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恥ずかしいこと、後ろめたいことをする心理
一般にマナー違反だと認知されているようなことをする心理というのはどういうものなのでしょうか? そういうこと(マナー違反、浅ましい振る舞い)をしています、と得意げに吹聴している人はめったにいません。ネットでも現実でもほとんどいない。それでいて、マナー違反や浅ましい振る舞いがあふれているじゃないですか。 つまりこういうことをしている人は、それを「恥ずかしい」「後ろめたい」と思いながらやっているということだと考えています。この気持ちを持っていながら、なぜそのような振る舞いをするのか?というのが質問なのですが、どうなのでしょうか。 ex.1 幹線の中央分離帯を業者が掃除しているので、何でかと思ったら、ごみを捨てるやからがいるのですね。それでペットボトルやら雑誌やらごみが分離帯に山のように積みあがっています。 ex.2 ここの相談系カテなどで質問者に向かって「あなたのために書いてる」とか「おれいしなさい」とか、ろくに質問も読んでいないくせに恩義せがましい脅迫めいた調子で投稿しまくるものたち ex.3 路上喫煙 ex.4 列車での割り込み ex.5 ・・・・・・・ ex.∞
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専門家ではないので単なる感想だと思ってください。 提示されたご質問は「禁忌への侵犯」「セルフイメージの拡大志向」「匿名性」というキイワードである程度説明がつくのではと考えます。 人間は単独者として生まれ落ち、単独者として死を迎えますが、その間は群棲者として社会を形成して過ごします。生まれ落ちた人間には社会は与件であり気づいた時には「既にそこにいる」という状態ですね。生物個体は生殖により繁殖し生命を繋いでいくように、社会は社会を存続させるために「ルール」を作りその構成員に守るように強要します。道徳を基準にした慣習法であったり法律条文や判例による法治ということですね。そこではしてはならないこととして、「殺人」を頂点とする、社会の秩序を乱す「行為」の影響力の大小を予め判定した「罪刑認定」が決められていて、秩序維持を優先するための道具(警察などの暴力装置)が完備され、それを侵犯した者へ「罰」を強制的に与えます。 一般に人間はこの社会生活上の一定のルールを学ぶために3、4歳あたりから「幼稚園」「保育園」という収容所で「他人に迷惑をかけること」をすると注意されたり叱られたりし、「他人のために役に立つこと」をすれば褒められるといった教育という名の馴致を受けるわけです。 そういった「教育」の目標の一つにマナー順守が出てくることになります。 この「マナー順守」とはもともと人間が持っている特徴なのではなく、社会秩序維持のために後天的に注入されたものですから、それを守る道徳心の強弱により「マナー順守」が「快楽原則」とぶつかり、結局、マナーを順守した方が「得」だと多くの人は結論付けて「しぶしぶ」守ることになります。 誰しもこの「快楽原則」に悖反する「マナー順守」を侵犯したいという志向があるのだと思います。ではなぜこの「マナー順守」=禁忌(タブー)を大多数が侵犯しないかというと、「禁忌への侵犯」が受ける罰への「不快感」が「快楽原則」を上回るからです。つまり、より「不快」なことを避けるために小さな「不快」を我慢するというわけです。 問題は「軽犯罪法」にひっかかるかひかからない程度のマナー違反です。 ex.1のゴミ捨て 公共の場所での「ゴミ捨て」はマナー違反です。しかし「マナー違反」への侵犯は誘惑的です。ゴミを手に持っている。どこかに捨てたい。でもごみ箱がない。見ると誰かが先に捨てている。(この段階で人によっては「マナー違反」へのブレーキがゆるむ)誰も見ていないからラッキー。でポイする。小さな快楽を得られたわけです。この快楽は軽度の麻薬効果があり、再犯性が非常に高いようです。ですから、誰かがいて自分の行為を咎め立てされる可能性があれば「侵犯」へのブレーキがかかることが多いでしょう。 また「誰が捨てたのか分からない」という「匿名性」も大きく関与しているでしょう。もし捨てようとするものに自分の姓名・住所・電話番号が記してあれば当然捨てることはしないでしょう。 さらにそばに友人がいて、自分を「大きく見せたい」という欲求がある場合、「タブー侵犯」は小さな英雄になるという幻想を与えます。よく素行の悪い青少年が集団でいる場合、その友人たちの目を意識してかなりの「悪事」が行われることは周知のことです。 さて、この「自分を大きく見せたい」という欲求は、最初にキーワードに示した「セルフイメージの拡大志向」とつながってきます。 人は誰しも「セルフイメージ」を持っています。自分に対する社会的な評価です。当然、社会的な評価ですから、よい評価を得る方が「よい」つまり「望ましい」ということにつながります。 このため勉強している間は「よい成績をとる」ことが「よい評価」につながり「より多くの快」をもたらします。スポーツが出来ることができない他者より「よい評価」につながるからがんばる。美しい顔やスタイルの持ち主が社会的に「よい評価」を得られるから、女性は素顔が分からないような「化粧」をし、優れた伴侶を見つけなくてはいけない年齢ではダイエットをするというわけです。(これが自己内制度となって「外に出るとき、人に会うとき」は「化粧」をするのが当たり前、といった転倒をおこします) さてこの「セルフイメージ」は社会的評価と密接に結びついていますから、社会的によしとされる「イメージ」が志向されることになります。 すなわち、「勤勉」「他人を思いやる」「人格者」「指導者」「誰からも好かれる」「人が見ていなくてもマナーを守る」などなど無数の「よいイメージ」が志向されます。 