• ベストアンサー

鎖国

鎖国を始めた要因にはキリスト教をこれ以上広げたくないという理由以外にも何か他にあったのでしょうか? その当時の時代背景など詳しくわかるサイトなど教えていただけるとうれしいです。 よろしくお願いします。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.4

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 これまでの考え方:(通説) (1)「神の下では、万民が平等」という教えが、徳川幕府を頂点とした「封建社会の秩序」を乱しかねない。などの理由が挙げられていますが、戦国時代あたりから日本に「布教活動」を活発に行い始めたのは、主に、イギリスやポルトガル、スペインを中心としたキリスト教の中でも、カトリック系の宣教師たちであった。 (2)そして、確かに、私たちは、学校教育などの現場で「キリスト教徒」の進出に恐れて、日本が植民地化されるのではないか、と言う「懸念」から「鎖国」をした・・・と、習ってきましたね。 (3)しかし、長崎の出島においてはオランダとの交易は「許可」をした。 これには、オランダも植民地化を推進する国ではありましたが、一言で言うと、日本から「輸入」する「産物」が乏しかった。つまり、東インド会社などのように、当時、ヨーロッパが欲しがるような「香辛料」などは、日本の風土の中では、全くなかった。 さらに、金銀などにしても、当時は「銀」が主な流通貨幣でしたが、メキシコにおいて銀山の開発が本格化して、大量に輸出されたため、「黄金の国ジパング」とは言われても、その産出量は比較にならないほど少なかったためにスペインはいち早くメキシコとの交易に転じた。 なお、当時の日本の「銀」の産出は「石見銀山」が世界市場でも2%位を占めていたといわれています。 そして、オランダはキリスト教の中でもプロテスタント系が多く、東インド会社を巡っては、オランダはイギリスに勝利をしイギリスは排除され、日本からも撤退せざるを得なかった。しかし、すでに、日本が戦国時代頃から布教がされていたカトリック系をプロテスタント系に改宗せよ、と言っても、すでに根付いてしまったものを覆すことは、非常に困難であり、無理だと考え、布教活動に対する「魅力」は何もなかった。 (4)そこで、布教活動をするよりも、交易による利権に目を向けた。 もう一つの考え方:(日本側) (1)どのような国の支配者たちも、自らの権力の「維持」「強化」を目指すものであり、海外との交渉で諸問題が発生するよりも、「閉ざされた社会」の方が「管理」をしやすい。 (2)当時の諸外国と言えども、中国や朝鮮でも同様に「閉ざされた社会」であり、例えば、明にしても、朝貢以外を排除し、中国人の海外渡航を禁止している。 (3)幕府としては、「開国」することにより、日本の諸藩が貿易による「財力」や「兵力」の拡大を強く恐れた。 (4)ただし、こうなると、諸外国の「情勢」が何も見えなくなって、いわゆる、「独裁国家」になるため、幕府権力だけでは日本を「独裁的」に統治する力は、まだ「完全」とは言えず、とは言っても、幕府権力という独裁的立場を確立するために、「布教活動をしない」という約束のもとで、長崎の出島のみでのオランダとの交易を許可した。 そこには、日本の諸藩を介入させず、幕府だけが「富」と「情報」を独占するためであった。 しかし、幕府の力が、まだまだ弱いことを印象付けたのは、寛永14年(1637)10月25日より発生した「島原の乱」では、幕府軍は苦戦をし、オランダに依頼をして、海上から原城への砲撃をさせています。 (5)「鎖国」をする・・・と、言うことは、とりもなおさず、国家の中だけで「自給自足」をすることになるわけですが、秀吉の頃からは、日本国内でも「灌漑」「治水」事業が発達して「新田開発」なども盛んになった、また、「農業技術」や「農機具の発明」などで徳川幕府としては、「国内生産」「国内消費」だけでも統治できる・・・と、考え「鎖国」に踏み切った。 (6)やがて、幕府権力も充実してくると、海外との戦いでも、必ずしも「最新の兵器」だけで勝てるわけもなく、「兵力数」や「食料の補給路」で、さらには、戦国時代としう戦いにおいての「戦略」や「戦闘技術」では、幕府は諸外国に対抗できる・・・と、考えた。 これには、秀吉が朝鮮出兵で「補給路」を絶たれて敗北した経験が、そうした考えとなった。 従って、徳川幕府としては、「鎖国」をすると同時に「海外進出」には一切目を向けていない。 寛永12年(1672)6月25日、幕府評定所の話し合いで酒井忠勝は、 「我々は、他の人の奉仕を受けることができるかぎり、日本の船を国外に渡航させる必要はない」 との諮問が出されている。 (7)幕府は、一気に「鎖国」をしたわけではなく、徐々に発令していった。 *慶長17年(1612)、キリスト教禁止令を出す。 *寛永10年(1633)、奉書船(渡航が許可された船)以外の海外渡航を禁止。 *寛永12年(1635)、日本人の海外渡航と帰国を禁止。 *寛永14年(1637)、島原の乱。 *寛永16年(1639)、ポルトガル船の来航を禁止。 *寛永18年(1641)、オランダ商館を平戸から長崎の出島へ移転。 (8)また、「鎖国」とは言っても、「四口(よつのくち」と呼ばれて、 *中国から琉球へ、そして、薩摩藩を通じて幕府への路。 *中国から朝鮮へ、そして、対馬を通じて幕府への路。 *中国やオランダから長崎へ、そして、幕府への路。 *蝦夷地(アイヌ)から松前藩を通じて幕府への路。 が、開かれていました。 「鎖国」という言葉について: (1)ドイツ人のエンゲルベルト・ケンペルが江戸旅行をして、帰国後に書いた「日本史」(1712刊)の中にある、 「日本国において自国人の出国、外国人の入国を禁じ、また、此国の世界諸国との交通を禁止するにきわめて当然なる理」 と、いう一文を、蘭学者である志筑忠雄(しづきただお)が享和元年(1801)「鎖国論」において初めて使用した「造語」である。 (2)しかし、嘉永2年(1849)に成立した「徳川実記」では、寛永12年(1635)の措置を「海禁」と書かれている。 (3)近年、「鎖国」という言葉は、研究者の間でも使われなくなってきており、学校の教科書などでも、山川出版「新日本史」では、本文中には一切「鎖国」という文字は出てきていない。 (4)著者の東大教授藤田覚氏によると、 「幕府は、最初から鎖国を意図したわけではない。その状態が、たまたま200年ほど続いたから『なんとなく鎖国』だった」 と、考えた方が自然ではないか・・・とコメントしている。 少しでも、あなたのお役に立てば・・・。 なお、サイト検索で「鎖国」と入力すれば、「いや」と言うほど出てきますよ。

