- ベストアンサー
侵略じゃないという人は大東亜共栄圏をくちにするけど、これについて質問です・・・
無知な質問ですみませんが、教えてください。 よくTVで議論される「日本は侵略国家じゃなかった」とか「侵略国家だった」というのがあります。侵略国家じゃなかったというひとたちに対して、じゃあ満州?南京?はなんだったんだよ!と 話をぶつけると、きまって 大東亜共栄圏というのがあってー、・・・・ というのをみるんですが、大東亜共栄圏って、チャンドラボースたちと日本やタイ?アジアの代表者たちと会議して、ヨーロッパからの解放を協力し合おう、アジアからヨーロッパやアメリカを追い出そうという目的ですよね? だったらやっぱり侵略じゃないの・・・?と疑問をもちました。 大東亜会議に中国も参加してますが、満州や南京のことがあったのになんで参加したんですか?侵略された側ならそんなの参加しないのでわないのですか? ネットなどみて調べてみたのですが、いまいちわかりません。無知な質問すみませんが分かりやすい言葉で説明してくださる方教えてください サイトなどで教えてくださる方、wikipediaなどはみたのでそれ以外でお願いします。
- みんなの回答 (27)
- 専門家の回答
みんなが選んだベストアンサー
うわっ!まだ開いていたんですね。 前の回答で「回答の用意がありますよ。」なんて書いたものだからリクエストまで出ちゃって。 では、「日本は侵略していない」説を簡単に。 一般に先の大戦は日本が中国を侵略した、という中国側からの一方的な歴史認識が幅を利かせています。 これは、東京裁判史観として日本人の精神を病ませている大きな原因です。 さて、しかしその認識は事実と合致しているのでしょうか? 東京裁判では、A級戦犯28名が1928年から1945年まで一貫して世界支配の陰謀のため共同謀議したとされましたが その暴論を正当化するため中国では日本が満州事変前から世界支配の意思を持ち侵略に侵略を重ねたと言い、 十五年戦争などと呼んでいます。 しかし、歴史上の事件を時系列で並べていけばその論の空虚さが良くわかります。 1932年、満州国が難産の末に生まれリットン調査団の調査も受け入れました。 その同じ年に第一次上海事変が起こります。この時の軍事衝突の「始まり」はどんな様子だったのでしょうか? 日本側の発表では 「北四川路両側の我警備区域の部署に著かむとする際、突然側面より支那兵の射撃を受け、忽ち90余名の死傷者を出すに到れり。 依て直に土嚢鉄条網を以て之に対する防御工事を施せり。元来此等の陸戦隊を配備したるは学生、労働者等、暴民の闖入を防止するが目的にして、 警察官援助に過ぎざりき。然るに翌朝に至り前夜我兵を攻撃したるは、支那の正規兵にして広東の19路軍なること判明せり。」 となっており、中国の正規兵が日本の兵90余名の死傷者を出す攻撃を仕掛けたということです。 普通の感覚なら、当時の政界情勢を加味すると「宣戦布告なしの戦闘開始」であり、戦争状態に入ってもおかしくありません。 その後、1933年(昭和8年)5月31日、上海停戦協定(しゃんはいていせんきょうてい)が締結され、1932年1月28日より開始した 第1次上海事変が終了します。 その後、1937年(昭和12年)7月7日に盧溝橋事件が起こります。 この時も最初の銃撃から日本軍の反撃は7時間も後であり、中国の言う日本側からの計画的な侵攻の形跡は見られません。 また、一般的に先の上海事変から盧溝橋事件まで4年も経過していれば、先の事件は全て完了しており、今回の事件はまったく別の理由で発生したと考えられます。 それでも、この盧溝橋事件さえ中国では「日本が侵略の意思を持って仕組んだ」と言われますが、現在では中共の仕組んだことだと言われています。 また、同じ年の7月29日通州事件が起こります。 これは、約3000人の冀東防共自治政府保安隊(中国人部隊)が、華北各地の日本軍留守部隊約110名と婦女子を含む日本人居留民約420名を襲撃し、約230名が虐殺された事件です。 そしてついに、1937年(昭和12)8月13日第二次上海事変が勃発します。 さて、そのころ中国(南京)政府はどんな動きをしていたでしょうか。 南京政府は1936年春頃から各重要地点に対日防備の軍事施設を用意し始め、上海停戦協定で禁止された区域内にも軍事施設を建設し、保安隊の人数も所定の人数を超え、 実態が軍隊となんら変るものでないことを抗議したが中国側からは誠実な回答が出されていません。 