お示しのex.2 >質問者に向かって「あなたのために書いてる」とか「おれいしなさい」とか、ろくに質問も読んでいないくせに恩義せがましい脅迫めいた調子で投稿しまくるもの も、「人格者」「リーダー」「教育者」は「人をよき方向へ導くものだ」というドグマに頭が支配とまではいかなくても、その「寄り掛かりやすいドグマ」(=一種の思考停止ですが)で頭が固まっていて、「恩着せがましい」「脅迫めいた調子」を出来させていると思われます。 さらに人は簡単に「人格者」「リーダー」「教育者」にはなれません。しかしこの「匿名性」のおかげで誰しも一時的に「人格者」や「リーダー」となり、見も知らない質問者に「あるべき態度」を教えることができます。これは「快感」でしょう。また人にあれこれ指図することも、それに(無意識に)憧れている者には「快感」となるでしょう。 ほんとうの「人格者」や「リーダー」はこういった匿名の場所では「人格者」ぶったり、「リーダー」ぶったりしないものであることを考えると、傍から見ていて「こっけいさ」や「あわれさ」を感じてしまいますが、ご当人たちには気づく気配もありません。 有体に云えば「空気の読めない」ご仁の空回りということになります。もっともこういった「善意」のおせっかいも時と場合により幾許かの「社会的貢献」をすることもありますから「悪」と決めつけることもないようですが。 ex.3路上喫煙 「喫煙」という常習麻薬の「快楽」が「マナー違反」の指弾を受ける可能性があるという「不快感」を上回っている。単なる「だらしなさ」の問題とも。また注意されたらその相手を脅かして黙らせるという「セルフイメージ拡大志向」を満足させることができる。「人より俺は強い」という何の根拠もない自信とか勘違い。 ex.4列車での割り込み 地下鉄なんかで電車待ちをしている列に並ばずに、開いた扉に割り込んで乗るということでしょうか。単なる自己中というか「しつけ」がなっていないというか。まあ、恥ずかしいという気持ちがなくなればその人にとってこの世は幾分住みやすい場所になるのでしょうね。もっとも程度問題であって、みんなのいる前で強烈にマナー違反行為を指弾されれば改善をする可能性もあるでしょうが。 というわけで長々と書き連ねましたが空振りしていないことを祈ります。
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- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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未成熟、経験不足だと存じます。 それと、このくらいはどうってことないや、と思っている。 重大性というと大げさだが、そういうことの認識が無い。 列車の割り込み、列の割り込みですね。どこが最後かわかりにくい。 つまりちゃんと並んでいないこともあるのではないですか。 路上喫煙ってまだ、禁止になってから日が浅いのかな。 人間の立ちションや犬の排泄の始末も、野原などでは安心して、草に座れないですね。 認識がないのでしょうか。 ゴミを捨てていく奴、宇宙のゴミもあるけれども。 ゴミがゴミを捨てていくんだろうか。これも認識の未成熟だろうな。 質問に書いていないこと: 裏道街道で、普段と違う自分をやってみたい気持ちってないのかしら。博打とか、どこか別世界での飲酒とか。それはあまり問題ないかな。
お礼
軽く考えている、あまりわるいことをしている意識がない、ということも大いにありえますね。実際私も前は結構違法駐車とかしてましたからね。それが結構自動車事故の原因になっていると思いなおしてからは自重するようになりました。 裏街道はあまり向いてませんね。興味もないです。
>この気持ちを持っていながら、なぜそのような振る舞いをするのか? 人間は誰しも少しでもよく見られたいという心理があるからでしょう。 で、自分のことは棚にあげ、 普段の習慣はなかなか治せないというのもあるでしょう。 結果としては、自分の都合の悪いことは言わない。 でも、めんどうくさいから、自分の悪業には改善することがない。 というところでどうでしょう。
お礼
そうですね。まったくその通りだと思います。 結局は性善説なんて幻想なんでしょうね。 都合のいいこと、計算高い、二枚舌というのが人間としてかえって普通なのかもしれないですね。
お礼
空振りなどとんでもない。大ジャストミートのご回答まことにありがとうございます。大変示唆に富んで、的確で、人間の真実を描写されていると思います。 これを読ましていただいて、ますます人間社会や人間そのものがいやになってきましたね(笑) 結局は人間は群れの生物ですから、その本能を生かすように社会制度をこしらえて生きている。その規範を維持するために収容所を作り、洗脳し(教育という名の)管理し、抑圧し弾圧し、ようやく社会を維持している、という姿でしょうね。 またマナーが本来的なものでなく、後天的高圧的に自己にのしかかってくるどちらかといえば脅迫的なものであるということもまことに賛同いたします。そして、それを守っていくのも、あるいは破っていくのも、結局は「損得計算」でしかない。本来的な善意とかいう話しじゃないですからね。 社会的評価がすなわち自己評価という点も賛同します。これも結局は群れ本能意識でしょうね。 >「タブー侵犯」は小さな英雄になるという幻想を与えます。 とはいえ、一般への披露は行われないのですよね。わる者ばかりの集団で始めて発揮される。これって結局は学生運動とか、226の血気将校とかそんな感じでしょうかね。いくら群れても一般社会と比較すれば圧倒的小数なのだから、開陳するわけには行かない。結局計算でしょうかね。そして、社会にこびる。自分自身の価値観を押し通さずに、社会の価値観にひれ伏す。その醜さ、虚弱さがなんとも無様です。