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神様はいますか?
祖父と母が神様はいると言います。 理論で問い詰めると、矛盾点がボロボロ出てくるのですが、 彼らは「説明できなくても正しい」のだと経験則を振りかざすのです。 私は、心の拠り所を作るために、自分で自分を洗脳をしているのだと思います。 みなさん、神様はいるのですか? 特に理系人間の方、矛盾点がたくさんあったとしても、神様はいるのでしょうか?
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いる。 >心の拠り所を作るために、自分で自分を洗脳をしているのだと思います。 そうじゃない。 心のよりどころそのものが、神様だ。 >理論で問い詰めると、矛盾点がボロボロ出てくるのですが 神様、というのは、理論で考えちゃだめだ。 水素と酸素を化合させて水になるような存在ではない。 神様は、心で感じられるだけ。 私は理系だが、有名な数学者オイラーが、エカチェリーナ2世の前で、無神論のディドロに対して神の存在を証明した、という話がある。 ↓ここにもそのエピソードが書いてあるから読んでみるといい。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E3%81%AE%E5%AD%98%E5%9C%A8%E8%A8%BC%E6%98%8E 私の意見では、神様に現世的なご利益をあてにしちゃだめだ。 そういう意味では、No4の方の意見に一理あると思う。 でも、神様は人を助けないの。 見守るだけ。
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- -rino-
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こんにちは^^ 居ると思う人の世界には居るんでしょうし、居ないと思う人の世界には 居ない者なんじゃないですかね? 物体として証明されていないものって、全てそうじゃないですか? 私個人の世界には、今のところ神も仏も霊も居ません。 神が居ると信じてしまえば、居る世界を生きることになります。 ラッキーなことがあるたびに「神様のお陰」「信じてきたから守られた」。 アンラッキーが起こると「信心が足りなかったからだ」。 私は神が居る世界で生きても楽しくないという価値観だから信じてません。 神が居ると信じていなければ、居ない世界を生きることになります。 ラッキーなことがあると、「周りに恵まれてるからだな」と思うし、感謝も出来ます。 アンラッキーが起こると「自分なんてまだまだだな」って努力も出来ます。 私は神が居ない世界の方が楽しいです。 霊でも同じこと。 金縛りに合っても、脳が起きてて体が動かないから怖い夢みたんだな~で 済むことを、別に殺されるわけでも無いのに 「悪いことの前触れだ!」「悪霊にとりつかれてる、御払いしなきゃ!」 なんて形の無いものに怯えて暮らすのは楽しくないので、信じてません。 神も霊も、例え存在が証明されたとて、自分には見えず影響も感じないなら 居ても居なくても同じ。ちゃんと物体がある物でも、見ることも触ることも 聞くことも無ければ、自分の世界では「存在しない物」。 『携帯電話』は存在しますが、原始時代さながらの生活をしている人にとっては 存在しないのと同じこと。そういう人に実物を見せずに 「携帯電話は存在する」と説明したって、何の意味も無いでしょう。 「へ~~。で?」って話です(笑)矛盾点は補えない。 携帯の存在を知った後でも、無い世界を選んで生きる人もたくさん居ます。 『どちらが正しい』という話ではなく、どう思って生きるのが貴方にとって 楽しく生きれるのか、そういうことだと思いますよ^^ 貴方にとって神が居ない方が楽しい世界なら、それで良いと思います。 おじい様とお母様の世界には存在し、貴方の世界には存在しない。 それだけのことじゃないですか?
