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〈父、子、聖霊〉の《三位一体》は、等質かつ等価であるか?
私は、キリスト信仰における《三位一体》を、普遍的位相とは認めるものの(キリスト教全会派に共通する教義ではない)、三位のそれぞれの位格が、等質かつ等価であるとの見解を、咀嚼しかねております。 もちろん、会派ごとの教義は尊重します。しかしながら、私自身がプロテスタント無派閥に所属していた、元不良信者であります。通っていた教会では、三位一体を大変に重視していましたが、私が師に、「《主》とは、すなわち〈父なる神〉ではないのか?なぜ新約では、《主イエス・キリスト》に変わっているのか?〈人の子〉が、なぜ救世主を超越して、《主》と呼ばれるのか?〈御霊〉は、キリストの血によらなければ授けられないのか?」と問い質すと、逆に不信仰を諌められてしまいました。 そこで、皆さんにお尋ねします。 【Q-1】 〈父、子、聖霊〉、それぞれの、役割とは何でしょうか? 【Q-2】 〈父、子、聖霊〉、それぞれは、等質といえるでしょうか? 【Q-3】 〈父、子、聖霊〉、それぞれは、等価といえるでしょうか? 【Q-4】 〈父、子、聖霊〉、それぞれが、等質でも等価でもないとしたら、どれが最も重要なのでしょうか? 【Q-5】 《三位一体》とは、何でしょうか? 以上、皆さまの私見でもかまいませんので、よろしくお答え願います。
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pokoperopo さん 投稿を受け容れてくださったようですので No.3&5に引き続き 回答を寄せてまいります。 いちど 教条のごとく述べてみます。 ☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 父なる神は 子なる神を生みたまうた。また父なる神は 人間を生みたまうことが出来る。父は この権能を 子なる神を生むとき 子なる神が 量的・質的な差なくして 持ちたまうように 授けた。 父が子を生んだというのであるから 経験的な概念で言っても 父は子を愛したまうた。子を愛したまうたと同じように 人間を愛したまうた。そして父は子に 人間を愛する権能をも 十全に 欠けることなく 授けたまうた。 父が子を生みたまうことと 愛したまうこととには 量的・質的な差異がないと考えられる。言いかえると 生みたまい得る存在ということは 愛したまう存在であることに等しく 父である権能は愛である能力と同じであり この愛は そしてほかの権能も残らず 十全に子である権能に与えられた。(ただし この与える・授かるに 時間の隔たりはなかった)。 父が子を生みたまうたとき 何らの時間的なへだたりなくして そこに――つまり言いかえると 父から及び子から つまりさらにあるいは 父と子との交わりから――愛が 父や子と同じ存在・同じ力として 発出したまう。 子の父は 父の子を および 両者のまじわりである愛を 人間の世界に 派遣されたと考えられる。子は 人間となって派遣された。つまり みづからを空しくされ 肉(身体および精神)となって現われたまうた。それは かれの神性を欠如させてではなく そのまま 父なる神の独り子なる神として現われたまうたと察せられる。(《人間であると同時に 神である存在》が――茶化して言えば 《現人神》なる存在が―― 地上に現われたまうた)。言いかえると 第三の愛なる神を発出したまう神として この地上にやって来たまうた。 第二の子なる神が 人間となってやって来る前にも 父と子は 愛つまり言いかえるとこの第三の聖霊なる神を 同じくこの地上に派遣したまうたと考えられる。子なる神は これらの神のみ心を 人間の言葉で 告知したまうた。つまり 聖霊は 人間に派遣され 人間の肉に宿りたまうのであると。 ところが 子なる神は人間となられたが 聖霊なる神は そうはならなかった。聖霊も子も 互いに等しい神であられるが 聖霊が 固有の意味で神の愛として 人間に与えられ人間の内に宿りたまうのであると。父も子も愛であるが 固有の意味では 人間にならなかった聖霊なる神が 愛であると捉えられる。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは まづは次の疑問に答えようとしたものです。 ★ (No.3お礼欄)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 《三位一体》には、それぞれの位格を等しくする必然性がない、さらにいえば、等しくすべきではないと考えております。ここから、確認してまいりましょう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ あらためて 論理の問題として 議論をからませるなら。まづ ★ 必然性 あるいは べきである・ないという当為 ☆ これは 人間の相対的で経験的な世界に属します。人間の判断によって 決めるものです。絶対というなぞの世界(?)には 通用しません。そういう想定です。逆に言うと 必然性や当為性の問題があったりすれば それは 絶対の世界ではありません。 無神論でさえ この《絶対》という仮想じたいは 想定しています。そのあと 絶対とは無であると 仮りに 表現しておくというものです。 有神論は そこに《神》と呼ぶあたかも存在をさらに想定します。しかも あれこれかれそれ観想をとおして この中身までをも 詮索しました。その暗示を与えたのが イエス・キリストです。その記録をもとに さらに 観想をたくましくして とうとう 《三位一体》説にまでたどり着いたというものです。 ★ (No.5補足欄) 他のご回答は間違いなのでしょうか? ☆ 《絶対》の想定をあつかっていないという点で 《三位一体》を説明するものではありません。相対世界における人間の想像や理論としてなら 自由にどうとでも 論理的にも抒情としても 組み立てたりまとめたりして描くことが出来ます。 上に述べた《観想》にしたところで けっきょくは 人間の描いた神学ですが 今度は その《絶対》の世界とそしてこの《経験世界》との 現実的なつながり しかも整合性をもったつながりを 説き明かすことが求められると思います。 ほんとうは このような探究ともなれば 人間と世界とその歴史の全部が 三位一体の説き明かしにかかわっているわけですから 大海の水をバケツで汲み出すようなものでしょうけれど ぼちぼち まいりましょう。 * ★(No.5補足欄) 図形的に捉えた場合、《三位一体》は、水平に横たわる正三角形になるのでしょうか? ☆ 神を観想するとき 《図形的に》何らかの表象が思い浮かぶことがあるかも知れません。ですが そのことと 神の実態がそうであることとは まったく別です。後者は なぞです。規定できません。 もし仮りに何らかの図形で説明せよとなれば 全世界・全宇宙が かたちとして 三つあるとします。これらが互いに等しくて そのまま重なっているような描像は どうでしょうか?
