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人生を修業の場と捉えることはできますか?
人生というのは、霊魂が修業をする場である。 神様は成長させたい人間にだけ試練を与える。 苦しんだ分だけ、魂は成長する。 いかにも、人生はある種の「修業の場」といわんばかりの捉え方が一部宗教を中心にして、存在があるようです。 私もそう思います。 生まれつきの美醜の差、障がいのある無し、人生におけるあまりにも理不尽な出来事(通り魔など)…。これを単なる偶然とし、ただの人生の一出来事とするなんてできません。 こういう辛い経験が魂の成長のためだとしか思えません。そうでないと、上記のような人がかわいそうすぎます。 皆さんはどう思いますか? 人生は一度きり、死んだら終わりだと思いますか? そうではないと思いますか?
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世の中にはいろんなヒントがあると思うのですね。 宗教の教えだったり、格言だったり。 わたしは残念ながら守護霊さんは見えないし、産まれてくる前の記憶はありません。 なので、絶対正しいとも絶対間違っているとも言えません。 そういう考え方があるのだなぁと受け入れるだけです。 この考え方の利点は、少し離れて物事を見れるようになれる点。 悲しみや憎しみ、妬みの感情にどっぷり浸かりこんだ時に、自分を少し離れた位置から俯瞰するように冷静な気持ちで考えられます。 自分が苦しんでいる時に、誰かから教えられるわけでなく読んだ本の一文に、なんとなく見ていたテレビで見て知るのは良いと思うのです。 でも、レイプに遭ったばかりの人に 「あなたは、そういう不遇の人生を自ら選んで魂の鍛錬をしようとしてるのですよ。」 と説かれてもイマイチ納得できません。 むしろ自分の選択肢を呪うでしょう。 "辛い経験が魂の成長のため~中略~かわいそうすぎます。" 気の毒な人がいたら、共に悲しんだらいいんだと思うし、美醜の差に苦しむ人がいれば共に悩んだらいいんだと思う。 見た物事を感じる心は大事です。 心に受けた衝撃は、人を動かす貴重なきっかけになりうるからです。 『その人に与えられた試練』だから、その人が自力で乗り越えていけると決め付けてしまうのも危険だと思う。 苦しみ悩みは消せない事実から来るものですし、危害を加える側については、どう捉えたらいいんだろう。 人を傷つけるために産まれてきたになってしまう。 同じ時代、同じ場所、こんなにも早く地球上の人々に一斉に与えられる情報。 これをどんな気持ちで感じるのか、何が心に残るのか。 心にトゲのように残り続けるとしたら、何かを成すために気になるのかもしれない。 誰かだけ修行するのではなく、感じた人全てが共に修行する仲間になれると思いたい。
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- tgs1212
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普通に考えても、「死んだら終わり」ということでは、人生が不公平すぎますよね。 私自身、霊体験を何度もしていますが、人間やすべての生命体は本来「霊」なのです。 肉体が死んでも、自分という「霊」は別の波長の世界で永遠に生き続けるのです。 100年弱の短い期間ですが、肉体に宿ることによって、喜びや悲しみなどのすべての感情を経験して鍛えるために生まれてきたのです。 障害者と言われる人の魂は、とてもレベルが高い人が多いです。 高いレベルの人には、より高いレベルの負荷をこなして成長していくのです。 そういう意味で、人間この世に生きている方が大変なものなのです。 不意な事故等で亡くなる人は、地上の苦労を免除された、高い魂のレベルの人といえます。
お礼
おっしゃる意見って、私はとても同意します。 なんか「そう、そうなんだよ」って心の中で突っ込みたくなりましたよ。 経験者様なんですね~ 意義あるお答えありがとうございます。
- f5system
