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江戸時代の報道の自由
いわゆる瓦版のことです。 時代劇ドラマを観ていると、瓦版の呼び込みで 「上様が、大奥を・・・云々」 「大奥の女が上様をうらんで自殺・・・」 などと言っていました。 当時、将軍関係のスキャンダル?なども自由に報道できたのでしょうか? 単なる、ドラマの演出なのでしょうか? よろしくお願いいたします。
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こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 >>江戸時代の報道の自由 まず、先に回答を書きますが、時事報道(瓦版)は「厳しく」取り締まられていました。 従って、ドラマの演出効果を狙ったものでしょう。 (1)「上様が・・・」などや「大奥の女中たちが・・・」というような出版物(瓦版も含め)は「絶対的に厳禁」で、もし、そうした時事を報道したとなると、直ちに、お縄になりました。また、場合によっては「死罪」などの罪にとわれました。 (2)江戸時代は「江戸城」とは呼ばず、正式には「舞鶴城(ぶかくじょう)」または「千代田城」と呼び、庶民はただ単に「お城」とよんでいましたが、城内の出来事などを庶民が知るはずもなく、もし、何らかで情報を入手できたとしても、それを報道したりすれば「死罪」になるくらい厳しいものでした。 (3)大奥のことが分かり始めたのは、明治以後で、大奥で働く女中たちは、皆、「家族といえども、大奥でのできごとを話してはならない」という誓約書を書かされていましたので、お宿下がりをしても、決して「大奥ではこうだった・・・」などと言う話はされませんでした。江戸時代は大奥は全く「闇の世界」だったのです。 ですから、今なお、歴史家などは「大奥」を探ろうと苦労をしているのです。 (4)TVなどで良く「将軍様のお成り~」などと叫びますが、将軍様のことは「公方(くぼう)さま」または「大樹(たいじゅ)さま」「御公儀(ごこうぎ)さま」と呼ばれていました。「将軍様のお成り~」は、単なる、視聴率を上げるための所業。 (5)瓦版は本来「禁止」であったため、瓦版屋が捕まっても書いた人の名は絶対に明かしませんでした。それだけの信頼関係で版元とは結ばれていました。 (6)瓦版で、まあまあ許された内容としては、もっぱら火事、心中、敵討ちなどの無難なものでした。 (7)大名などになると、世情の動きも中々知ることができず、各大名家の留守居役は、情報が集まるところであれば、銭を払ってでも、こっそりと「情報買い」をして、殿様に市井(しせい)の状況を伝えました。 (8)外神田の御成道(おなりみち)で古本屋を営んでいた「藤岡屋由蔵」は、店は、奥さんに任せ、江戸市中を徘徊し、色々な情報を集めてきて、素麺箱の机に向かい、帳面に記載をし、「種」一つにつき96文(約、2000~3000円)で、大名家の留守居役などに売っていたと言われています。
お礼
ご回答ありがとうございます。やはりテレビ演出でしたか。そうですよね。また、いろいろと興味深いお話で恐れ入ります。おもしろいですね、歴史というものも。