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無我について

今初期仏教を習っているんですが、どうしても諸方無我について理解出来ません。。 今理解しているのは、人間とは五蘊からなっており、諸方無常、つまり全てのものは不変ではないということから、自分の存在も変り行くものであり、常に不変的な自分の存在は有り得ないということだと思うのですが。 そして、本当は無我なのに、あたかも我があるようにするのは妄想でしかなく、苦しむという考えだと思うのですが、 では何故無我なのに、何故人間は五蘊の中にもある考えたり、知覚したり、行動したり出来るんでしょうか? 自分がもしおなかが空いた時に、食べ物が目の前にあるとすると、その食べ物を食べたいという欲求が生まれるのですが、それも過去の自分の経験から来るものだと理解できます。 でも、自分ということは本当は存在しないんですから、「自分の」経験ではなくなります。ということは、何故その食べたいと言う欲求が生まれるんでしょうか? その回答として経験と今の自分を結ぶ何か不変の存在があるはずだと、ウパニシャッドの考えがあります。 その不変なもの=我の存在とウパニシャッドではしていると聞きました。 そして、仏教ではその考えに挑戦して「無我」という考えが出たと言われているらしいのですが、結局その答えが五蘊とか変っていくものは苦だから、我は苦でないから無我であるとか、最終的には又最初の疑問である、無我なのに何故考えることが出来るのか、じゃぁ考えている人は何者なのか?っという疑問に帰ってくるような気がするんです。。 そしてその答えがウパニシャッドによる我の存在となって矛盾してしまいます。。 どなたか、この矛盾を解ける方お願いします!!

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  • mmky
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回答No.3

>>どうしても諸法無我について理解出来ません。 そりゃ質問者さんでなくとも、無我を「私は無い。 何にも無い。」などと間違って教えればわからなくなるのがあたりまえですね。 人間の肉体及びその感覚が五蘊ですね。人間は生まれるやいなや数十年後には間違いなく老いて死にますね。人間に限らず全てのものは変化の中にある(老いて死ぬ運命)存在という意味が「諸行無常」ですね。ここまでは大体誰しも理解できますね。 さてこれから「無我」の意味の説明になりますが、まず例えとして私の肉体と私の心について話しましょう。私は病気をして多少手足が不自由なんですが、これは私の肉体のことであって、私の心は肉体に無関係に自由そのものですね。例えば、事故などで足や手を物理的に失っても私の心は足や手があるように振舞うと思いますね。殆ど失って心臓と脳が生きてれば私は生きていると思うのですね。更にそれを一歩進めて、心臓と脳も失って、つまり肉体が完全に無くなっても「心としての私」は生きていると思うのですね。 そのように考えると、「肉体を伴う我」と、「肉体を伴わない心」=我としての二種類の我があることに気づきますね。 もうおわかりだと思いますが「無我」の「我」というのは「肉体を伴う我」を意味しそれを否定しているのですね。「肉体を伴わない我」を否定しているのではないのですね。これが仏教の我の概念ですね。 何にもなくなるのではないということさえわかれば矛盾はなくなるでしょう。 さて、本題に戻って「諸法無我」の場合ですが、諸法というのはあらゆる事象や物事という意味ですね。あらゆる事象や物事のなかで「私=肉体を伴う我」1人では存在し得ない〔生きていけない〕という意味ですね。人間1人が生きているという事実はたくさんの人々の協力があるからだと捉えればいいのですね。 これを仏教では網に例えますね。網目の一つ一つがつながって網になってますね。網目の一つは我ですが、我は気がつけば網目の一つであるという意味ですね。 網目の一つが私が私がと主張してあたかも自分が独立で1つのように振舞ってるがまず、私が私がという自分(仮の我)を否定してみなさい、そうすると網の網目の一つである自分(本当の我)に気がつくでしょう。という例えですね。 「無我」のそのほかの意味としては、 「無我」=「肉体を伴う我の否定」=「肉体を伴なわない我」、これを「空」と呼ぶのですね。「無我」=「空」につながっているのですね。 「無我」といえば何にもなくなると誤解した人が多かったのでわざわざ「空」を導入したのですが、それさえわからなくなってしまったということですね。

psuedoase
質問者

お礼

回答ありがとうございます! 私は英訳された本を読んでいたので、私が読み間違えたか、作者が間違った(違った)解釈をしたのかもしれません。。 そこではBlank「空」でありNothing「無」。 さらには、全ての事柄は存在していない、それはただの妄想に過ぎない。 というようなことを書かれていました。(私の読解能力によればですが。。 諸行無常については、大体分かった気で居ます。 「肉体を伴わない我」についてですが、 例えば「私は悲しかった。でも今は嬉しい。」 というように、過去の自分=悲しい 現在=嬉しい というように、メンタルな意味でも過去と現在の自分は違う、別人だといえないんでしょうか? 網の例えはとても分かりやすかったです。ありがとうございました。