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本当のことをいいますと、この世は規則正しいことが半分と理不尽なことが半分存在します。これに意味などありません。世の法則なのです。 ですが、人間の能力はそれに意味を持たせて、励ますことを忘れませんでした。知性の昇華した姿と言えるでしょうか。宗教や哲学の存在意義はこの理不尽なものに対する意味が必要不可欠でした。 生まれながらの不幸を解明するためには、前世を定義つける必要に迫られました。すなわち輪廻を説くことで一切を説明したわけです。 でも、実際は個々の輪廻などは存在しません。知性の中でしか存在しない世界観なのですね。死んでしまえば、それでおしまいですが、人生の存在意義は成り立ちません。 永遠の輪廻を検証することにのみ、その存在意義を見出したわけですね。すなわち、知性の世界観にのみ輪廻や永遠の生命観は存在します。
お礼
御回答ありがとうございます
- saru_
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>人生を修業の場と捉えることはできますか? できません。 楽しいことや素晴らしいことも多々あるので、それほどストイックな場とは、私には思えないのです。 >神様は成長させたい人間にだけ試練を与える。 >苦しんだ分だけ、魂は成長する。 人様の信仰や信念を批判するのはよくないとはわかっているのですが、それでも、生まれてまもなく戦争のために死んでいった子供たち、途上国で臓器移植の材料にされ死んだいった子供たちのことなんかを考えると、悲しい気持ちになります。親に売られ肝臓と腎臓を摘出され、より豊かな国の子供のために死んでいくという試練を、あえて子供達に課す神様って、一体どんな神様なんでしょう…? >人生は一度きり、死んだら終わりだと思いますか? はい。 輪廻系の考え方の一番の矛盾点は人口増加を説明できない点ではないでしょうか? もしかすると別の生物から人間に転生するというケースを考えているのかもしれませんが、その考え方でも生物全体の個体数が一定でないとおかしな話になるので、古生物学から得られている知見と矛盾するようです。ちなみに転生する対象が生物全体であるならば、あなたはまず間違いなく、次回はバクテリアに転生することでしょう。再び人間になるのは、100回連続で宝くじに当たるよりもずっと困難です。なんと言っても、大変な僥倖で人間の精子になれたとしても、その後に数千億分の一という競争が待ち受けているくらいですから… という訳で、今ある生は誇張でも何でもなく、奇跡以外の何物でもありません。なので、それを単なる修行の場以上のものととらえ、より豊かなものにするという考えも悪くないかもしれません。 以上、こんなふうに考えている人もいるということで。
お礼
参考になります ありがとうございます
それは仏教の教えでも 人間は何のために生まれて 生きる目的は何かといえば 経験をとうしていかに自分の魂を 成長させるかがこの世の修行の場です 基本その人間が乗り越えられる問題しか 与えないと言われています 死んでいく時が結果だと思います 因縁果報 因果の法則 因は自分 縁は心がもたらす相手 その結果は自分に帰ってくる
お礼
御回答ありがとうございます。
心霊主義です。 どんな人生もそれ相応の修行のためにあるのです。 どんな境遇もその境遇の経験をすること自体が修行なのです。 なにをどうしたって人生はなんらかの苦しみがあります。 それにたいしてどう対処しようが本人の自由意志ですが、その事柄に影響されたこと自体が経験としてその人の肥しになるのです。 また時間、量、生存期間などすべてそういった修行内容を選んで生れて来たのです。例えば流産でさえ、子供は母親の胎内を経験するという学びのために宿ったと言えます。それは霊界から見たら苦痛だったとしてもたいした苦痛ではなく現世からみたら快適かも知れませんが一応それも学びです。 また、非常に低レベルな動物的非情さなどの苦しみをしたりされたりする境遇もあります。つまり無法地帯などに生まれる場合ですね。それでさえ、非情な行為をしたりされたりしてカルマを重ねたり解消したりしながら地球人としてのステージを少しづつ高めていくための、底辺の修行です。地球人としてこれから向上して行くための。 人生は始まった時より終わる時の方が人間的成長を果たしている事は間違いありません。真理です。自分の心を見れば確信出来る筈です。自分の心自体が証拠でしょう。
お礼
そうですね 御回答ありがとうございます
- motuniko38
