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役者は同じ顔をして違う人間を演じる

誰もが、個有のアイデンティティを持っています。 これらは、かなり決定的恒常的なものです。 ところが、役者は同じ顔をしていくつもの性格、人間性を演じますよね。言い換えれば、外見は同じなのに、中身を入れ替えることができる。これってかなりすごいことではないでしょうか。人間的運命に対する脱却といっても過言ではないのではないでしょうか? もちろん、役者はその人間本来の人間性があって、職業上違うところに飛び立つというだけですけれども、それを地でやろうと思えばできるわけです。 このことをもっと一般人が試みてもいいのではないか、あるいは流行現象とか、カルチャーとして 「違う人間を演じてみよう」 「あなたの存在から脱却してもみよう」 というような分野があってもいいのではないでしょうか? なぜ、人それぞれの「固有性」から脱却しようという試みはあまり省みられないのでしょうか?それはいわば、一種の自由を獲得することではないでしょうか?

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回答No.5

>人間的運命に対する脱却といっても過言ではないのではないでしょうか? 確かに、演じたり、なりきったりしているかもしれません、しかし、それが出来るのは、それが、始まりと終わりが決まり、自分の役割も決まっているから出来ることだと思います。 と言う事は、別に脱却はしていないと思いますよ。 まあ、本来の人格からは、脱却していますけど。 >というような分野があってもいいのではないでしょうか? あっても、いいと思いますが、それなりに色んな問題も多いと思いす。 何事も、上手く出来る人間と、出来ない人間がいるし、良い方向に、活かせる人間ばかりではないからです。 それなりの、準備や管理が必要だと思います。 >なぜ、人それぞれの「固有性」から脱却しようという試みはあまり省みられないのでしょうか? そう言う風に考えていない人の方が、世の中、大多数だからだと思うのですが・・・・・・。 だって、他の事急がしでしょ。仕事の事とか、恋愛の事とか、趣味の事とか、その他もろもろ。 普通の人はそう言った事の、考え事を優先させるもんでしょ。 >それはいわば、一種の自由を獲得することではないでしょうか? 確かに、そうですが・・・・・・・。 同時に、危険な事であるとも思います。色んな意味で。

garcon2000
質問者

お礼

一時的であれ、仮の姿であれ、映像として脱却している姿が定着され、人々にあああのような性格だと認知される、それはすごいことだとい感じます。それがちょっとでもできているかということは、人間的成長に大きくかかわりませんかね。 考える優先順位が、自分を脱却するなんていう困難な、しかも液が少ないことを選ばないということなんじゃないでしょうか。それがどんなに「哲学的」であろうと。 しかし、危険ってどういうことなのでしょう。あまりピンと来ませんね。

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  • toporo
  • ベストアンサー率70% (14/20)
回答No.8

garcon2000さん、こんにちは。 それは「固有性」からは脱却できないからだと思います。そういう自由は、構造的にぼくらは持ち合わせていないのではないでしょうか。 こういう話があります。 非常に怒りやすい人がいるとします。けれども、その人が生きている期間、その人が怒るような出来事さえなくて、その人は一生一度も怒らなかった。その時、その人の事を「本当は」怒りやすい人だった、という事ができるのか、という話です。 固有性というのは、その人の行う事、思う事、から構成されてくると思います。つまり、役者は役者であり、違う人間を演じてみようと思う人はそう思う人であり、違う人間を演じる人はそういう人であるのが、その人の固有性であるという事です。 何をしようが何を思おうが、その積み重ねが、ぼくやgarcon2000さんの固有性、というものを構成するだけです。 本当とか本来とか、逆に演じるとかがないのですから、脱却もないのだと思います。 そこには自由はありません。

garcon2000
質問者

お礼

非常に大きな枠で捉えてしまえばそういうことなんですが、もっとマクロ的に、役者は本人と付き合わなければ性格わからないじゃないですか?テレビや映画ばっかりで、それぞれ違う性格だから、その1番影響された役で「ああいうひと」みたいなすり込みができている!つまり、役者その人の素の人間性からはなれたものを、一般人は認知しているわけです。これは、神への挑戦を果たしている気がします。一種の運命的束縛から抜け出ている実績をそこに見ている気がするのです。