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- katyan1234
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私ですか証人じゃありませんよ。キリストは救い主です。 信仰は知識でないということご存知ですよね。それを知識で系統付けて考えましょう。どうなってるの?と言う事がそもそもの間違い ここでいうキリストは救い主の神ですよ。だから導き主の聖霊 創造主の主、私たちから見ればすべて3つを信じ感謝する。すべてを認めて信じるというのが等価になるんです。 しかしキリストは次のように言ってます 門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。 あなたいう主の考え方と牧師が捕らえる主と言う言葉の感じ方がちがうのではないかな~と思います。旧約はキリストが誕生せずそれまでの民を導き世話をした。しかし人は罪を作り間違いしだした。まあ律法を命令だと聞いてしまった。それで本来の信じて救う人を追い出してしまった。とも考えれる。しかし今キリストが誕生したために神の子キリストを主と呼んでいます。まあ感じ方なので神の子は神の子 創造主は創造主、神の子を主と呼ぶのはおかしいというのも成り立ちますが、 信じ救われたのは過ちを告白してキリストを信じたからですよね。それを主と呼ぶのもおかしくありません。主を創造主にしたら旧約の教えも守る必要がありますよ。それこそユダヤ教になったのですか?という感じ だから逆に不信仰を諌められてしまいました 怒るのも当たり前だね。
お礼
ご回答いただきありがとうございます。私は、この問題では、諌められていませんよ。こういうことを言ったら諌められると思いつつ「旧約の主と新約の主とでは、どこがどう違うのですか」尋ねたら、「なかなか説明は難しいから、あなたはあなたで問い続けなさい」と言われただけです。私も「わかりました」としか言っていません。質問としては、諌められたと書いたほうが面白いでしょう。それにしても、あなたにとっては、キリストとは何者なのでしょうか。カレーライスの具材程度なのですね。〈汁、具、飯〉の《三位一体》は、等質かつ等価である。ただし、焼香もまた、偶像崇拝とはならない。これぞキリスト者の証しである。アーメン。
補足
あなたはキリスト者ではないのですか?キリスト者以外の誰が、キリストの証しをするのですか?よろしければお答え願います。
- hhituji
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#16の者です 回答補足リクエストがあったので書いてみます。 まず、焼香に関してですが、本来、私がこのような問いに答える資格はないと思うのですが、思うところを書いておきます。 基本的に、聖書で禁じているのは、偶像礼拝と言うより、 唯一無二の神(いわゆる三位一体の神)以外の神を信仰するということなのではないでしょうか? 聖書に書いてあるのは「人の前で私を拒むものを、私も天の父の前で拒むでしょう」(ルカ12:8)ということです。 あなたが、もし、「私はキリスト教の神を信じています」と、人前で宣言することができる、後ろめたいことがないなら焼香することは構わないと思います。現に、マザー・テレサは、インドで活動していた時、死んだ人の生前望んでいた宗教で葬式をあげたそうです。 確かに、偶像崇拝を禁じる個所は聖書にもあります。 ただ、聖書に限らず、文書を解釈するうえで一番大切なのは 「前後の文脈、あるいは全体の話の流れを考慮に入れてその語句の意味を解釈する」ということです。一部分だけを拾って読んだのでは、聖書ですら、どんな解釈をすることも可能になってしまいます。 たとえば、詩篇53篇では「神はいない」という語句もあります。 だが、これは「愚か者の心の中では神はいない」という全体の分を読まなければ正しい意味になりません。 そう考えると、私は偶像崇拝の個所は、現在の私たちが語句どおりに解釈するべき個所ではないと思います。 しかし、踏み絵で殉教した人たちは間違いなく「聖なる人」だと思います。 pokoperopoさんはいろいろな迷いがあるようですが、 私だって聖書を読んで、「?」と思うところはあります。 だが、まず最初に、聖書の全体からそこを解釈すること、さらに進めて、聖書が書かれた当時の時代背景やその言葉を発した人の立場などを聖書以外の文献で調べていくと、かなりの疑問は解決されていきます。 pokoperopoさんが、迷いにぶつかりながらも、それを切り開いていくことを望んでいます。
お礼
迷える子羊さん、ご回答いただきありがとうございます。なかなか興味深いご解釈ですな。確かに前後の文脈は読み取らねばなりませんが、文字通りの言葉でなくして、何が聖句なのでしょう。あなたのような、素晴らしく柔軟なお考えの持ち主にかかっては、日めくりの教訓よりも、遥かに実用的な処世術の書となるでしょうな。みことばとは、それほど軽いものなのでしょうか?あなたがお悩みにならないわけがわかりました。
補足
法要に際して、人前で宣言するのが、最もふさわしい行いではないですか?どのような状況でも問われなければ、偶像崇拝禁止の普遍性は失われます。妥協する者は、それにふさわしい報いしか受けられません。神は生温いものを吐き出すのです。いつから、異教徒の祭儀に手を合わせても、証しさえすれば、偶像崇拝とはならないとなったのですか?そんなことを、聖書のどの箇所が示していますか?よろしければお答え願います。
- katyan1234
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神はこの宇宙を作りキリストは私たちを救うために神がマリアの体を通して私たちのために死んでくださった。 聖霊はキリストが去った後に助けぬしを送ると言われクリスチャン一人一人についてます。空気と言う感じ。理解しなくてもいいよ~ http://www.geocities.jp/pascalianx/mes13.html 油と言う人もいますね。まああんまり考えない概念的なもの 大切なものはpokoperopoよ、安心しなさい。あなたの信仰が救った 私たちはpokoperopo様がどうのように救われどのように導かれたのかもわかりません。祈ってますね。 深く考えないで。賛美と感謝する事が大切!