- honn1mono1
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神様はいると思いますよ。 私は自然の働きそのものが神様のお働きの現れだと思っております。 風が吹くこと、雨が降ること、日の光から、鳥のさえずりまで。 天地自然の働きがそのまま神様のお働きの表れのように思います。 人間は自然の働きなしでは命すら保てません。 息が出来ること、体が動くこと、健康なこと。 これらすべて神様のお恵みなのだと思います。 人間は神様のお恵みの中に生かさされて生きているのだと思います。 自然が神様のお働きの現れならば人間は神様の中に、 生かされて生きてると言えるでしょう☆ 世の中には目には見えない道理というものがあり、 その法則に基づいて世界は運行されております。 その自然の理、道理こそが神様の作られた法なのです。 悪いことをしたものには悪い報いがある。 良いことをしたものには良い報いがある。 このような道理も神様のなせる業だと思います☆ 神様がこの世界を守っておられるからこそ。 世の中はその道理、法則に基づいて秩序を守っていられるのです。 でないと、悪が栄えて善者は滅びてしまいます。 そうではない、悪いことをした人はやはり警察につかまったりします。 それに、悪いことをしたものには悪い報いがあるものです。 神様のご支配されておられる世界だからこそです。 そのようなわけで神様を認めざるおえません。 私は神様を信じています。 神様は人間を愛してくだされてあります。 人間に幸せになって欲しい、助かって欲しいと願いをかけられおります。 人間はそのような神様の真の愛の中で生かされてあるのだと思います☆ 恵まれている事実を神様に感謝していきたいですネ☆ あなたの祖父と母さまが仰るように。 私も神様はいるのだと思いますよ☆
- tumaritou1
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神や仏は自分の心の事です。それも認識し難い方の心の事です。人間は自我意識が有ります、是は左脳に存在する意識です。分離脳の研究でノーベル賞を受賞したスペリー博士の研究に在ります。 左脳に一人、右脳に一人それぞれ独立した人格が一人の人間には二人存在している。是はその研究成果の一つです。人間が生きていて、起きていた時に自我意識が作用している時は、時間的には5パーセント位という報告が有ります。と言う事は残りの95パーセントは自我意識以外が握っていると言う事になります。 自我意識が引っ込んでいる時は「無意識や潜在意識」が自分の身体と心を支配していると言う事になります。自我意識が「演技したり、歌を歌った場合」人為的、或いは計らい、或いは作り物に見える処が有ります。いわゆるほんまものに見えないと言う事になります。 「ほんまもの」と言う事から考察した場合に、演技や歌という行為を人間が行う場合に「自我意識の痕跡が見えないように」行う事が要求されます、是はどういう事かと言いますと、自我意識に引っ込んでもらって、その人自身の働きに働かせると言う事になります。自我意識には「無」でいてもらって仏性の働きそのままで行為をするということになります。 禅問答と言うものが有りますが、是などもその事を証明しています。禅問答は理知的に、或いは分析的に、或いは科学的に、或いは論理的に生きている人間には理解出来ないように見えています。処が人生には割り切れない問題もたくさんあると言えます。それは感情や命そのものや魂等の問題です。 人間の悩みや、苦しみとは何であるとか言えば、それは疑問であり、不安や恐怖と言えます。是は言葉を替えて言うならば心の分裂、心の対立と矛盾の事です。この事は人間の脳の構造上避けて通れない問題と言えます。心の矛盾は二元論からと言います、処が人間の頭そのものが二元論そのもので出来ています。それは脳の機能が違っていると言う事に根ざしています。 人間の悩みや、苦しみは、左脳と右脳の機能の違いが分かっていない事によります。左脳の分別脳に、分別出来ない問題が割り込んできたことによります。その良い例が「精神疾患」というものです。負のスパイラルに入って何十年も同じ問題に苦しむという悪循環に陥っているという事が有ります。是は能力のないコンピュターにその能力以上の問題を割り振ったという事になります。 ここに禅問答が生まれた理由が有ります。人間の苦しみは「何をしても、或いはしなくても、人生の終わりには死が待ち受けていて、その死によって全てが無くなってしまう、何になるのか?或いは何時死が訪れるのか、死が怖い!」という不安から、恐怖に至るまでの全てが人生を台無しにしてしまうと感じられるからと言えます。 この問題を解くカギが「禅問答」には有ります。結論から言うならば、禅問答が解けたという事は「生死の問題が解決した」という意味が有ります。これは、生死には不安を感じなくなるという意味です。禅問答が分かる瞬間というものが有ります。この事が関係してきます。 禅問答は自我意識の分別する能力では解く事は出来ません、是は能力の問題です、分別するという事は、割りきってゆく事だからです。割り切ってゆくとい事は有限に属する問題が専門の脳と言えるからです。禅問答は有限の割り切れるという問題と性質を異にしているからです。処が自我意識が懸命に問題に取り組もという事が大事な事になります。 懸命に取り組む時に、解けない事が分かってきます、この事が大事な処です、自分では出来ないと自我意識が認めた時に、自我意識の替りに出てきて問題を解いてくれるものが有ります。是が仏性と言えます。