また、盧溝橋事件までの僅かな期間だけでも邦人の不法取調べや監禁・暴行、軍用電話線切断事件、日本・中国連絡用飛行の阻止など50件以上の不法事件を起こしています。 蒋介石は中国北部地域に中国軍兵力の移動を命じ、平時兵力を含めて約30個師団に達していました。 アメリカもこの行動を非難しています。 8月12日未明には中国正規軍が上海まで前進し、国際共同租界の日本人区域を包囲しました。翌8月13日には商務印書館付近の中国軍が日本軍陣地に対し機関銃による射撃を開始。 中国軍は更に空襲も加え、8月14日には上海地区の警備司令官である張治中が率いる中国政府軍が航空機により日本軍艦艇を攻撃。 日本政府は、国民党軍が上海において日本側に対しての砲撃、さらに日本の軍艦に対しての爆撃まで行ったことから、それまで日本が取っていた事態の不拡大政策を見直します。 次に中西輝政氏の論文から引用です。(一部括弧内は筆者) ---------引用開始----------------- 盧溝橋事件など北支における一連の「小ぜり合い」は、いわば中国大陸において何十年とくり返されていきた日常的局地紛争であって、 これらと日中全面戦争の開始に至った経緯との間には、より明確な一線が引かれるべきだ、という視点である。前者(満州事変)においては日中間 で実質的な講和(一九三三年塘沽(タンクー)停戦協定)が成立しているし、後者(支那事変)については、そもそも全面戦争とは、少なくとも 当事国のいずれか一方に明確な国家意思をもって大規模な近代戦を仕掛ける決定がなくてはならない。中国側には西安事件(一九三六年)以来、 抗日全面戦争への意志が明確だった。他方、日本側が一貫して不拡大方針を堅持していたことはよく知られている。それゆえ、条約上の権利の下に 駐留していた僅か二千五百人の上海の日本軍に十二万以上の兵力で中国軍の全面攻撃が開始された八月十三日が第二次世界大戦の始まりだった、 とライシャワーは言うのである。けだし正鵠を射ている。 -----引用終わり------ また、東京裁判(極東国際軍事裁判)では、昭和3年を裁判対象期間の起点とし、満州事変は日本の侵略の第一段階であるとしました。 しかし、これに対してインド代表のパール判事が、満州事変は塘沽停戦協定で終結して居り、その後日中関係は改善され、また満州国も国家として 承認されるに至ったことなどを挙げ、満州事変は降伏調印よりも遥か以前に終結した戦争であるから、東京裁判の管轄権の範囲外に属すると論じています。 この時の海外メディアの報道はどうでしょう。 1937年8月30日のニューヨーク・タイムズでは一連の事件について「日本軍は敵の挑発の下で最大限に抑制した態度を示し、数日の間だけでも全ての 日本軍上陸部隊を兵営の中から一歩も出させなかった。ただしそれによって日本人の生命と財産を幾分危険にさらしたのではあるが…」と上海特派員 によって報じた。 またニューヨーク・ヘラルドトリビューン紙は9月16日に「中国軍が上海地域で戦闘を無理強いしてきたのは疑う余地は無い」と報じている。 他にも、上海の英字紙には中国軍が撤退にあたり放火したことは軍事上のこととは認めながら残念なことであるとし、一方中国軍の撤退により上海に 居住する数百万の非戦闘員に対する危険が非常に小さくなったとして日本軍に感謝すべきとの論評がなされました。 1937年8月14日、中国軍爆撃機から2つの爆弾が落とされ、激しい爆発となり、450人の命を奪い、5人の外国人を含む850人を傷つけ、12台の自動車を破壊。 さらにもう一対の爆弾がキャセイホテルとパレスホテルの間に落とされ、爆発で12人の外国人を含む数百人以上が死傷しました。 この事件については租界に関係する各国が中国側に空爆の抗議を行いました。翌15日夕刻には上海のフランス租界工部局はフランス租界上空に中国軍航空機 が進入することを許さず、そのような場合には有効適切な処置を取ると発表し、16日にはフランス租界上空を通過した中国軍航空機に対してフランス駐屯軍 は高射砲の一斉射撃を行いました。 さて、最終的に10倍近い敵軍を壊走させた上海派遣軍は、10月20日に編制された第10軍(柳川平助中将)とともにすかさず追撃に入ります。又、平行追撃と同時に敗軍の追討の ために南京を攻略する構えを見せました。当初、参謀本部は和平交渉を行う為の相手政府を失う恐れから、最初南京進撃を中止するよう下令しましたが、 のちに現地軍の方針を採用し南京攻略を追認しました。