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学歴コンプレックスは「心の病」?

私は某地方国立大→某地方公立大院でいわゆる生命科学関連の勉強をし、その後、民間企業に5年間勤務した後、現在は関東にある某旧帝国大学の経済学部に学士編入学した者です。 高校生の頃は医師になり、発展途上国で働きたいと思っていましたが、学力不足や自分の医師としての適性の無さなどを考えて、生命科学へと進路を変更しました。ところが、これがなかなか面白く、将来もこの分野で研究をやっていきたいと思うようにもなりました(そこの先生が研究者指向だったので「洗脳」されたのかもしれません)。しかし、自分のいる学部学科は、生物物理化学・構造生物学といった分野の研究・教育に欠けると思い、こうした分野に進みたいと思い、全国の国公立大学(私立はお金がかかるので割愛)の各研究室のホームページを見て、自分の思うような研究分野に最も近い所を選んで受験しました。 当時の私には自信があったのか、全国的にはさほどネームバリューのある所ではありませんでしたが、自分の選択が正しいという確信は持っていました。実際、研究の世界では大学名ではなく、よりレベルの高いジャーナルに優れた論文を多く出してナンボですから。 とは言え、休日も返上で毎日朝から夜遅くまで実験に明け暮れ、来る日も来る日も英語の論文を読み書きしなければならない、という人生が窮屈に感じられ(特に実験系の研究室って、土曜日に研究室に来なかったっり、夜早めに帰ったりすると、「さぼっている」と見られる風潮ってありませんか?)修士過程を修了すると、バイオ関連の専門商社に就職しました。自分がこれまでに学んできた知識も生かせ、良い職場だと思ったのですが、やはり、心の片隅にくすぶっていた「発展途上国のために働きたい」という思いが再び頭をもたげ、退職し、現在の大学にやって来たというわけです。 しかし、一般入試で入っていないため、目標を持って今までとは全く違う専攻を志したとは言え、ネット上の「学歴ロンダリング」という批判が気になって仕方がありません。確かに、一般入試で入った人の中には「住んでいる世界が違う」と思う優秀な人もいますが、別に嫌みを言っているわけではないのですが、大学名のイメージから思っていたほど、「住んでいる世界の違う天才たち」の集まり、ってわけでもないように思います。「人から認められるかどうかは自分の頑張り次第」という意見はよく目にしますし、私も正論だと思うので、自分なりにこの1年は一生懸命にやってきたつもりです。しかし、ネット上で「有名私立」と「駅弁大学」とを「>>>>>>越えられない壁>>>>>>」などのように書いて序列化しているのを見ると、「自分は所詮『駅弁大学』の出身さ。」などと自己嫌悪に陥ってしまいます。もちろん、ネット上の意見はランダムサンプリングではなく、バイアスがかかっており、「そんなもの見なければよい」という意見があろうことも十分承知しております。 このコンプレックスを解決する最も確実な方法は、もう一度受験勉強をやり直し、今いる大学の一般入試を受けて合格することです。しかし、これは誰がどう考えても無意味なことです。 私は某公立大の大学院にいた時に「自分は学歴コンプレックスがあって」と相談したところ「大検目指して頑張っている人もいるのに大学院まで行っててコンプレックスとは贅沢な悩みだ」という意見から「人は何か成し遂げられなかったものがあるとそれにコンプレックスを感じるものだ。もし、学歴で成功していても、他の分野でコンプレックスを感じるかもしれない。それを他分野の才能を伸ばすことで『昇華』という形で解消することは何ら問題ではないし、むしろ建設的で望ましい」という答えまでありました。 ロジックでは全く無意味なコンプレックスだと分かっているのですが、ことあるごとに「高校生の頃、文系に進んで、浪人してでも今の大学に一般入試で入っておけばよかった」などと、「反省」ではなく「後悔」を繰り返ししてしまっている自分がいるのです。もしかしたら自分が進学校である高校(地方の公立校ですから、都会の有名私立に比べればとても「進学校」とは言えないかもしれませんが、自分の同級生たちは多く有名大学に進学しました)に行っており、その時の周囲の状況の思い出が自分にそのような強迫観念めいたものを抱かせるのかもしれません。自分で分析してみると、自分はどうも他人の目を気にして、自我を守ろうとする傾向が強いのではないかと思うこともあります。やはりこれはある種の心の病なのでしょうか?だとすればカウンセリングなどを受けるべきなのでしょうか? 長文失礼致しました。宜しくお願い致します。

