれよ・自分に知らせてくれよ」の方が正しいとわかるであろう。 と述べられているようですね。(該当ページのわりと下の方) おっしゃるとおり活用形からは判断できませんので、文脈で判断ということになります。 「花」は春の最も趣あるものとして、秋の紅葉と同様に誰しもが眺めたいと望むものですから、「なむ」は、鶯に花のありかを告げてほしいと望む「誂(あつら)え」の終助詞とするのが適切でしょう。 複合助動詞として「鶯が告げるだろう」と推量に解するのでは、霞で見えない桜を見たいという気持ちがそれほど強く表れません。 (「なむ」「てむ」「ぬべし」「つべし」等の「完了」+「推量」のバターンの場合は「つ・ぬ」は「完了」ではなく「強意」ととるのがよいでしょう。この場合「つ・ぬ」の現代語訳を「~してしまう」とすると、現代語としては好ましくないことをする感じになってしまうので、「きっと(~だろう)」等とすべきでしょう。) たとえば『徒然草』の「花は盛りに」のように、霞に隠された花の風情を偲びたいというのであれば、一首のどこかにその旨の、少なくともそれを示唆する記述がないといけないと思います。それがない限りは桜を眺めたいと一般的に解するべきです。 もしも「今の私の心境では桜など眺めたくない、しかし『花のありかは鶯が告げてしまうだろう』」とかいうのであれば、「世の中(私たちの仲)に 秋(飽き)は来ぬれど」(お粗末!)とかなんとか、そういう前提事項が必要だと思うのです。
お礼
返答有難うございます。返事が遅くなり申し訳ありません。 やはり定番というか、より和歌の価値が高まるような解釈が望まれるわけですね。非常に分かりやすく解説していただき、嬉しく思っています。