当時は相手の首都を落とせば自動的に戦争終結になるのが常識だったからです。 これが、日中戦争の開始の様子です。 本当はもっと細かい事件がたくさんあり、それが「全て」中国側からの攻撃であり、停戦協定の度にそれを破るのも中国軍でした。 つまり、中国は日本に戦争を仕掛け、日本が強かったが故(逆に中国が弱かった故)に自国が戦場になったというだけなのです。 (中国が強ければ、日本軍を追い出し、本土決戦をしても良かったのに) 東京裁判では戦勝国が好き勝手な判決を下しましたが、「歴史の事実」はまったく違う方向を指しています。 さて、左にネジを巻ききっている人には届かないでしょうが、ゆるゆるに左巻きの人には届くでしょうか。 これらの情報はWikiでも参照できますので詳細はごゆっくりご覧ください。
その他の回答 (26)
- platon3
- ベストアンサー率38% (44/115)
侵略ではなかった派です。 まず、満州と中国の関係。 清朝が勝手に倒れて、その後、中華民国政府がその後継(あとつぎ)を名乗ったのではありません。 アヘン戦争で清朝が弱ったタイミングを見て、孫文らが辛亥革命を起こし、中華民国政府を起こしました。 同じ国の中で権力を奪うのは一般に「クーデター」といいます。辛亥革命は何故「革命」なのでしょうか? それは、漢民族の国(明)が外国である清朝に征服された「被征服者」であり、その征服者である「清朝」 を倒すことで解放されたからです。 そして、その清朝のもともとの国が満州であり、中国とはまったく別の土地、人種でした。 よく「満州は昔から中国の領土」という人がいますが、まったくの嘘です。 満州と言い続けると本来の事情を知っている人たちから反論されるので「中国東北部」と呼ばせているのです。 その歴史的証拠が「万里の長城」です。 これは本来、北の遊牧民が中国に入ってくるのを防ぐためのもので、ここが「国境」であり、その先は 外国であったことの動かぬ証拠なのです。 さて、辛亥革命で清は倒されましたが、小さかった清の皇帝(後の溥儀)は一時紫禁城に軟禁されます。 その時に家庭教師であったイギリス人ジョンストンが溥儀を連れて日本公使館に逃げ込んで来ました。 その後については「紫禁城の黄昏」(祥伝社版に詳しい。なお岩波文庫版は意図的に改ざんされている。) に詳しいのでそちらを参照ください。 その後も日本政府が溥儀にかかわることを嫌ったのですが、結局、祖国満州に返して皇帝の座に 座らせます。どこにも無理のない自然な話です。この後、結局「満州国の設立」まで手を貸します。 その頃の満州は、漢民族の侵入を禁じていましたが、中国は治安が悪く、なし崩し的にどんどん漢民族難民 が侵入して来ました。これが後々「既に中国人(漢民族)が開拓した土地だ」と言われる原因です。 要は漢民族が禁止されていたにもかかわらず既成事実化して居座ったのが悪いのです。 さて、上記の説明で満州に対して「侵略などしていない」ことがわかったと思います。 ついでに数字を挙げると、満州の人口は辛亥革命当時1,800万であったのが、満州事変の頃には3,000万に達した との記録があります。その後、中国向けに電力の供給なども始めますが、この供給量が全中国の8割にも上ります。 かの毛沢東が「我々共産党が全ての拠点を失っても東北部(満州)さえ手に入れればなにも困ることはない」と いった発言をしているほど経済格差もあったのです。 また、「日本軍が居ること自体、侵略の証拠だ。」という人もいますので、その件も。 関東軍は満州に侵略して居座ったのではありません。日本は日露戦争後、ポーツマス条約で満州南部の鉄道及び 領地の租借権、大韓帝国に対する排他的指導権などを獲得します。 条約で鉄道保護のため1キロ当たり15名を超えない範囲で守備隊を置く権利が認められていました。 ちなみにこれで計算すると最大規模は 14,419名です(もちろん日清条約でも承認)。これが関東軍の前身です。 ちなみに、文化面を見てみると、有名なところではキョンシーの格好やチャイナドレスは満州族の習俗です。 漢民族のものではありません。中国の水墨画など見ると、中国ではどちらかというと着物に似た、体の前で 合わすタイプの服がもともとの「中国服」です。別の国の文化だということがよくわかるでしょ。 ついでに、中国が満州やチベット、ウイグルなどを「自国の領土だ」と言っていることについても書きますね。 