noname#107497
noname#107497
回答No.7

何かに感化されて、生き方を変えてみようと思うのも、既存の固有性から脱却しようという試みだと思います。 映画などの工作員やスパイが別人を演じきっていますが、かなり、大変なことだと思います。 というのは、人間は普段、直感的に考え、直感的に思考し、直感的に行動しています。で、これに慣れていると思います。 例えば、子供が出来て、父親として、母親として振舞うというものがありますが、ところどころ抜けてしまいます。それって大抵わきあいあいしている時、つまり、リラックスして楽しいひと時を過ごしている時です。 言い換えれば、抜けないようにするには、高い集中レベルとその持続が要求されると思います。 演じること=自分自身の固有その物になる=直感的にできるようになる。というレベルに達しなければ、かなりの疲労が伴うと予測されます。 かなり疲労すると人間は高い集中と意識を持続する「やる気が」かなり低下します。そうすると素を出してしまう。 演じるということは 確かに一種の自由の獲得の試みであるでしょう。 流行現象とかカルチャーとして成り立つためには、楽であった方が良いです。そういう面では不向きとなるでしょう。 ビリーズブードキャンプでしたっけ?ああいった過酷なものも一種の流行現象になった訳ですから、高い流行感覚に持っていければ流行現象になるかもしれません。 ただ、演じる=気取るといういう風に他人は捉えるので、否定的は意見が多いかもしれません。そうなると高い流行感にならない気がします。 というのが私の本音です。 良い意見を聞きました。自分にプラスになりました。

garcon2000
質問者

お礼

ありがとうございます。 流行現象として考えると、おっしゃるように無理がありますね。 私が言いたかったのは、あるいは伺いたかったのは、役者に代表される、というか二重人格的精神異常でなければ役者しかいないと思いますが、違う人を演じてみれることが、自分の本来性から脱却できるという、私にとっては「すばらしい」ことを実現できているのでは、と思うのです。なぜ、脱却できるのがすばらしいかというと、それによって、少し運命を動かすことができる、神に近づくことができるじゃないか?という気がするからです。

  • hosiboshi
  • ベストアンサー率9% (15/158)
回答No.6

それは面白い試みだと思います。 例えばこうあるべきという運命が決まっていて、それから逃れるため、また違った人生を送るために違う自分でいようという。 神への反抗ともいえるでしょう。 ただ運命とはそれよりも重く、自分の本来あるべき姿というのは、演じて得た自分よりも、もっと大切なものなのではないでしょうか。 役者さんは、舞台のみの演技ですが、それですら、本来の自分から遠ざかってしまう行為ではないかなと。 この世は舞台、人は皆役者。 皆それぞれの自分を演じている。 もう既にやっていることなのかもしれませんね。

garcon2000
質問者

お礼

恒常的に演じているものが、「変わらない」ということが問題のような気がします。昨日と今日で人間が変わっている!そしてまた戻っている!あるいは一蹴なんで七色の人間性を使い分ける!というような「神への挑戦」というものも面白いでしょうね。

noname#97419
noname#97419
回答No.4

自由とは関係ない気がします。 必要な時、そっちを望んだ時にはやりますよ。 後ろ向きな思考を変えたいとか、人と話せるようになりたいとかね。

garcon2000
質問者

お礼

そういう、前向き志向性の方向で考えると、一方方向的脅迫的試みになる気がしますね。

  • bee1015
  • ベストアンサー率20% (83/399)
回答No.3

自己啓発セミナーの類が、そういうことをうたい文句にして活動しているのではないですか? セミナーには正しい方向のものもあれば、金儲け主義で洗脳みたいなことをして被害者を不幸にするものもあるようですね。 単に「演じる」だけで何かをつかめて、その後の人生に生かせるならいいのですが、やり方やタイミングを間違えたり悪意を持った人が指導すると「戻ってこられなくなる」可能性もあるかと思います。 「ちがう自分になりたい」という欲求は私にも理解できますが、「諸刃の剣」の危険性も充分に考慮されるべきでしょう。

garcon2000
質問者

お礼

自己啓発セミナーが例えとして出てくるんですね!それは思いもよりませんでした。でもああ言うのは一種の脱却の試みというよりも、一方向性しか志向していない気がします。それはそれで、確かに脱却なのでしょうが。 もっと、いろんな可能性の「役」というのもあると思うんですよ。わざと暗く陰鬱な性格を演じるとか。

noname#89274
noname#89274
回答No.2

医者は役者が医者を演じるのを見てあれは医者じゃないといって見ようとしない。 教師は役者が教師を演じるのを見てあれは教師じゃないといって見ようとしない。 所詮脚本の中の役者は役者なのであって そのものから見れば、それらしいく振舞っているのを見るのは鼻につくものなのだろうなぁ。 すぐにチャンネルを替えてしまうほど 見たくも聞きたくもないほどに 何故だと思う?

garcon2000
質問者

お礼

うまい脚本とうまい役者なら、そのものができる気がしますね。そういう例を映画やらで観ています。

  • rimurokku
  • ベストアンサー率36% (2407/6660)
回答No.1

役者さんが同じ顔をして違う人格を演じているとは思えません。 巧い役者さんが役になりきっている間は、本当に別人に見えます。 また一般人も、自分の生き方を変えたり脱却する試みをする人は沢山存在すると思います。 >人それぞれの「固有性」から脱却しようという試みはあまり省みられないのでしょうか それはご質問者様の単なる偏見ではありませんか。

garcon2000
質問者

お礼

一種の憑依でしょうかね。それはそれで、成りきっているのではないでしょうか。一般人でもいるでしょうね。私もその一人のつもりです。役になるわけじゃないですがコンプレックスを覆そうとしていますね。

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