みんなの回答

回答No.2

心の病かどうかは医師の判断にゆだねるとして(今の世の中。どんな病名でもつけてもらえることでしょう)、あなたの視野の狭さ、それゆえにフラッシュバックなどに襲われる様子は非常に危険な状況に思えます。 ここで色々言うことは、決してあなたに良い結果をもたらすようには思えません。カウンセリングをお勧めします。 しかし、カウンセラーを選ぶ際に、あなたは学歴で判断されそうなのですが、良いカウンセラーが良い学歴を持っているとは限りませんよ。人間を理屈でなく肌で感じる能力を持った人に出会えるといいですね。 アカデミー賞脚本賞受賞作<グッドウィルハンティング>という映画をお勧めします。

wf-jr_4120
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 そうですね。私もカウンセリングの方向は考えています。ただ、決して私は学歴で人を判断することに賛成しているわけではありません。尊敬できる友人には大学中退のフリーターや高卒の調理師もいます。専門卒の優秀な社員も見てきました。学歴と人間性に関係はない、と私も強く主張したいところです。問題は私の論理的思考が学歴にこだわることを否定し、感情的判断が学歴にこだわっている、と分裂していることだと思っています。 ご紹介頂いた映画もぜひ見てみます。

  • bunaflame
  • ベストアンサー率20% (19/92)
回答No.1

僕も国立の大学院卒という学歴です。 スポーツも勉強も出来るだけ努力しようと毎日を過ごしてたらいつのまにか大学院に行ってたんですが。 僕は今サラリーマンですが、逆に大学院卒がプレッシャーになって嫌ですね。僕の頭はどうも忘れっぽいらしく、当時は研究にいそしんでいましたが、今となっては全く覚えていません。 実験がつらかった記憶はあるのですが(笑) なので、今は大学院まで行ってそんなことも知らないのか!と怒られることもあって非常に嫌です(汗 ぶっちゃげ、僕もあなたと同じで自分を守るために努力する人間です。 でも、そういう努力は本当は間違っているんですよね。 高校までは努力でなんとかなったけど、大学に行ったら学ぶことが多くなりすぎて、努力だけではどうにもならないことありましたもん。 というわけで。学歴は「ある程度努力した証」ではあるけど、「頭がいいことの証」ではないんですよね(泣  結局、学歴は無いなら無いでコンプレックスはあるだろうし、有ったら有ったで鬱陶しいもんです。学歴がどーたらと拘らず、自分が学びたいなら学べる場所に行けばいいだけなんですよね。

wf-jr_4120
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 > ぶっちゃげ、僕もあなたと同じで自分を守るために努力する人間です。 努力されているのであれば、それは素晴らしいことだと思います。私の場合はもう少し観念的な意味合いで、もう何年も前のことなのに、小学生の頃、いじめに怒りを爆発させて教室で大声で怒鳴ったこととか、高校生の頃の自分の友達に対する態度、最初の大学生のころの自分の振る舞い、などがフラッシュバックのように甦ってきて、その時の自分に激しい憎悪を感じ、消してしまいたい、と思うのです。これを自分なりに分析してみると、今の自分の価値観の範疇からして「こんな人間だと他人に受け入れられない」と感じることにより、現実は自分も周囲も諸行無常に変化するものであるにもかかわらず、ある種の固定化した自己像を壊されることに恐れを感じているからではないか、と気付いたのです。小さい頃、周囲から「頭のいい子」「まじめな子」と言われ、そのイメージを自分で守らなければいけない、という感覚が、学歴に対するこだわりを生じさせているのかもしれない、と。専門家から見れば、心理学的な分析として間違っているかもしれませんが。 > 結局、学歴は無いなら無いでコンプレックスはあるだろうし、有ったら有ったで鬱陶しいもんです。 確かに。僕も嫌に感じることがあるのは、バイト先などでも、大学名のレッテルで見られて、ちょっと焦ってヘマをしたりすると「おい、しっかりしてくれよ○大生!」などと言われることです。自分の中では「一般入試で入ったわけじゃないから、そんなに頭良くないよ」という屈折した思いがあるのですが......。 「大学院」って学歴も、一般社会の見方と、某掲示板に集う人々の見方とではかなり違いますよね(おそらく一般社会からすると、某掲示板に集う人々はそれなりに高学歴で、いわゆる偏差値コンプレックスみたいなものを持っているんですかね?) ロジカルに考えると、学歴にこだわることは無意味で、何を勉強したいか、ということになるのは明らかだと分かっているのですが.......。

wf-jr_4120
質問者

補足

私は、日本における学校名のレッテルで見られることに窮屈な感じを抱くことがある一方で、外国の方と話すのは、とても気楽なのです。なぜならば、外国においては日本の学校名(日本特有?の「学校名学歴社会」)は全く通用しないのですから。海外の学生と話す時、包み隠さず自分の経歴を話しても、全くネガティブな感情を抱くことは無いのです。海外では実力(学問的成果)が無ければ意味がない、という思いになり、むしろ奮起させられる気がするのです。

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