お礼
カッチャンさん、ご回答いただきありがとうございます。思考停止と従順の違いをよくお考えになってください。私へのご助言をされる優しさには感謝しますが、《三位一体》の説明としては、いかがでしょうか?わからなくても問題はありませんが、キリスト者が、キリストをわからないままにしてもいいのでしょうか?
補足
思いを巡らせよ、とありますが?私は反対はしておりません。理解できないものは、問い続けるのが、真摯な祈りです。その祈りの中で、留保せよと聞いたならば、そうすればよいのではありませんか?よろしければお答え願います。
- katyan1234
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もうぶっちゃけた話をします。 カレーライスの素材をばらばらにしてカレーライスと言えるのか? 言えないよね。だから考えないでください。ある人はキリストに祈りある人は神に、ある人は聖霊に祈ってもかまいません。だから等価 合い等しいという考え方。 昔は聖霊を信じない、キリストを信じない、またみんな同じ神だと言う人もいてキリスト教とはこの3つをいう。と言う感じです。 使途信条を読みますよね。それを持って同じ信仰者だと認めると言う事を言いたいだけ 本筋はイエスが言った言葉そして行動によって救われていますよね。 だからキリストを信じないと話にならない。 だから私は門である。 私を通って入る者は救われる(ヨハネ10:9) まあ質問して確認したいと言う感じなんでしょうが。あれこんな事も知らないの~と言う感じで不信仰を諌められてしまいました。 ある人は神様、ある人はキリスト、ある人は聖霊、どれに祈っても同じ 私は焼香してます。心で、もしキリストを信じなさるなら救ってくださいと祈ります。
お礼
カッチャンさん、ご回答いただきありがとうございます。そうですか、カレー粉と、具と、米(またはナン)とは、等質かつ等価なのですか。まさに素晴らしく深い信仰ですな。キリストの門をくぐった先に、焼香があるのですな。踏み絵を踏んで、心で赦しを乞う。まさに、私が小学生の時の発想です。キリストの証人が信仰の証しを選ばなければ、切支丹も浮かばれませんな。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。だそうです。今日は聖日ですので、兄弟姉妹とよく相談されるがよろしい。
補足
《三位一体》を、カレーライスに例えた場合、焼香は福神漬にもならないばかりか、阿片のごときものではありませんか?あなたは、キリストの証人ではありませんか?それとも、世俗への順応を証しするのですか?イエスは言われた。「私よりも、父母を敬う者は、私にふさわしくない」。違いますか?