無意識を働かせていた者です。それが出てきて瞬間にそれらの問題を解いてしまいます。これで心の矛盾は解消してしまいます。悩みや、疑問の解消という事になります。 禅問答に取り組んで苦しんでいる姿と、精神疾患で苦しんでいる姿は同じ苦しみと言えます、それは降りかかった問題を解く能力のない方の脳で解こうとしているという事です。とく事が出来ないと認めるという事は「我が折れた、或いは我が死んだ」時と言えるからです。その時には右脳の意識である「仏性」が出てきます。この時に自我意識が「神」と出会う事になります。 ここで精神疾患の完治という事になります。或いは悩み苦しみの解消となります。左脳の自我意識が右脳の意識「神」に会って和解したという事になるからです。それは心が二度と争わなくなるという意味が在るからです。右脳の意識は神、仏そのものと言えます。只分かり難いと思います。それは無意識の自分の身体と心を働かせています。自分の心拍数でさえも増やしたり減らしたり出来ます。その事が分かる時には「絶対肯定という立場に立つことになります」 是は「すべて神の思し召しのままに」という事です。是は消極的なものでは有りません。大変積極的な立場となります。自分が否定しないならば何でも可能という事になるからです。ただし一つだけ言っておくことが有ります、是は分かり難い事です、まだ神に会っていない人には何を言っても無理が有ります。自分の頭の半分は神で出来ていますが、理解するという事と事実とは一致しないかも知れません。
祖父と母の言う神が何を意味するかが重要です。 神とは永遠に変化することのない完璧な自然法則のことです。 特定の人間や個人ではありません。 人間が宇宙を創造することはできません。 また、物質の世界では限られた感覚でしか自我を表現できず それ以上の存在を通常は認識できません。 つまり生まれながらにして神という存在を完全に理解することも 表現することもできません。 その限界ゆえに自然法則の働きが不完全に思えることがあります。 がしかし今以上に知性と理解力と愛が増せば その捉え方が間違っていることに気付いていきます。 神とはどこかに偏った点の存在ではないのです。 光が差し込む偉大な人でもありません。 論理と理性に従っている限りは間違いは起きません。 それは祖父や母も同じです。 自身が納得のいく理性に従って判断する限り 神の働きを顕現していることになります。
お礼
さきほど、祖父に呼び出されました。 宝くじは当たらない。 それ以外の神のお告げでさえも、100%は当たらない。 ただ、今まで自分たちは、それを信じることで、 助けられたことが何度もある。(つまり経験則である。) そして、これは自分たちの閃き、勘であると言っていました。 これによって、全てに辻褄が合いました。 彼らの言う神とは、勘のことを表現した物であり、 勘を研ぎ澄ませたり、信じる力を高め方法のひとつとして、 お祈りをするのです。 「自分たちはそういう性格で、そういう道を積んできた、 学問の道を進んでいないということもあって、 当たる確立がどうとか、理に適っているだとか、 そういうことはわからない。 ただ、人に言われたことではなくて 自分で信じた道でないと後悔するのではないかと思った。 今まで、自分(祖父)がそうしてきたように。」 昨日何時間にも及んで議論した甲斐がありました。 通じ合うことはできなくても、 そういう考えもあるとお互いを理解しあうことはできるんだなと、 本当にそう思いました。 「逆もまた真なり。自分の道を進みなさい。」 最後に、祖父はそう言いました。
神性と邪性という言葉がありますね。神も悪魔もひとの中にいるとおもいます。
- minnminn77
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答の内容に今回のケースを異なる点があればご指摘ください。 ●神の存在 神の定義(何を持って神と呼ぶか)によります。 ・キリスト ・宇宙の創造主 ・みんなの心の中にあるもの 今回でいうオリジナルの神様というのは、くわしいことは秘密とのことなのでわかりませんが これまでのお話から少なくとも下記のような特性をもつと仮定して話を進めたいと思ってます。 ・知覚できない ⇒ 知覚できるならば見してもらえば問題解決(例えそれがゴミでも) ・心から信じることで、結果として質量世界に「得」を もたらす(質問者さんの成功率を生み出すお話より) 知覚できないものを神としているならば、お互い存在証明することができないので いるかいないか回答者さんに証明責任はありません。(←重要) ご家族の方といくら議論しても証明できない点に注意してください。(←重要) ●損得勘定から信じるという行為 「得だと思うから神はいる」では「信じる」という行為から対極にあると思います。 つまり、損だと思ったら信じないわけですよね。 それでは「信じている」とは言い難いと思います。 ●神に対する立場 信じるか信じないかですが、もうひとつ選択肢があると思います。 「考えない」です。 一見投げやりな態度ですが、そうでもありません。 考えてもしょうがないことを考えないのは、それだけ有意義なことを考える時間が 作れることを意味します。 今回、回答者さんが悩まれているのは上記の立場があやふやなため生じてしまっていると思います。 ・神を信じている ⇒家族と同意見のため問題に発展しない ・神を信じない ⇒家族に神を信じていない立場を伝え、そのことで今後議論したくないことをお願いする アクションがとれる ・考えない ⇒考えないので気にならない 結果として上記3つから立場を明確にできれば解決すると思われます。 質問者さんが神を信じない立場をご家族に伝えるのはよいですが、 決して神が存在するかしないかで議論しないでください。 (サンタクロースのそれと同じでタブーです) 質問者さんに迷いがあるならば精神衛生上よろしくないので、 そのときは具体的な話をしていただければと思います。 また、ご家族へのアプローチ方法でお悩みの点があれば追加でご質問ください。