その他の回答 (5)

  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.6
noname#94392
noname#94392
回答No.5

最近は鎖国と言わない?  天草の乱を鎮めるのにかなりの苦労したことが一番の原因とおもわれます。その後も多くの宣教師の密入国もあって死刑に処しています。  また、シーボルト事件が幕末に起きていますが、日本地図のほかの多くに禁書を国外に持ち出そうとしたで多くの人間が獄死したりしています。長崎奉行の勝手な判断で決められたのではなく、幕府が本格的な調査の上処分を決めています。  また多くの漂流民が日本へ送りかえされたときの詮議には厳しいものがあり、大黒屋光太夫のように生涯屋敷に閉じ込められたひともいます。宗門改めなどもかなり厳密に運用されています。ロシアに対してもかなりの警戒をしており、キリスト教に限らず異質な文化の侵入についてもかなり神経質になっています。  吉宗の時代に科学に関する本は輸入が解禁されていますが、文芸関係は禁書のままだったようですので、なんとなく鎖国になったというのは理解しがたいのです。アヘン戦争で清が植民地化するという事件(時代の変化)がなければ、鎖国を継続する意志が幕府にあったのではないでしょうか。

  • tyr134
  • ベストアンサー率51% (851/1656)
回答No.3

徳川幕府の鎖国政策を理解するには、その前の戦国時代から見ていく必要があります。 戦国時代は、織田信長や豊臣秀吉、武田信玄などの戦国武将に注目が当たりがちですが、もう一つの対立軸がありました。 それが一向一揆です。 一向一揆は、浄土真宗(一向宗)本願寺派が起こした反乱です。 単に単発で行われた訳ではなく、ほぼ戦国時代を通して行われました。 で、かれらの理論は「宗教を中心にした合議制の国家の樹立」でした。 当然、それまでの幕府のような「君主(武将)が頂点に立った君主制」を目指す戦国武将にとっては邪魔な存在でした。 なので、各地で一向宗は弾圧されていきます。 で、キリスト教も同じような理論を持っていた(宗教による国家統一)ので、一向一揆の記憶が新しい豊臣秀吉が宗教統制を引いて、キリシタンは禁止としました。 というより、キリスト教だけを禁止したわけではなく、徳川幕府が認めた宗教だけ許したという方が良いとか思います。 つまり、一向宗のように「宗教を中心とした国を作ろう」という運動を起こされないように宗教統制を強いていったわけです。 で、『寺院諸法度』がいくつも作られていきます。 で、その政策を徳川家康も引き継いでより強化していきます。 鎖国については、宗教的な理由というよりは、貿易の観点からとられた政策です。 諸大名に自由な貿易を許すと、どこかの大名が財力を付けて、それで武器や兵士を整え、反乱を起こすかもしれません。 そこで、認めた地域だけに貿易を限定することで、幕府の監視がしやすくなります。 監視しやすくなれば、反乱を起こされる可能性もぐっと低くなります。 つまり、「鎖国」という言葉のイメージ通りに鎖国してたわけではなく、幕府による「統制経済」を引いていたわけです。 なんで、最近の学会では「鎖国」という言葉は語弊があるとして、使われなくなってきています。 また、ヨーロッパの文化や知識なども出島を通してかなり入ってきていたようです。 もちろん、逆に日本の情報も出島を通してヨーロッパに紹介されています。 特に交流が盛んだったオランダには、「カッパのミイラ」とか「浮世絵」とか日本の名産品が多数保管されてます。 ただ、オランダに限っていた点はやはりキリスト教を警戒してのことだと思われます。 というのも、オランダはプロテスタント国家なので、多少キリスト教が入ってきても心配はありませんが、他のカトリック国は危険だと判断したからです。 カトリック派は、ローマ教皇を頂点にしています。 ということは、カトリックの信者にとって国家(世界)の頂点は幕府ではなくローマ教皇ということになり、幕府の権威が失墜します。 権威が落ちれば、反乱も起こりやすくなります。 ということで、カトリック派をかなり警戒していたとみて良いかと思います。 最後に、参考ページを幾つか http://www.oumi-castle.net/ikki/ikki.html http://www5f.biglobe.ne.jp/~kiiso/sansaku035.html http://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~rvulp/nitibunAsakoku.html

  • jamiru
  • ベストアンサー率5% (170/3044)
回答No.2

つ「山田長政」 結局は幕府体制の強化ですが。

  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.1

徳川家の支配の永続化 これが主因です。 ちなみに最近は鎖国とは言わないらしい。 徳川家が経済的に優位に立つために、西国大名の朱印船貿易をだんだんと禁止していき、徳川家独占にした。 カソリック勢力は、カソリック国家とくんで、攻め込んでくる臭いがした。 なので禁止した。