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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pokoperopo さん こんにちは。 さらになお読み取りにくい文章ですが 示唆するところも少なくないと考えるものを引きます。 ▲ (アウグスティヌス:神を見ること) ~~~~~~~~~~~~~ それゆえ 神は本性的に不可視であり 父だけでなく 三位一体それ自体 一なる神である。そして不可視であるだけでなく 不可変である。神は望んだ人に 望んだ姿で現われるが 神の許にはその完全な不可視で 不可変な本性はとどまる。 思うに 真に敬虔な人々の望み――それによって彼らは神を見ることを欲し 渇望しながら 熱烈に求めるが――は 神ご自身ではないが まさしく神が望み 現われるその姿をではなく 神ご自身であるところの本質を見ようとして燃えるのである。神の忠実な僕である聖なるモーセは この望みの炎を示し 友が面と向かって語るように神に語り 次のように言う。 もしあなたがわたしにご好意を示してくださるのでしたら わたしに あなた自身をお示しください。 (出エジプト記33:11-13) それゆえどういうことになるのか。それは神ご自身ではなかったのか。もしそれが神ご自身でなかったら 神に《わたしにあなた自身をお示しください》とではなく 《わたしに神をお示しください》と言ったであろう。しかしながら もし彼が神の本性と本質を見ているとしたら 《わたしにあなた自身をお示しください》とは言わなかったであろう。それゆえ 神は現われようと望んだその姿で現われ モーセが見ることを欲していた本性そのものとしては現われなかったのである。 それはたしかに別の生において聖なる人々に約束されていることである。したがって モーセに対する答え 《人はわたしを見て なお生きていることはできない》(出エジプト記33:20) すなわち この世に生きる人は 神をあるがままに見ることはできない ということは真である。というのは 多くの人々が見たが それは神の意志が選んだものであり 本性から形づくられたものではないからである。そしてもし正しく理解されるならば それはヨハネが述べたこと すなわち 愛する者たち わたしたちは 今既に神の子ですが 自分がどのよう になるかは まだ示されていません。しかし 御子が現われるとき 御 子に似た者となるということを知っています。なぜなら そのとき御子 をありのままに見るからです。 (ヨハネの第一の手紙3:2) ということにほかならない。 (アウグスティヌス:神を見ること あるいは手紙147 8・20 茂泉昭男訳) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ひとに経験的なものごととして現われるのは 特に取り出すなら 父でも子でもなく聖霊だと思われます。しかも ▲ 神は望んだ人に 望んだ姿で現われるが 神の許にはその完全な不可視で 不可変な本性はとどまる。 ☆ つまりこの聖霊も ひとには――経験的な事物をとおして――部分的に知られるように 現われる。その聖霊なる神じしんは 父や子と同じく 三位一体として 完全なる神にとどまっている。 と見ますが どうでしょう? * 第二段落は 意味がとりにくいです。 第三段落は よく読むと分かりやすいです。
お礼
ブラジュロンヌ閣下、ご回答いただきありがとうございます。いろいろ教えていただきましたが、正直に申し上げまして、混乱が増すばかりであります。失礼ながら、他のご回答も、曖昧の域を脱していませんし、真っ向から三一等価を唱えられるのは、お一人であります。もちろん、これを支持される方もお見えですが、それらのご回答は、むしろ信仰上のお立場のみを、表明されておられる感が拭い去れません。確かに、父なる神が子なる神を、人間と同等に引き下げられ、十字架の痛みをもって、人間への憐れみとされたのは理解できます。しかし、子なる神は、父なる神そのものといえるのでしょうか?救世主を世に与えられた事実をもって、神の愛としても、キリスト・イエスが父の右の座に着くことが、すなわち父と同格であるとは思えないのです。これを認めないのがハリストス教会でしょう。私はこの会派について、多くを知りませんが、三位一体への懐疑が、これらの会派の根本原理であることは、疑いようがありません。私には、彼らが不信仰であるとは思えません。少し話が逸れますが、デンパと揶揄されるのを覚悟で申し上げましょう。十字架の意味は、第一に罪の贖い、これには誰も異論を差し挟まないでしょう。第二に、ベニー・ヒンという伝道者いわく、《癒し》だそうです。まあ、そうであろうと思います。私なりに、それだけかと問い続けたところ、第三の意味があるとの啓示を受けました。それは、《十字架の終焉》だそうです。人の子は責められるところがなく、最も十字架にふさわしくない者でした。バラバが釈放され、イエスが十字架につけられたのは、何人も十字架にはふさわしくない、何人も十字架につける資格はないからだそうです。この世から、死で罪を購わせる慣習がなくならないかぎり、人の世は殺伐として、人類は本気で罪を赦さず、また自らの罪の赦しも乞わない。律法に勝る、十字架による赦しを受けなければ、人は律法に苦しむ。イエスは私に、こう語りました。奇しくも、三つの意味を持ちますが。
補足
《三位一体》それ自体が、一なる神であるならば、なぜ1で説明がつくものを、敢えて3としたのでしょうか?そもそもが1でないとするならば、不可算の存在とするべきではないでしょうか?《三位一体》を認めるにしても、その不可視性をもって、等分等価であることを、問う必要がないのではないでしょうか?よろしければお答え願います。
- hhituji
- ベストアンサー率30% (15/49)
