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日蓮系は、「南無妙法蓮華経」以外言ってもいいですか?

続けて別の質問をします。 いわゆる観音経(法華経 品第25)に、 「南無観世音菩薩」と言ったらいいよ、と書いてあります。 これについて、創価学会含め日蓮系の考え方はどうなのでしょうか? 題目以外唱えてもいいのでしょうか? だめなのなら矛盾していると思うのですが。 (ちなみに、この箇所は日蓮系で(創価学会だけ?)は、信徒に読ませないようにしていませんか?)

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  • nontro_08
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回答No.2

創価学会の者です。 日蓮大聖人は、こう仰せになっています。「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし、(中略)此の南無妙法蓮華経に余事をまじへば・ゆゆしきひが事なり」(上野殿御返事) また、こうも仰せです。「 問うて云く末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや、答えて云く法華経の題目を以て本尊とすべし」(本尊問答抄) 今は末法です。末法においては、釈尊が説いた法華経そのもの(これを文上の法華経と言います)では、衆生を利益する力がないのです。末法において衆生を利益する力があるのは、文上に対して「文底の法華経」すなわち「南無妙法蓮華経」です。唱えるべきは「法華経の題目」である「南無妙法蓮華経」なのです。 観音経は言うまでもなく文上の法華経であり、ここでは詳しく記しませんが、五重の相対という法理の中の、「種脱相対」の脱益(だっちゃく)に当たり、末法の我々には必要ないのです。必要ないものをあえて読ませる必要などないと思いますが。 末法における御本仏は釈尊ではなく、日蓮大聖人です。末法の衆生が仏法を実践するにあたっては、大聖人の教えを根本としなければなりません。大聖人の教えに反して、我見(自分独自の考え)で「南無観世音菩薩と唱えてもいいじゃないか」というのは、それこそ「南無妙法蓮華経に余事をまじへ」ることであり、「ゆゆしきひが事(道理に合わないこと)」となってしまい、功徳などないのです。 私の言うことに疑問を感じられるようでしたら、一度、日蓮大聖人のお認(したた)めになった曼荼羅御本尊に、観音でも阿弥陀でもいいですから、「南無……」と唱えてみればいいと思います。どういう実証が出ることでしょうか。理論で疑うより実験して証明することが、何よりも大切です。

ringox
質問者

お礼

なるほど、「都合が悪いもの」→「必要ない」という論法なのですね。 ありがとうございました。 ちなみに、ご本仏は釈尊でも日蓮でもなく、あがめているのは池田でしょ?

その他の回答 (2)

  • mmky
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回答No.3

お経というものは多少なりとも仏の教えが残っているからお経なのですね。 お経を読むに当たっては、自らの判断で要否を決めてはならないという原則があるのですね。それ故、まず仏帰依をするのです。仏を信じることができなければ、仏の法など意味も無いのですね。 仏帰依していれば、法華経の読み方もおのずと違ってくるでしょう。修行者は、前が見えなくなったときには観世音菩薩にすがりなさいと仏がいっているのですから、当然すがればよいのです。素直に仏を信じ、お経を素直に読む。これができない世の中を末法の世というのですね。 日蓮は修行僧の1人であって仏ではありません。それを知るものは法華の徒であれ浄土の徒であれ真言の徒、禅の徒であれ、お経のどの一句もおろそかにするものではありません。 この理を外れたものを外道といいます。更に仏帰依を外せば邪命外道といいます。仏道修行、学びも救済も修行者の道は細く厳しいものなのですね。

ringox
質問者

お礼

ありがとうございました。

  • pupurpu
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回答No.1

ひとついえることは、決して浅い理解や間違った理解をしてはいけません。  結論だめです。  人間革命3巻には間違ってやった人の話が出てますが、その方もしっかり唱えてましたが、とんでもないことになったと具体的に書いてあります。みんながしあをせになる方法を間違えてはいけません。  一度読まれると失敗を回避できると思います。

ringox
質問者

補足

おっしゃっている意味がよくわかりません。