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  • mmky
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回答No.9

追伸: 少なくても時間に対して不変な存在があるということではないんでしょうか? そして、その「何か」が「自我」としてはいけないんでしょうか? ○いけないということではありませんよ。真理の入り口にたったということですね。 「諸行無常」を釈尊が1番目に持ってきたわけは、全てのものが時間的に移ろい往くものだ、その中に変わらないものがあるといいたかったからですね。そこで2番目に「諸法無我」を持ってきたのですね。これは、自我=真なる我があるといいたかったのですね。真なる我を発見し磨けば煩悩の火を鎮め本来いた世界を見ることが出来るが3番目の「涅槃寂静」ということですね。これを三宝印といって仏教の旗印、いわゆる仏教の玄関にかがげられた印ですね。 玄関を入ると「法門無量請願学」「仏道無上請願成」などといった更に深い深い真理の学びがあるのですね。 高僧ナガール竜樹は「不変のなにか(自我)」を「不生・不滅、不常・不断、不一・不異、不来・不出(向)」の八つの否定を通して表現しています。例えば「不変のなにか」とは言え、「不常」ですからね。 この表現が理解できるようになるまで勉強してみてくださいね。

psuedoase
質問者

お礼

回答ありがとうございます! 返事遅れてすみません。 その「何か」も「不常」という表現をずっと考えてて最近やっと分かってきました。 仏教で言う「意識」ということも「考え」を「認識」する五感の一種と考えれば分かるような気がします。。 色々難しいですが、ここに書き込んだことによってさらに分からなくなりました。 それは勿論良い意味で、真理に一歩近づいたんだと思います。 ありがとうございました!

noname#91781
noname#91781
回答No.8

「諸法無我」 を今風に言いますと 「すべては科学的に説明できるのだよ」 ってなことでしょうか。 すなわち、自分の周りのすべての現象は、自分の存在や意志とは関係なく、物理的・化学的あるいは生物学的・心理学的現象として説明できると言いたいのでしょう。 昔の人は (今でも多くの人が)、自分の周囲で起こっている現象をすべて自分と結びつけて考えていました。 太陽や月の運行も、また動物や植物の繁栄も、我々人間のためになされているのだ、我々が正しい生き方をしないと突然その恩恵を受けられなくなることもある、という具合に。 しかし、今や我々は、宇宙は人間を中心にして回っていない、現在の人類の繁栄も地球上における或る生物種のツカの間の繁栄に過ぎないと分かっています。 仏教のスゴイところは、すでに当時から人間自体を、単なる生物学的・心理学的考察対象として喝破している点でしょう。 そこには客観的事実が縁起によって連続して生起している現象しかありません。 我々はあくまでその観測者でしかなく、その現象に捕らわれて我々が悩み苦しむようなことは笑止と言えます。 空腹のあなたが目の前に出された食物を単なる 「食べたい」という欲求で食べたのか、 いやそうではなく、血糖値の下がったあなたの肉体があなたの脳の視床下部に刺激を与えたのでその作用であなたは食べたのか、 「諸法無我」 は、後者であると言いたいのでしょう。 少なくともそれが我々人間が我執によって苦しむことから抜け出す方法であると。 ────────────────── 自分とは結局、世界における観測者すなわち意識者でしかなく、それはあたかも映画を見ている観客のようなものと言えるのではないでしょうか。 映画の登場人物に共感して悩み苦しむのもいいですが、本当に苦しくなったなら 「自分は単に映画をみている観客なのだ」 と悟ることが必要なのかも知れません。 映画の世界の中にどこにも自分は居ないのだと。

psuedoase
質問者

お礼

回答ありがとうございます! 私は仏教をまだ学び始めて間が無いんですが、他の宗教と違い哲学に似てるといった印象が確かにあります。 つまり、欲というのは、自ら作り出すものではなく悪魔で受動的であるということでしょうか。 外部からくる刺激が肉体によって化学反応によって「欲」みたいなものが生まれるのに、恰も内部から発生しているようにする行為が「自我」であって、それは幻想でしかないということですね。 映画のたとえとてもわかりやすかったです! ありがとうございました。