三位一体でこれほど悩まれる人が多いとは私も最近まで知りませんでした。 pokoperopoさんの文面をお読みすると、どうもイエスが「神」であることを信じられていないような気がします。 新約聖書を注意深く読めば、イエスが自分自身を「神」と考えていたこと、そして、弟子たちがそれを認めていたことがわかります。 私がよく説明に用いるのはヨハネ8:57、58です。 ここで、イエスは「アブラハムが生まれる前から私はいるのです」と言っていますが、これを聞いたユダヤ人は激怒してイエスを殺そうとします。 なぜ、このような極端な反応が起こったかというと、イエスが言った「私はいる」という表現が、ギリシア語から原語のアラム語に変換すると神の名前になるからです。 出エジプト記 3章 14節に神が自分の名前をモーセに教える場面があります。このとき神は自分の名前を「私はある」というものだと言いました。これが子音文字で「YWHW」です。 この名前は聖なる名前とされ、一般の人が発音することは禁じられていました。唯一、その年の大祭司のみが年に一回、神殿の奥で神の名を呼ぶことを許されていました。 そのため、この発音は今は分からなくなってしまいましたが、おそらく「ヤハウェ」ではないかといわれています。 ところが、イエスは、この名前を、自分の名前として、衆人環視のなかで何度も使っています。その一つがこのヨハネの福音書の個所です。 つまり、この個所は「私は神である」と言っているのに等しいのです。 その証拠に、ユダヤ人は激怒してイエスを殺そうとしています。このような反応がくるというのは一体どういう意味なのでしょうか? そのほかにも、イエスが自分を神だと考えていたこと、弟子がそれを認めていたことを証明する聖書の個所はたくさんありますが、ここではこの一点だけを例として示しておきます。 ところが、ここで問題が起こります。イエスが神ならば、「神は一つである」という聖書の記述は矛盾しないでしょうか?イエスは「天の父」に対して祈ったりしているのです。人間の目から見れば、明らかに、「父なる神」と、「子なる神」の二つがいるように見えるのです。 結局弟子たちは、神は一つであるが、「父なる神」「子なる神」「聖霊なる神」の3つがあるように見えるという現実から、「三位一体」という考えを持つようになったのです。 つまり、「三位一体」は、奥深すぎて人間が理解できない神の性質を、わかる範囲で説明した概念なのです。言い換えれば、神が、ご自分の性質のごく一部を、人間の理解できそうな範囲で啓示されたと言っていいでしょう。 三位一体はイエスの死後に作為的に考えられたものではありません。 安心して信仰するに足る教義なのです。
お礼
子羊さん、ご回答いただきありがとうございます。悩んでいますね、ずっと。聖書には食い違う記述もありますからね。〈父、子、聖霊〉それぞれを否定するものではなく、その解釈や位置付けが曖昧で、会派ごとの差異が大きいことが、私の不信感を増大させるのです。もし、聖書に神はいないと書いてあったら、その箇所だけが偽なのでしょうか?三位一体を疑わせる記述を、どう捉えるべきかはわかりません。
補足
少しく、本質問趣旨から逸れる補足質問をおゆるしください。クリスチャンは、焼香してもよいのでしょうか?内面はどうあれ、偶像を礼拝したことになりませんか?踏み絵に殉教した切支丹は、バカを見たのでしょうか?あるいは、仏教の僧侶の肉食妻帯はよいのでしょうか?これらは、言い訳ではありませんか?信仰とは、世俗に妥協することなのですか?よろしければお答え願います。
- kigurumi
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kigirumiです。 >古代人は、3の数を神聖視していたようです。これには、何か特別な意味があるのでしょうか? >4の数も同様で、3と4を掛け合わせると、12になります。これも12進法に見られるように、神聖視されています。よろしければお答え願います。 数字。 本屋で数字にまつわる不思議というような内容の本を手に取ったが、くらっときたので本棚に戻した。 が、とにかく、数は単なる数字ではなく、現実が数字で解説できる とか なんとか そんな風なことが書いてあったように記憶しています。 池坊。生け花の流派の一つで、自然の素材を使いこの世を表す芸術の一種なわけで、この流派で活ける時の最低限のルールは<3つの柱>を据えること。 これが無いと、池坊流とは呼べない。 で、生け花のセンセに「何故3なのですか?」と聞いたところ、しばらくして、こう答えられた。 「この世の最小の数は3だから」 なるほど! とすっごく納得してしまった。 3次元に我々は存在していますよね。 http://ja.wikipedia.org/wiki/3%E6%AC%A1%E5%85%83 過去、現在、未来。3ですよね。 過去の私と現在の私、未来の私がそれぞれ別人ってことは無い。 つながっていますよね。 古代の人もそういうのに気づいていたようで、天体の運行を知ることで、これから起ることもわかるだろう ってしたようです。 アテン教、どこで知ったのかというと聖書関連の本を読んでいて。 ユダヤ教の源流はエジプトのアテン教だって指摘したのは、フロイトだったような。 そして聖書に書いてあるって。 「聞け イスラエルよ、我らの唯一の神はアテンなり」 誤訳なのか、伝言ゲームの過程で起った事故なのか、現在聖書では「聞けイスラエルよ 汝が神なる主は唯一の神なり。」となっている。 らしい。 らしいってのは、古代のエジプト語はヘブライ語に転化されると、どうなるのか、私は実際確認していないから。 言われて「へー そうなんだ」って鵜呑みにすると、そうなる。 で、、、、、 浅く広くをモットーとしているので、SG-1のファンでもあり、DVDコレクションも買ってしまった。 「オーライこそ新の神である、服従しなさい」という伝道師が登場し、人々というかこの宇宙の人々?は、どの星の人々も、とてつもない力を持つその神に服従をしていくわけです。 圧倒的な力を持ち、とてもかなわない。善だって言うのだから、善だと思うしか選択肢が無い状態で、惑星のそれぞれの人々は、支配下に入るか、入らなければ命を絶たれていったわけです。 そんな中、高みを知りえたダニエル博士が「ん?」って疑問を持った。 「本当にそれが善なる神なら、こんなことするわけない。 そんな命令を善なる神がするわけが無い。 これは偽者だ」 グノーシス派もそんなことを発見し主張したら、キリスト教に弾圧された。 「オーライの義は人間程度のレベルではわかりえない。全部をわかりもしない者が唯一救われる道は、知りえた者の言う通りにするしかない無い」ってソーカーは言うわけですが、これはプラトンの考えと同じ。 ダニエル博士は高みに至ったわけだが、帰ってきてしまった人。 この作品の作者は、ダニエルを仏陀としているでしょうかね。 ちなみに ダニエルって聖書に登場する人物で、「神がそんなに沢山食うわけがない」と、絶対的な神が存在していると人々にホラ吹き信じ込ませた聖職者が、実際は備えられたものを食っていると見抜いた人。 