満州やチベットなどが同じ一国の支配を受けたのはモンゴル王朝の「元」の時代です。もちろん漢民族も 支配下にありました。今の中国は「支配される側」にいたのです。 例えて言うと、イギリスの支配下にあったインドやスリランカ、オーストラリア、ニュージーランドなどなどが、 イギリスの支配が弱まり、独立したときに「イギリスはもともと私のもの(中国にとっての満州)、そのほかの オーストラリアやスリランカ、インドも私のもの」といっているに等しいのです。笑えるでしょ。 さて、ここまで読んで、どこが侵略なのでしょう? 中国の方が悪辣ですよね。 次に南京事件ですが、これは日中戦争のさなかでおきたと言われている事ですので、侵略うんぬんとはまったく 関係ありません。 また、自国の領土内で戦闘になったのは単に中国が弱かったからです。 最後に他のアジアの国に対してですが、これも侵略ではありません。 たとえば現在インドネシアと呼ばれている国は、当時オランダ領東インドと呼ばれ、350年の長きにわたって オランダの植民地であり、国ではありませんでした。 そこでの戦闘は日本軍対オランダ軍であり、植民地支配されている、のちのインドネシア人を好き勝手に撃ち殺して 歩いたわけではありません。たまたま戦闘のあった土地が後にインドネシアとして独立しただけのことで、 時間軸に沿って考えてみれば「アジアの国々を侵略した」というお話がどれほど間の抜けた話であるかわかると 思います。 ついでに「石油を取りに行った」という説も、当時ABCD包囲網でアメリカやオランダが結託して日本に石油を 売らないでいたことから「オランダ人を追い出して、インドネシアから購入しよう」としただけの話であり、 「石油が欲しいからインドネシアを侵略した」というのは日本を嫌っている人たちの「悪口」でしかありません。 最後に大東亜共栄圏ですが、これは今までの話を読むとわかると思いますが、要は欧米の支配は過酷であり 早くそこから独立したい、という国がたくさんあったということです。また、それらの国に援助できるのは 日本だけだった、というだけの話です。 ご理解いただけましたか?
私自身は、日本の行為は侵略であっただろうと思っています。 しかし、反論するにせよ、同意するにせよ、相手の意見を良く効くことが大事だとも思っていますので、 「侵略ではない」という説について、その説を唱える人たちがどのような見解を持っているかというのをお話したいと思います。 >よくTVで議論される「日本は侵略国家じゃなかった」とか「侵略国家だった」というのがあります。侵略国家じゃなかったというひとたちに対して、じゃあ満州?南京?はなんだったんだよ! 満州事変に関しては…… 「まず、中国には、漢民族とたくさんの少数民族がいます。 清国が滅び、中華民国政府が清国政府の後継であると名乗りました。 しかし、中華民国政府は実質的に漢民族の政府である。 満州族は、漢民族とは異なる民族であるから、漢民族の政府である中華民国政府には満州族や満州族の土地である満州を支配する権利はない。 満州は中華民国政府のものではない。だから、満州事変は、満州族が漢民族の不当な支配から独立するために手を貸したにすぎない。日本は悪いことは何もしていない」 もちろん、これには異論、反論があるのですが、今は侵略ではないという考えがどのようなものかだけ書かせていただきます。 南京に関しては……日中戦争のなかで南京への侵攻もあったわけですが。 まず、日中戦争のきっかけとなったのは、盧溝橋事件です。 盧溝橋事件は、当時、北京には日本軍が駐留していました。 日本軍と中国国民党の兵士とが少しはなれてにらみ合っている状態でした。 双方とも攻撃する意思はなかったのですが、日本兵と中国兵の間で戦闘が始まってしまいます。これがきっかけで戦争になってしまうのですが。 日本側の言い分によると、 「中国の兵士のいる方向から銃弾が一発飛んできた」ことがきっかけであるということです。 つまり、戦闘を仕掛けてきたのは、中国側だということですね。 (ただ、私自身には、戦闘が始まった経緯には、日本軍の不手際もあると思っていますが…。) ともかく、中国側が銃弾を撃ったせいで、戦闘が始まり、それが戦争になった。 その後も日本は停戦に向けての努力をするものの、停戦の努力をしているところに、国民党政府が攻撃してきたりしたおかげで、停戦はできなかった。 結果として、戦争は激化し、日本が南京を攻略するにいたった。 悪いのは、中国側である、という見方があるようです。 >大東亜会議に中国も参加してますが、満州や南京のことがあったのになんで参加したんですか?侵略された側ならそんなの参加しないのでわないのですか? 中国人全員が大東亜会議に参加していたわけではありません。 当時の中国は清王朝が倒れてから、中華民国政府がその後継(あとつぎ)を名乗っていたものの、 実質的には日本の戦国時代のような状態でした。 たくさんの人たちがそれぞれ自分の兵隊と土地を持って勢力を築き上げている状態だったのですね。 その中でも、蒋介石がトップである国民党政府が一番力を持っていました。 が、国民党政府以外の勢力もたくさんあったわけで、その中のいくつかの勢力は、日本に協力していました。 また、国民党のなかでもたくさんの人がいたわけで、その中には日本に協力するようになった人もいました。
- raky753
- ベストアンサー率39% (17/43)
まず、「日本は侵略国家だ」なんて言ってる人はいないと思います。 田母神さんとか小林よりのり信者とか、あのへんのアホが「日本は侵略国家だと言われている」 とかわけのわからないことを言っているだけ。 日本は侵略をしました。 それは事実。 日本がしたのが侵略であろうとなかろうと、日本が中国や東南アジアを武力攻撃して支配下に置いたので、治世の方向性を決める必要があります。 それが大東亜会議。 中国にしてみれば、侵略されたのであろうとなかろうと、日本に逆らえないのだし、政府は必要だし、会議にでないわけにはいかないでしょう。 あと、「大東亜共栄圏」ってのは、建前です。 日本がアジアを侵略したのは、アジアに埋まっている石油を奪い取るのが目的です。 ただ、「石油が欲しいので攻めまーす!」というわけにもいかず、 「いい建前(大義名分)はないか」って考え付いたのが、 「大東亜共栄圏を作る」こと、要するに「アジアからヨーロッパ勢力を追い出して、アジアだけで栄えよう」という名分です。
- pbf
- ベストアンサー率16% (49/300)
「大東亜」とは要するに大英帝国の支配下だった地域のことです。中国・インド・東南アジア・イスラム。これらの地域からアングロサクソンを駆逐しようという考え。中国から大東亜会議に参加したのは汪兆銘といって親日派の代表でした。孫文や金玉均(朝鮮)もこの系譜です。彼らを傀儡と云えば傀儡なのかもしれない。けれども、そしたら毛沢東や金日成はソ連の傀儡であるし、韓国やイラクの政権だってアメリカの傀儡になります。アメリカやオーストラリアだって先住民族を殺して作った国家なんだから侵略国家でしょう。こんな話は言い出したらきりがありません。
お礼
こんばんわ。どうもありがとうございます。そうですね、きりがないと言えばそうですね。私はまだ勉強不足なので自分の意見というのは持ってないです。もっと勉強が必要ですね。文章力がなくわかりづらい質問に答えてくださりありがとうございました。
- track_one
- ベストアンサー率0% (0/1)
あなたの質問中で述べられている「満州」と「南京」とは何を意味していますか?侵略と結びつける何らかの事実があったことを前提にしているように見えます。 善悪二元論でもないでしょうが、現代から見れば多くの国家が「侵略国家」でしょう。強い国が弱い国を大義名分の下に(時には大義無くとも)食い物にする世界であったことは事実であり、大日本帝国もその輪の中にありました。 大東亜共栄圏は理念です。現実は理念のように奇麗事では進まなかったということでしょう。
補足
南京大虐殺はなんだったんだとぶつけたのは私じゃないです。 侵略国家だといってる人たちが、侵略国家じゃないといってる人にぶつけた言葉。 私はTVをみてるひとです。
- m-kuri
- ベストアンサー率0% (0/0)
他国を侵略するときには、相手の国の中に呼応する人物および勢力を見いだし、これをその国の代表であるかのように偽装する方法がよく使われます。たとえば、ナチス・ドイツがフランスを侵略したときにも、傀儡政権を樹立し、それとの協定を結んで侵略を正当化しましたし、日本が満州を侵略したときも、清朝の末裔を満州国皇帝としてそれとの条約を偽装しました。大東亜会議のときの具体的な内容は知りませんが、同様の手法が使われた可能性が高いと思われます。
お礼
そうだったんですか。これはまた勉強になりました。 私の説明わかりづらかったと思います。説明も含め回答してくださりありがとうございました。
補足
そのように言った人がいるから質問しました。