  • mmky
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回答No.7

追伸まで: >>「肉体を伴わない我」についてですが、 例えば「私は悲しかった。でも今は嬉しい。」 というように、過去の自分=悲しい 現在=嬉しい というように、メンタルな意味でも過去と現在の自分は違う、別人だといえないんでしょうか? 仏教的には良い疑問ですね。 有名な説明では、ろうそくの火に例えますね。 ろうそくに火をともし、その火を他のろうそくに移す。このとき新しいろうそくの火は前のろうそくではないので違うものなのか、との問いですね。 この答えは仏教では「因果の理法」で答えるのです。 原因結果の連鎖ですね。原因があったからそれを縁として結果があり、その結果が新たな原因となり、と続いていくわけです。 これを「縁起正法」とか時間(的)縁起と言います。 原因を作ったあなたそれを縁として違った結論に至ったあなた、全てあなたであるという考え方ですね。 あなたを「心」に置き換えるとわかると思いますね。過去のあなたの心も現在のあなたの心も未来のあなたの心も「縁起正法=時間縁起」のなかのあなたの心であるということですね。 この仏教の考えがあるから過去の罪も裁くことが出来るのですね。 過去の私が切り離せるのであれば過去には一切の責任がなくなりますからね。仏教はそのような無責任な思想ではないともいえますね。 ちなみに「諸法無我」は時間(的)縁起にたいして空間(的)縁起とも呼ばれますね。 参考までに

psuedoase
質問者

お礼

又回答してくださってありがとうございます! そうなんです! 今、私も「因果と結果」について考えました。 ろうそくの火を他のろうそくに移す時 もし最初の火が無ければ、次のろうそくは何もならないわけです。 つまり、最初の火と次のろうそくの火というのは明らかに関係性があるわけです。 ということは、我に置き換えると過去の「我」と今の「我」は無関係ではないということですよね? ということは、何か「関係」する何か、つまり過去と現在を結ぶ「なにか」の存在を肯定することにもなりませんか? その「なにか」を「我」とウパニシャットの人たちは言っているんではないんでしょうか? 厳密に言えば、前の回答者様が指摘してくださったようにウパニシャットでいう「我」ではないんですが。。 しかし、因果関係があるということ自体、時間に独立な存在(過去と現在を行き来できるから)でそれを繋げる存在というのを肯定しているわけです。 時間に独立ということですから、少なくても時間に対して不変な存在があるということではないんでしょうか? そして、その「何か」が「自我」としてはいけないんでしょうか?

noname#149752
noname#149752
回答No.6

五蘊を我だと錯覚して、執着するけれども それはウパニシャッドで説く我ではない。 そして、経験や考えることは五蘊の範囲で行っている。 それは変化している。無常である。 我と自分の違いでしょうか。。。

psuedoase
質問者

お礼

又回答してくださってありがとうございます! 私の教科書によるとウパニシャッドによる我というのは確かに、我=掴み所の無い、神秘的なもので、内側にある自分を支配しはいしている何か。となされています。 そこで、その教科書には 肉体がもし支配しているのだとしたら、病気などにかかるはずもない。 精神や認識、欲、感情が支配も同じようなことがいえる。 つまり、何か変化するものや病気にかかるものは本当に我を支配するものつまり、アートマンであるわけがない。 とありました。 それはそれで分かるのですが、それは単に「支配するもの」という点についての反論であって、肝心の「不変であるもの」の存在の否定にはなってないと思うんです。 そして私は、違う回答者様のお礼でも書いたのですが、「不変であるもの」無しに人が考えるという行為自体不可能だと思うんです。 すると五蘊の中にある、認識や意識なども否定されます。 つまり、五蘊から我の存在が肯定されている気がするんです。 つまり我が錯覚であるとするならば、五蘊事態も錯覚である、全ての事柄が錯覚であるとなってしまうんではないでしょうか?