で、、えっと、、、購入したコレクションの本によると、古代エジプトの人々は、人間は肉体(カー)と霊魂(バー)があり、死後にむすびついて、霊的な存在「アクー」になると考えられていたそうです。 アクーこそ来世で生まれ変わった新しい存在だとしていた。 カーとバーとアクーねぇ・・・・ というわけで、3という数字に関して人間がどうしてこだわり続けたのかというと、この世が成り立ちえる最小限の数が3だからなわけで、そこから末広がりに伸びているわけで、従ってアテン教のあのシンボルは3なわけです。 だからQ-5の答えはアテン教でいけば、太陽のことを指しているので太陽。 原子核と電子とプラズマ?? うーーん よくわかりませんが、太陽表面は6千度くらいだけど、コロナは100万度くらいとされている。 こんなあっちっちが地球に届いたら、地球の生命体はひあがってしまうわけですが、大気圏がたまたまできちゃったことで、生命が存在を維持するのを妨げる有害な宇宙線をシャットアウトすることができ、太陽系の中で唯一生命体がいる惑星地球になっちゃったわけです。 そうはいっても、太陽の光のお陰で、食うものが育っているとわかっているので、産み 育て 破壊するという最低3つの性質を持つ太陽を崇拝せずにはおられなかったのではないかと。 だから、3つを分解して どれが一番かってわけじゃないです。 3つで成り立っているので。 うまく説明できませんが、古代のインドの人はそれがわかっていたので、死も受け入れるってしたんじゃないかと。 あ、そうそう12、、、 数にまつわる不思議な話って内容の本を読めば、どうして時間は12なのかというと、昼じゃなくて夜観察したからじゃないかと。 太陽の通過する道。黄道。(実際は地球が動いているわけですが、めんどくさいので、太陽が移動しているってことにして話を進めます。) この太陽は一周する。 約2万5千年かかって戻ってくる。 この太陽が通過する過程にある星を、古代の人はグループ化したんです。 12のグループにした。 人間の脳って、 ヽ(*⌒∇⌒)ノ::・'゜☆。.::・'゜★。.::・'゜☆。 を見ると、星をそれ~ってふりまいている人って見てしまいやすいですよね。 そんな能力を持っていたので、太陽の通過する道にある惑星をグループ化してしまった。 (後に別の星を発見したので現在は13ですが、古代は12あるとした) 太陽は12の星座を通過して戻ってくる。 で、春夏秋冬。 太陽の日の出が一年で一番短いのが冬至、長いのが夏至、同じなのが春分点と秋分点。 4なわけで、12を4つに区切ったので、太陽を簡略化したシンボル○に十 ってのが、古代の信仰のシンボルになったわけです。 で、12の星座を4つに区切ると3づつですよね。 で、モーセは牛の彫像を破壊させたって聖書にある。 その頃の時代は、ちょうど太陽は牡牛座の方角から牡羊座の方角に移り変わっていたから。 観測結果でそうだったから、古い時代である牡牛の時代を捨て、新しい時代の牡羊座を迎える、 まるで新年のようなあんな感じに人々は新しい時代の到来を喜んだわけです。 で、太陽が一周するのは2万5千年でしょ、、、ほんで12に区切ったから、一つの時代を2千年から2150年くらいの間ってなったわけです。 それでいくと、今度は牡牛座の時代の終わりが到来したわけです。 今から2千年ほど前が、モーセの時代から新しい時代に移り変わった時期なので、宗教が盛んになったってわけです。 その盛んな時代にいろんな宗教が乱立した中で、キリスト教もできたわけです。 古い時代の象徴である羊を生贄にささげ、新しい時代である魚座の時代を迎えましょってわけです。 だから 古い時代の象徴である羊を生贄に捧げることで、新しい時代が到来するってなったわけです。 それが混乱したのか知りませんが、神の子羊イエスを殺すことで、新しい時代を迎えるってしたわけです。 で、新しい時代を迎えたと考えた派閥は、魚座の時代が到来したとして、魚をシンボルとした。 星を見て、二匹の魚だってしたことで、魚座になったわけです。 だから、イエスが二匹の魚で人々を養ったって物語ができたわけです。 だって 古代の放牧していた遊牧していた人々は、夜空をみて、二匹の魚だってしちゃったんだもん・・・・ 夜空を見上げて、羊飼いたちは、いろいろ空想したわけです。 で、ある時、太陽は地上すれすれを通過し、3つの星座が現れ、十字星が現れ、その位置あたりには昼間に太陽がいるってなり、ちょうど太陽が十字星と重なるってなって、その時期が冬至の12月25日で、だから 太陽が十字架にかかるってなり、紀元前2千年くらい前だったか忘れましたが作られた神話では、太陽が新たに生まれるとき、3つの星が太陽に近づき、神の子が十字架にかかるって内容の物語ができちゃったわけです。 <イエスが誕生するとき、東より3つの賢者がやってきて誕生を祝った> <十字架にかけられた> はい イエスを太陽の擬人化だとしたら、地球からだとそう観測されたので、その通りです。 いやぁ~ 古代の人の夜空観察と想像力 すごいですよね。 神話作ってしまうんだから。 ただし 太陽のふるまい というか 地球のある地点から観察すればそうなるが、日本ではそうならない。ましてや南半球ではそういう観察はできない。 現実と同じとするためには、その経度で暮らすしかないわけです。 そうしないと「パパー 夜空観察しているけど、そうならないよぉ パパの言っている通りにならないんだけどぉ。」って子供につっこみいれられ、子供から信頼できない大人という烙印押されてしまいます。 とまあ、古代の放牧民の話が、あっちこっちに伝わり、観察することなく、話だけ広まって、普遍性を持つと思われてしまったという・・・ 地球は動いており、しかもその速度は一定じゃあない。 従って普遍じゃないものをもって普遍だって説明しようとしても無駄。 そもそも観測地点によって結果が違うものは普遍とは呼べない。 太陽も普遍ではない性質を帯びている。 その普遍性が無いものをもって、普遍だということ時代 理論が最初から破綻しているわけで。 で、結局ですね <地はかたちなくうつろで闇が水の面にありルーアハ(日本では聖霊と訳されている)が水面をおおっていた。> はい 皆既日食の時の観察状況ですね。 太陽は直接見れません。 が、見れるときがある。皆既日食の時です。 そのときに観察した内容が、聖書の冒頭の文句ですね。 太陽 月 コロナ。 皆既日食の時に太陽に月が重なりそう見えるわけですが、、、 地球のある地点からはそう見えますが、 別の方角から見ると 重なって見えません。 月強し、太陽が出ている時でも、日中も出ている。 そういう意味で 太陽は夜になると見えなくなるが、月は昼間も人間を見ているということで、信仰されたりもしたんですね。 って感じで、、、まあ 7月だったかに皆既日食ありますから、観察地点によっては完全に重なるように見えるでしょうから、三位一体の瞬間をご堪能ください。 月が太陽を食いますから。 (子供じゃないので、太陽と月って距離が離れているから、実際飲み込むわけじゃあないとわかると思いますけどね。)
