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子供を生むのをためらうのは殺人ではないのか

感情論はなしです。 この世には殺人という概念がありますが、 ようは人を殺すことです。 悪意をもってるかもってないか関係ありません。 頼まれて殺しても仕方なく殺しても殺人です。 では、子供を生むのをためらうのは殺人じゃないのですか? 人を殺すのが殺人だ、でも将来的にうまれる、しかも大きな存在となるかもしれない人をを殺していることにはならないのですか?

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  • sssssss1
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回答No.6

「子供を生むのをためらうのは殺人ではないのか」 殺人すなわち、「人」の定義、「殺す」の定義の問題だと思います。 「将来的にうまれる、---かも知れない」を人とするなら月経も殺人といえるかもしれません。男性の自慰もそうかも? で、殺人をそういう定義にしても何も得る所はないと思います。どっちみち、今の一般的なの殺人の定義(完全かどうかは?)を別な言葉で言い表すことになるだけでは?

その他の回答 (5)

  • magga
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回答No.5

ためらうのが殺生ではないでしょう。 生命と認識して、明確な意志を持って殺そうとし(殺意)、実際にその生命の命を絶つことが殺生でしょう。 どこから「人」かはわかりませんが、受精卵が生命であることには変わりないことと思います。 子供を育てることが困難な状態の親の母体の危険が無いなら、産んでもらって生まれた子供は皆が育てればいいのですが… なかなかそんな社会にはならないようですね。。。

回答No.4

貴方がそれを「殺人だ」といった概念で捉えるのなら、貴方にとってそうなると思います。 人としての尊厳を生まれてから考えるのか、胎生○○月の段階から考えるのか、受精卵の時点から考えるのか、それ以前の生殖細胞の段階から考えるのか。。。 可能性の芽を摘んでしまった段階から考えるのであれば、たとえば離婚したことや結婚をためらったことを考えると、もしかしたら生まれてくるべき子供の人格を奪ってしまったのではないだろうか?とかいったレベルまで、考えるかも知れません。 もしかしたら、青春の一時期に、自らの体外に排泄された生殖細胞を眺めるとき、「あぁ。。。一人の立派な人間になっていたかもしれないのに」と、深い感慨と共に見入ることがあるかも知れません。 社会の中での一言・一挙手・一投足が、一つの会社を潰してしまうこともあります。 人が、そこに罪の意識を感じるときに、その人にとって「殺人」となり得るのだと思います。 「感情論はなし」と言われますが、倫理的な規定は、感情論抜きでは成立し得ません。「殺人」といった概念も、「感情論」がなければ、単に「間引き」などと称されるものになるでしょう。

  • kasumimama
  • ベストアンサー率44% (1218/2747)
回答No.3

そういう考えで感情論はなしで考えるとするならば 殺人と同じだと言えると思います。 ただ中絶のもっとも早い時期は、赤ちゃんは人とは呼びません。 胎児になるまでの3カ月までを胎芽と呼び人の形をしていません。 屁理屈ですけどね(^_^;) 心臓がばくばく動いてるのだから…生きているに違いないし 殺すという言葉は間違いではないと思います。 望まない子供がこの世の中にたくさんいてすべての子供が生まれていたとするならば… この世の中はどうなっているんでしょうね。 孤児がいっぱいなんでしょうかね…虐待がいっぱいになるんでしょうかね… 人間は愚かですね。進歩して良い事ばかりじゃないですね。

  • tatsu01
  • ベストアンサー率18% (292/1540)
回答No.2

ためらうだけなら殺人ではありませんが、堕胎しちゃうと殺人ですね。 何ヶ月なんて関係ありません。受精した時点で一つの命です。 あのスティーブ・ジョブズ氏も母親が養子を選択せず堕胎していたら この世に無かったのです。

  • born1960
  • ベストアンサー率27% (1223/4397)
回答No.1

 子どもを生むのをためらうのは殺人ではないと思います。 中絶は殺人かもしれませんが。