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江原ひろゆき氏的な考えって納得できますか?
幼少の頃からの不仲で高校生の頃に別居となり、兄弟もバラバラになりました。私はそれに加え持病を持っていて、それも確実な治療法がない病気でした。今では全快となりましたが、当時としては「一生このまま病気が続いてしまうかも」という不安がありました。冷静に夫婦関係を子供なりに振り返ってみると、結局は双方とも子供のことを幸せに育てるために考えていた「教育論」の不一致からの別居だったのです。しかし、その「教育論」を譲れず、幸せにしたいからこそ貫いた思想によって、子供を苦しめるという本末転倒な話になりました。別居=子供の負担とは一概にいえないと思うんですが、やっぱり感受性が強い時期だったせいか、両親の在り方がとっても悲しくて病気のこともあり投げやりな選択をしていたように思えます。 そこで、本題なんですが、 職場の上司に宗教を信仰されている方がいて、その人の人生は両親が蒸発し生き別れ状態になり、高校を中退するような状態になり、グレにグレて裏の世界に入りそうになったものの、その宗教を信仰することを勧められ、最初は嫌々だったものの信仰のおかげで立ち直れたと言っています。今では前向きに仕事に励み、妻子を設けて頑張っています。その立ち直れた宗教の考え方について伺ってみたところ、 「人生は魂の修行の場」 「不幸と思っている境遇は実は自分の魂が修行の場として選んで、あえて生まれた境遇である」 と言っています テレビで有名な霊能力者?の江原ひろゆき氏も同じようなことを言っていました ちょろっと調べてみたら、どうやら上司も江原氏も「日蓮大聖人」の考え方が基礎となっているようです。 皆さんはこの考え方は納得できますか?
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私は、仏教の日蓮系の宗派の1つを信仰している仏教徒です。 信仰をしていますが、私自身、仏様では、解らないことも、間違って捉えてあることもあると思いますので、その辺は御了承ください。 私自身の主観の考えでは、 ・魂(自分自身)が修行する場であると感じるし、 ・不幸と思っている境遇は実は自分の魂が修行の場として選んで、あえて生まれた境遇であるとも感じるし、 ・自分では感じ取れない運命でそうなったとも感じ取れるし ・修行する場として生まれてきた訳でもない とも感じます。 何を言いたいかと言えば、その人によるということです。 人はみな違うという考えですが、人の運命や宿命もまた違うと思うのです。 すべての人が、修行の場とか、あえて自ら苦しい環境に産まれて修行しているという訳ではないと思うのです。 私自身、今の宗派を信仰し、 過去で自分自身が生きる上で障害あったことも、 今の自分の人生観においてとても重要なことを学ぶことができたと感じたことはいくつかあります。 人間は、生前も解らないし、死後も解らない。死後でなくても、数分先ものことも予期せぬことが起きるものだと思います。 人によって違うと思いますが、10年、20年、と長い月日で何か、大切な人生観を学ぶ(悟る)ために、苦しい日々があったと感じることもあります。 ただ、人は、回り道をしないで、進む人はそう多くはないかと思います。大抵の人は、回り道をしながら何かを得ていくものだと思います。得ない人や得れない人もいるかと思います。 無駄なく、回り道なく、前に進めいけないということを考えると、修行の場や運命だけとは限らないと思います。 何か、こう自分の中に運命の元となる因(縁)があって、その因(縁)が、最大限がんばってがんばって発揮されて、やっと今の自分があるのではないかと感じる次第です。 故に悲惨な運命を歩み、無念の涙を流す人生が多い人やそういう思いで亡くなっていく人もいると思います。 以上、感じると連発していきましたが、それは感じたことであるので、他との絶対的共感は不可能と思います。故に、感じない人は、否定的な意見であると思います。 質問には、納得できますが、すべての人がそうではないとのが私の回答です。 私の回答が何かに繋がれば幸いです。
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- michael-m
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不幸と言う概念は元々主観的であるという考えが仏教のお経の中にあったと記憶しています。先日、お経を解説する番組で「不幸も幸福も、本来は存在しない、妄想でしかない」と言うことを言っていました。 それがお経の中に書かれているとすれば、その経の解釈や表現方法が日蓮上人や江原さんなどの中に入り、自分のなりの表現になっているのだと思います。 思想と言うのは誰かが作り出すものではなく、誰でも思っていることや考えている事を纏め上げているので、誰のが正しいとか違うと言う類のものではありません。全てがどこか一方向に偏っていると言った方が正しいでしょう。 江原さん自身「運命と言うのは定まっているものではない」と言っているのですから、不幸を試練として選んで生まれてくると言うのであれば矛盾が生じます。 あえて関係があるとすれば、姿勢の違う相手を求める環境に生まれると言うだけの事でしょうし、それをどう乗り切るかは両親の課題でもあり、自分の課題でもあるわけです。 別れたと言うのは両親の課題の答え、両親が別れたというのは自分に新たに与えられた課題でしかないということです。 ただ、不幸と言うのは何を以って不幸なのでしょうか? 不幸と感じる事は比較するものがあると言う事。でもそれが不幸ではないとなぜ言い切れるのか…。 生きていることは幸福?不幸?病気である事は不幸? 両親が居ないということは不幸? 不幸は幸福になれない?