お礼
着ぐるみさん、ご回答いただきありがとうございます。私の記憶が確かならば、ユダヤ教の源流がアテン教にあると指摘したのは、ユングではなかったかと?いや、フロムかな。まあ、いいや。うろ覚えです。3が最少の数字であるとは、面白い考え方ですね。てっきり0だと思っていました。古代では現代のように、天体の神秘が明かされていなかったことが、想像力を逞しくさせたのでしょうね。神話の発達には、誠に興味深いものがあります。なにが悲しくて乙女座などというものがあるのでしょう。オッパイはどこについているのでしょうか?うお座(双魚宮)といいますと、私はうお座の生まれで、しかも双子なので、時代の寵児ということになってしまいます。従って、これは完全に腰だめです。ただし、双魚宮という位相が、争いをもたらしやすいことには頷けます。我が兄弟は争いが絶えません。ところで、ダニエルはベジタリアンのはしりと思っていたのですが、賢いとはいっても、実はずる賢いのですね。それにしても、この3という数字を、《三位一体》に持ち出したのには、深いわけがありそうです。何らかの秘蹟とでもいうべきでしょうか?
補足
つまり、3という数字は、物事を捉えるにおさまりがよいというわけですね?よろしければお答え願います。
- katyan1234
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本当に正解はないんだよね。信仰に伴い理解していくものだから >役割とは何でしょうか? これは理解してますよね。仕事働きを聖霊は空気のようなものだから説明は無理、感じているというのがふさわしい。聖書から引っ張り出して説明は出来るかもしれないが、 まず一部のクリスチャンは神とキリストは同じものだと考えていた人もいます。同じですか?また神と聖霊は同じですが? 聖霊とキリストは同じですか?違いますよね。 父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです
お礼
カッチャンさん、ご回答いただきありがとうございます。やはりというか、よくわかりません。子は父の代わりなのか、それとも、父の右の座に着くからには、補佐する者なのか。人の子は、誰に祈っていたのか、そもそも父は祈るのか?父が御霊を遣わすのなら、子は聖霊のバプテスマを与えるのですよね?それならば聖霊は、父と子の手先ではないのか。あれこれ考えて、迷宮に迷い込んでしまいました。どうかお力添えを願います。
補足
父と子と、神とキリストとは、同じではないのですか?それぞれは、どう違うのでしょうか?よろしければお答え願います。
- zatousan
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こんにちは、座頭山です。 >ズバリ、三位それぞれの位格は、等質かつ等価であるとするに足る、聖句はあるのでしょうか?よろしければお答え願います。 山ほどありますが、どれもこれも、無味乾燥な聖句ばかり、、、とても引用する気に成れません。 逆に、否定する聖句も山ほど、、、これも無味乾燥なものばかり、ストックがありますが、とても引用する気になれません。 んで、これだけでは帰れませんので、興味深い、、、かどうかは、、、べつとして、一つの視点を述べておきます。 『主は言われる』というのは、別に神と顔を会わせた、預言者でなくとも言ってますし、顔を合わせなくて、おそらく正確に言うならば、 『聖霊に感じて言った』の筈です。 使徒行伝28章25節 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 25)互に意見が合わなくて、みんなの者が帰ろうとしていた時、パウロはひとこと述べて言った、「聖霊はよくも預言者イザヤによって、あなたがたの先祖に語ったものである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ しかし、イザヤは、(他の預言者も)、一度も『聖霊に感じて言う』とは言わずに、『主は言われる』と言っているのです! これは、どういう事かというと、 レビ記19章12節 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 12)わたしの名により偽り誓って、あなたがたの神の名を汚してはならない。わたしは主である。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ なのです。 故に、聖霊=主でないと、、、、。 という見解も有り得ます、、、、、。 またその逆の見解も、、、、。 どちらの見解を支持する聖句も山ほどあり、、、、現在この質問に関しては、、、、。 興味深いのが見つかったら、来ます。 見つからなかったら、この辺で、、、、失礼します。
お礼
座頭山猊下、ご回答いただきありがとうございます。「6)ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちのために与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。7)その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」(イザ9:6.7)。父と子の同格を思わせる聖句は、一番はこれでしょうか?ここでは、はっきりと《主権》を謳っています。父と子とでは、どちらが主権者なのでしょう?わが国では、主権者が天皇から国民に移りましたね。帝をいただく国の主権者が国民であることは、なんだか矛盾しているような気がします。そういえば、臣民とか皇民とは、呼ばなくなりましたね。主権者は、あくまでも〈主〉ではありませんか?