- makosei
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加藤茶「あんた神様かい?」 志村けん「あんだって?」 加藤「あんたは神様かい?」 志村「とんでもない、私は神様だよ」 ドリフによる神様コント。神様のイメージとしては白装束に身を包んだ白髪の男性。 このような、物体としての神は100%いないでしょう。 でも、信仰の対象としての神なら100%います。 プラグマチィズムによれば、神を信ずることで人がよい方向へ導かれるなら、その神は実在する、ということになります。
神はいると思えばいる、いないと思えばいない、これが答えです ちょっと考えれば、この世は大きな法則の元で動いている事が 分かります、求めていけば神が見えてくるのです(感じると 言った方がいいかな)、参考まで
- hokyu
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質問者様言うところの【カミサマ】の定義が分からんのだが、私にとってはンなモンはいない。 汎用的に表現するなら科学的・物理的には存在しないが精神的には存在する人もいるってこと。 元々カミサマってのは人の心が生み出した偶像でしょ。故にこそ信じる人の心の中に存在するってのはある意味事実。 カミサマの存在を論理的に証明あるいは否定するなんて無意味なこと。そもそも我々は今目の前にある【ナニカ】の存在を証明することすら出来ないレベルの存在だろう? 視覚・聴覚・触覚・嗅覚・味覚等の情報など全て脳が認識させてる幻に過ぎない(と思わされてる)のだから、私が今見てる(つもりになってる)PCですら本当に存在してるのか分かりません。 それこそ全てはマトリックス的仮想空間内の情報でしか無かったとしても、誰一人それに気付く者はいない。気付いたとして、それを証明する手段など存在しない。 質問者様から観た【世界】がどういうものかは知る由も無いが、少なくとも私にとっての【世界】は決して確固たるものでは無く、いたってあやふやで不確かなものです。
- taro_san75
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質問者様は、祖父と母に「神が存在すること」を洗脳される程に聞かされているのでしょうか。それとも質問者様本人が疑問に思って尋ねたのでしょうか。 祖父と母が神を信仰するのと同じように、あなたが神を信仰しない(信じない)のも自由です。他の方のご意見でもありましたが、私の意見は、神への信仰は、その人の心に宿るものだと思います。いろいろな考えがあって、いろいろな神が存在し、解釈があってよいと思います。 人が生きていく上でいろいろな困難に遭遇することがあると思います。そんな時に、前向きに考えて困難に立ち向かい、乗り越えることを1人ですべて行うのは非常に大変だと思います。家族やパートナー、同僚や様々な人々に支えられて困難を乗り越えることも多いと思います。人間の精神的な弱さや悩みを心で支えてくれるのが信仰だと私は思います。 何か実際に存在するものではなく、生きていくための知恵というかガイドラインみたいなものなのかと思います。他人が作ったそのガイドラインを信用して実行するか、自分自身のガイドライン(生きていくための方向性)を信用して心にしまっておくかだと思います。 質問者様は、質問者様の意見があって当然ですし、祖父と母なりの見解があってしかるべきです。だからといって、誰も他人に、その信仰を強制したり、否定したりはできないと思います。 回答が遅くなってすみませんが、神様がいるかということですが、いると思っている人の心にはいると思います。
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お礼
私は断固として神様を否定したいわけではなく、 本当にいるなら真実を知りたいです。 ただ、現段階では、いないとしか思えないので、 いると証明or説明する人がいるなら、 その矛盾点をたたきます。 オイラーなどの天才でも、解けない謎(宇宙とか地球が存在する理由)は必ずあります。 そこで、(1)彼らはその雄大さに見せられたか、 (2)自分が解けない謎があることに苛立ちを覚え、 意図せずとも自分自身を洗脳をした。 そして、普通の人では対抗できないような天才的な屁理屈を生み出すことで、 神の存在を証明したように見せた。 こう考えれば、やはり神は思い込みだと言えます。 論理的に証明しているように見える表現でも、 実際、途中で飛躍しすぎていたり、 うまいこと話をつけているだけなのです。 読んでみて、やはりそうだと思いました。 たとえば、 「地球・人間が存在するのは偶然にしては出来すぎている。だから、神がいる。」 飛躍しすぎだと思います。 >心のよりどころそのものが、神様だ。神様に現世的なご利益をあてにしちゃだめだ。 神様は人を助けないの。見守るだけ。 なるほど、神様という表現は非常に曖昧ですね。 「心のよりどころそのものが神様」 「神様は見守るだけ」 というならば、この神様はいてもおかしくない。 というよりも、いないことを証明できない気がします。