  • magga
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回答No.5

<<無我なのに何故考えることが出来るのか>> 「考えること」が「無我」とどのように矛盾すると考えているのですか? お釈迦様は、五蘊のなかの「六根での識」は無常であるといっていますね。六根とは五感と意(考えること)でしょう。 これらが常に変化していると。 感覚も思考も無常だと。 常たる「不変の我」はどこにあるんでしょう?無いのでは? という主張だと思います。 <<自分ということは本当は存在しないんですから、「自分の」経験ではなくなります。ということは、何故その食べたいと言う欲求が生まれるんでしょうか?>> 「不変の自分」が無ければ、経験は引き継げないとお考えでしょうか? なぜ経験が引き継げないとお考えなのでか? 食べたいという欲求は、苦しいから、が原点だと思います。 自我という錯覚の思い込みによって「欲」で余計なものまで食べたりして、食によって新たな苦しみを生むことになっているのが現状だと思います。 動くのも苦しいからだと思います。 そもそも変化しないものを我々は知ることが出来るのか。 変化しないのだから影響があるわけではないのでは。 この二つも役に立つ思考かと思います。 何か参考になれば幸いです。

psuedoase
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 何故私が矛盾していると主張するかと言うと、 例えば、「イチゴミルク」という単語を聞いたとします。 そして、仏教では一瞬一瞬私は違う人なんですから、 「イチゴ」を認識した私と「ミルク」を認識した私は違うわけです。 ということは、決して今の私が「イチゴミルク」という単語を認識できないわけです。 何故なら、もし経験を引き継げないとすると、「ミルク」を認識した私が同時に時間を戻って「イチゴ」という単語を認識しない限り不可能だからです。 でも、実際私はちゃんとイチゴミルクというのを認識しています。 つまり、過去の自分と今の自分をつなぐ「何か」があるはずなんです。 その「何か」は時間を越えてつないでいるということは、時間に対して独立していると言えます。 つまり、時に関係しない=不変と言えます。 もっと言えば、イチゴというのを認識できるか?ということになります。 一瞬といえば、もしかしたら「イチゴミルク」の「イ」さえも認識できないかもしれません。 もし、私が「イ」しか認識してない自分、「チ」しか認識しえない自分などそれぞれ繋ぐ者がなければ全く意味が通じません。 つまり、言葉を完成することが出来ない=考えることが出来ないわけです。 もし、「不変の自分」がいなくて全部変ってしまうとすれば、昔の私は今の私と全く別人ということになります。 つまり、経験事態成り立たないわけです。(経験とは過去があってのことだから) もし、仮に経験というのがあったとしても、過去にさかのぼってそれが「自分」の経験だと認識している「自分」が必要なわけです。 そして自分というのは存在しないということはもぅ意味が分からなくなってしまいます。 そういう意味で全てにおいて矛盾していると申しました。

noname#149752
noname#149752
回答No.4

我とはアートマンのことですから 魂といってもいいでしょう。 仏教の無我は魂を否定したのです。 でも、業思想の整合性をとるため輪廻説を肯定したので 魂は無いけど、肉体はバラバラになっても再構成する それが空だなどというようになります。 自分と他人の境界線はなんでしょうね。

psuedoase
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 仏教は魂を否定したとありますが、それはつまり 時間や肉体に独立で不変なもの。つまりウパニシャットでいう「アートマン」を否定したということまでは分かるのですが。。 もし、魂が無いとして、ではどうやって人は考えたり、行動したりすることが出来るんでしょうか。。 むしろ、魂がない我々の存在は仏教ではなんなんでしょうか。。

noname#149752
noname#149752
回答No.2

非我だそうです。

psuedoase
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 非我ですか。。。 未だ非我はよく理解してないんですが、 無我説も確かにあるんじゃないですか?

noname#160321
noname#160321
回答No.1

別に「五蘊」が存在していないとは言っていません。 ただ「五蘊」は「空」(意味のないもの)だと言っているだけです。 「我」も存在します。 でもその「我」も根本的には「空」であるだけです。

psuedoase
質問者

お礼

回答有難うございます! なるほど。。 私は英訳された仏教の教科書を読んでいたので、私が間違って読んでいたか、それか作者が間違った解釈をしていたのかもしれません。。 本には、Self is blank, nothing. (我は空であり無である と書いてありました。 他にも、全てのものは存在しない、それは妄想に過ぎない。とかかかれてありました。 それは、つまり、存在しない。ではなく無意味だと言う事なんでしょうか。。