補足
聖霊=主ならば、父=子が成立すると仮定した場合、子=聖霊となり、三者は等しいと証明されます。そこが問題です。私は、父=子にこそ、疑念を差し挟んでいるのです。人の子は、「父と私は、一体です」とは言ったものの、父と同列に扱ってよいものでしょうか?よろしければお答え願います。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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No.3&5&6&9&11の bragelonne です。 人間としては 必然性もしくは必要性に応じて どんどん進めてまいります。 ★ (No.7 補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 《三位一体》とは、3でなければうまくいかないということなのでしょうか? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これを考えます。 基本的には 次のようだと考えます。 1.~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 神が 神する。自同律=自己同一性のことである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 1a. 人間にしてみれば 精神が精神する。 2.~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 《神した》結果 自身が・つまり同じ神が 生まれた。これを 親(仮りに父)が子を生んだと表現する。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 2a. 人間にとって 《精神が精神する》は 一般的に 《わたしがわたしである》ことである。 2b. と同時に 自己の生の過程の蓄積から そのいま必要な部分を明るみに出すことでもある。存在過程の全体から 必要な知識ないし情報を引き出すことである。これは 記憶の宝庫から得てくる。 2c. 記憶は すでにみづからの内に 秩序作用を有し 知識を整序しているのであるが ここから引き出してくる情報は それとして 整合性をもつことが 一般に 要求される。それは 知解という行為能力が担う。総じて 記憶が知解を生むかのようである。 3.~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 神において 父と子とは 同一である。もしそれでも二者があるとすれば 互いに――同一であることにおいて―― 交わる。 この交わりとしての神が現われる。同一である二者の交わりにおいて 同一であることが 自同律を持つからである。 それは 安易ながら 人間の言葉を用いれば 父と子との愛である。 人間が認識しうる愛ではないので 霊つまり聖霊と言う。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 3a. 人間にとって ここに得た知解(その情報)は さらに 記憶と照合しつつ みづからを精緻なものにかたちづくっていく。それは すでに背後に 何の目的でどのようにそれを用いるかという我が意図があるからだ。 3b. しかも これらの作業をうながすのは さらに背後の我が意志である。 3c. さらにしかも この意志は すでに初めに《精神が精神した》とき 《わたしがわたしである》ことの心の伸びのことである。そしてその心は 記憶とその自同律のごとき知解とのもとに おのれを自覚したわたしである。伸びつまり志向性は 意志であり 心を成り立たせているのは 記憶と知解であろう。(三者の全体としての精神のことも 別様に 心と言う)。 3d. 人間にとって 記憶と知解と意志とは 幸か不幸か 一般に 互いに同一ではない。通俗的に言って うそがある。と同時に 一般に その自然本性においては 三者は 互いに同一でありうると捉えられている。良心と言ったりする。 3e. この《良心》ゆえに 人間も 《自由》という概念を得ている。もし良心がなければ――三者の一体性が 完全な絵空事であるならば―― 自由という思惟とおこないは 収拾がつかないという意味である。世の中すべて 飲めや歌えやとなる。 3f. 人間にとってのこれら三行為能力の一体性は 長期的な過程における・かつ 社会的な共生をその内容とする整合性としての一体を 目指している。じんるいの悲願である。 * わたしたちは 世のうそから救われるには このような大うそを想定し そのもとに 経験科学の真実を有効に使うという道が 問い求められたようである。事実 民主主義の社会では 憲法を初めとし社会の取り決めとして そのようになっている。人びとも おおむね 自由と民主とをとなえている。
お礼
ご回答いただきありがとうございました。
お礼
ブラジュロンヌ閣下、ご回答いただきありがとうございます。たくさんのご回答をいただきましたが、思索が追い付いてまいりませんので、補足とお礼は、のちほどまとめていたします。悪しからずご了承ください。
補足
この欄をお借りして、追記をさせていただきます。 私は、長らくこの問題にこだわってきましたが、皆さんのご回答をお読みして、もっと謙虚でなければ反省しました。ですから、《三位一体》を一なる神として受け入れ、この位相については思索を留保し、あるがままのもの、絶対的な真理と考えを改めます。 しかし、これとは違うお考えのご回答に反目するものではありませんし、私も今までの錯綜がありましたから、様々な意見を尊重いたします。ご回答いただいた皆さんに、改めてお礼申し上げます。