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神様はどこかで私たちを見守っていてくれて、 どんなにつらくても、くるしくても、ちゃんと公平に評価してくれると思うとしあわせなきもちになれますね。 電車でお年寄りが居れば席を譲りたくもなるし、 サボれる状況でも真摯に仕事を続けようともおもえたりできそうです。 まじめでひたむきで正しいことをしたいと、心では思っていても、 利己的で自分本位にやってしまいそうな自分を優先してしまいがちですが、神様って本当は自分自身の心の中に入るような気がします。 自分の利益よりも他人の心を優先したとき、ものすごくさわやかなきもちになるのはそのためではないでしょうか。 人間の体がたくさんの細胞から成り立っているのと同じように、社会というものも、多くの自然植物や動物にんげんが、協力し合ってなりたっているからではないでしょうか。一見他人のために行っているように見えることでも、実は自分も含めた社会全体のりえきとなっているのではないでしょうか。植物も昆虫も動物も人間も、連鎖しているから、自分以外のものを大切にしたときもきもちよくなるのではないでしょうか。 きりょうが悪かろうが、体が不自由だろうが、がんばって生きていること自体が、自分と自分以外のものに貢献しているから、因果応報でめぐりめぐって自分の幸せにつながってくるということではないですかね。 ただし世の中強いものがかつ確立は高いのも事実。ただし必ず強いものだけが勝つとは限らないもの事実。世の中全部がジャイアンではないということ、偏りのないように、ノビも居れば、スネオもいるもちろんジャイアンもいる混濁としているのが、結局偏りのない中庸という、世の中の正しい姿なのではないでしょうか。 大体生命の起源なんて単細胞だったのに今はあ、なんと言う数で多くの臓器を持っている。すべての臓器が役割を担ってひとつの体を維持してるように、よのなかも、強いものも弱いものもきれいなものもそうでないものも淘汰されずに共存してる。みんなでいっしょにいきてるんじゃないっすかね。
お礼
ドラえもんのたとえ、GOOD!!! ありがとうございます
- michan555
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霊魂の修行の場とするなら 早くに亡くなって苦行から開放される人のほうが有利になってしまいます これでは生きてる意味がなくなってしまうように思います 人生は素晴らしいものだからなるべく精一杯生きる 不運にも命を落とした人がいたらその人たちの分まで精一杯生きる こういう風におもってます 死んだら終わりかといわれればそうでもないと思いますが ただそれを考えるなら別のことを考えたほうが建設的に思います
お礼
おっしゃることは正しいと思います ありがとうございます。
- kimari14
- ベストアンサー率17% (50/288)
また人間にうまれたいなと おもいながら死にたいですね アフガンでは餓死するか 爆撃で死ぬか いちおう平和な日本でも 交通事故や病気で死にます 生老病死の設定は等しいものです うまれながらの差別構造もあるでしょうし 生まれてからもありますね アフガンの人は 魂の修行とはおもわないでしょう 体裁のいい言葉で惑わされたら ほんとうはみえないでしょ 殺し殺されれる畜生の世界で 神は人に試練? そんなことあるんでしょうか 修行なんていえる間は 現世の地獄を生きてないのかなとも思います 恨んで恨んで恨んで憎んで憎んで憎んで 殺して殺して殺されてが 人の歴史とするなら 今ここに自分があるのはその延長線上 神とかなんとかの前に普通の人として 悪の連鎖は止めなければと おもいます
お礼
おっしゃるとおりですね ありがとうございます。
それは、比較があるから 2人いれば、どうしても比較が生まれるし、 情報が過剰になれば、神経質なほど過敏になる人も大勢でてくる 別にネットだから気軽に書くわけではないですけど、 修行というふうに個人的にはとらえたくない 修行なら脱落者がでていくのも前提だし あたしは快楽主義者です どちらかと言えば 苦しいことに逃げて何が悪い っていう考え きどって名前だけあげると、 芸術至上主義 ロマン主義 合理主義 印象主義 耽美主義 高踏派 無頼派 エピクロス主義 ですw きどりなんで、ほっといてくださいw あと、人間的成長なんてそういう嘘な言葉はやめてくれってかんぢ
お礼
御回答ありがとうございます。
お礼
そうですね、 御回答ありがとうございます