- yasuyone
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こんにちは^^ 無宗教の者です。 江原氏がTVに出始めてから10年近くなったでしょうかね。 最近は飽き始めましたが、当時は夢中でTVを見てました。(^^;) ネットで、たまたまだいっ嫌いな新興宗教などのページを見たことがあったり、又は、エセスピリチュアルカウンセラーのページも見ることがありましたけど、 それらが口をそろえて言ってるのが「江原氏が言っていることは、前々から我々が言っていたことですよ。」です(^^;) なんだかなぁ~~笑っちゃうよね。
- burahuman
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個人的な考えを言いますとそのようなウソ話を持ち出さないとまともにカウンセリング出来ないのは情けないですね。 結果よければ嘘八百でも許されると言う声が聞こえて来そうですが私は反対です。 今回はたまたまうまく行ったのかも知れませんがそのような架空の話を本気にする方は他の様々なインチキ話をも簡単に信じるかも知れません。 つまりまともな思考力が育たない可能性が有る訳でこれは精神汚染と言っても良いかも知れません。 デタラメ話は嫌いです。
すいません。 日蓮と江原さんとは全く関係が無いように思います。 そもそも仏教と江原さんの考えは相反しています。 ただ、カルマ(前世の業)という点で似ている部分があるにすぎません。 また、ブッダは「人生は苦だ」という出発点から思考を展開しますが、そういう点で、江原さんと似ていなくもありません。要は、どのみち人生は苦しいということです。 そこにどういう意味づけを与えるかは、色々な宗教家や江原さんの様な人生哲学を主張する人もいると思います。 後は、前向きな発送になれるか否かがポイントだと思います。
- divi
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別にその宗教に限った話ではなく、 「苦しみの多い人は、神に愛されている証拠である!」とか、 「不幸(苦労)なのではなく、試練だと思え!」とか、 「苦しみを知らなければ、喜びはわからない」とか 似たような意味の言葉は沢山あります。 要は、納得というのか「そう思える」かどうかだけでしょう? そして純粋に「そう思えた」のならば、 思考(感覚)段階で、「不幸」に悩み苦しむ事がなくなるわけですから、 それが「とある宗教の言葉」であるならば、救われた事になるのでしょうし、 「とある人物の言葉」であるならば、恩人ともなり、 「自分で見つけた言葉」なのなら、いい勉強になった、となるのでは?
- jimmy35
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これは、それこそ納得するかしないかが個人の考え方に左右されると言っていいと思いますね。 別に納得すれば宗教・もしくはその研究機関であろうとそれはそれでいいということです。ただ、布教的な事をしてほしくないだけですね。特に自分はキリスト教信者ではないですが(と言いますか、この言葉は彼らには主語があるはずですが)「信じる者は救われる」と言うでしょ。 あなたにはあなたの信仰(宗教である必要はないですね。どちらでもいいということです)で生きればいい事です。そういうこともあるという納得の仕方でいいと思いますよ。
- etizen100
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私はキリスト教徒、クリスチャンではありませんが、キリストが「原罪」を背負って貼り付け処刑されたと聖書に記述されていますね。 一概には言えませんが、この「原罪」と「魂」とを同じものとみなしてみて、この「原罪、魂」からの復活というのが、信仰のあり方といえるものでしょう。 これは今私たちが営んでいる人生というものは仮のものでしかなく、本当に営む人生は、今の「つらく、苦しく、悲しく、寂しい」といった人生を立派にやり終えた後に与えられる、人生だということになります。 宗教的にいえば、それは「悟り」ですね。 こういうところから、「霊能力」とかは関係なく、また「悪例、背後霊、水子霊、呪い」というものも関係なく、要は「今を如何に正しく生きるか」にかかっています。
- tinycat19
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どこの宗教でも言いそうな言葉です。 人の生涯は、己の魂を磨き続けるためにある、という言葉もどこかで聞いたことがあります。キリスト教でも、受難という言葉で、困難を説明しますね。 現在不幸な人でも、不幸な境遇は魂の修行の場と思えば、気持ちが軽くなるのでは。性善説に立った考え方だと思います。
- E-FB-14
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物事はすべて考え方一つです。 良いほうに考えれば良くなるし、悪いほうに考えれば悪くなります。