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最も日本的な作曲家、最も日本から遠い作曲家は?
私個人的には、モーツアルトは日本に1番遠くて、ドビュッシーが1番近いと思うのですが。最も西欧的、もっとも異国(特にオリエンタル)という極端です。この点に関して、ご意見を伺いたく思います。 この問題定義にはいろいろ思うところがあります。 そもそも「日本的」っていうのはなんだろうか?通俗的には、山水や侘び寂び幽玄、あるいは江戸伝統民芸工芸演芸の世界、そのものから受けるイメージの世界と言うことを、多くの人は持つのではないでしょうか。すくなくとも、一般の日本人ならば、どこかにそういう思考回路が流れていますし、そういうものを想像できますよね。 クラシックを聴く場合もそういう土台をどっかに持って聴いてています。そのとき、日本的なものから遠いものを聞くのと、近いものを聞くのに、なにか情動が変化しないだろうか?と感じます。 私は、どうも独逸墺太利を中心とする、クラシック音楽の中核的流派(そして最も売り上げも多い分野だと思いますが)、クラシックと言えばまずイメージする主流(バッハモツベトブラブルマラ等)が、日本とは非常に遠いところの存在に思え、なにか疎外感、親しみにくさを感じてしまうのです。もっとも、違う文化のものを聴くんだから、そんなもの取り払って聴けばいいという切り替えができればいいわけですが、どうもお茶漬けから離れられないんでしょうかね。なにか、どこかに日本(あるいはオリエンタル)な響きを西欧の音楽に発見すると、非常に惹かれるものがあります。 もちろん、モツがアジア的でない?というのはもちろん時代背景、彼が背負っている生存条件が深いです。それはもちろん個人の責任ではありません。ドビュッシーが同時代の同地域に生まれたら、やっぱり当然歴史上のドビュッシーではなかったでしょうから。 そういう意味で、一般的に、あるいは個別的に、日本(オリエンタル)をその中に感じるクラシック音楽、その要素をほとんど想起できない音楽という問題に関して、最も遠い作曲家、近い作曲家ということを質問しつつ問題定義させてもらいたいと考えました。 どうでしょうか?
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モーツァルト・・・・・ ロマン派・伊オペラ等と並び、西洋音楽のある一時代ならではの極めて一面的な音楽性。(解り易く言うといかにも『西洋クラシック』風。) ドビュッシー・・・・・ 東洋的な音階や文化美意識も積極的に取り入れ、それまでの西洋音楽の作曲家達とは一線を画したインターナショナルな流れを多分に持つ。実際のところ西洋にとどまらず世界中の近代音楽に強い影響を及ぼし、今世界中で作られている音楽も日常的にこの流れを有す。近代音楽(あるいは後のグローバリズム)の祖とも言える。 ・・という視点からこの2つを見れば、確かに「ドビュッシーの方が日本に近い」とも言えると思います。 ただ、視点を変えると、全く別の受け取り方にもなると思います。(ちなみに自分はこちらの解釈の方が強いです。) モーツァルトはいわば「(日本含めた)アジア歌謡曲的」。丸わかりな書法で魂胆見え見えとも言えるセンスは、まさしく演歌・歌謡曲や時代劇のBGMなんかを連想させます。アジアにおいては多くを占めるいわば『西洋音楽に疎い人』達にも、『疎外感・親しみにくさ』どころか実際のところすんなり受け入れられるのも事実です。(ドビュッシーや現代音楽以降の西洋音楽が全く駄目でも、です。) カラオケミュージックで育った日本人には、『口ずさめるくらいの極めて単純なメロディーと拍子』これらが必須なのです。その条件を最も満たす西洋音楽が『モーツァルト』であり、ロックならクイーン、あるいはオフスプリングやグリーンデイの様なパンクポップなのでしょう。 それに比べ、ドビュッシーの音楽的美意識(特に中期以降の成熟期)は、日本の近代音楽のそれとは程遠いですね。もしドビュッシーの中に優れた「東洋的美意識」があるのだとしても、それは歌謡曲やj-popに慣れた今の日本大衆の耳には少々敷居が高く、それを見抜き評価出来る日本人はそう多くはないのも事実だと思います。 雅楽、茶の湯、日本式庭園、書画・工芸品等の伝統美術、伝統舞台・・・・これらに慣れ親しんだり感銘したり出来る日本人が今の日本にどれだけいるのでしょう。 つまり、今となっては多くの日本人が音楽に求めるのは『高度なオリエンタリズム』等ではなく、久石譲・服部なんたら・東儀秀樹・秋川雅史・・・の様な『歌謡曲色』なのだと思います。
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- droitegauche
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大変ユニークな考え方をされる方と思い、回答には程遠いかとも思いますが私の考えを述べます。 まず大いに気になったのがバッハ、ハイドン、モツ、ベト、(出来ればこういう聞き苦しい省略はしないで頂きたいですが。何故か日本の音楽界はプロ、アマ含めてこういう隠語風な表現が多いのが気になる)を機軸とするドイツ音楽が西洋音楽の中心と言う考えは、明治時代に日本が西洋音楽を取り入れたドイツ(プロセイン帝国)の発想がそのまま現在まで続いているだけです。その後ドイツでもここまで帝国主義的な発想はもうやめたのではないかと思います。チェコやハンガリーが政治的には周辺国家だったからと言ってどドヴォルザークやバルトークやヤナーチェクが周辺作曲家だったわけはありません。単なる19世紀的大国意識の現われでしょうか。フランスでもイタリアでもそれは同じですが。イタリア人は今でも世界の音楽の中心だと思っている?いやこれは冗談ですが。 モーツアルトに関しては、彼の音楽の大半は当時の主流であったイタリア的です。殊にオペラの初期の物はイタリアオペラの「型」を丸写ししています。その後グルック(ドイツ的というよりはフランス的)の影響を受けやがて独自の境地に達していると言えるでしょう。若い頃からヨーロッパ中(と言うことは当時としては世界を)を旅して様々な国の様式を取り入れたある意味当時の前衛的作曲家だったはずです。しかしそのモーツアルトですら時代と地域の子だったのです。前衛的といいましたが彼の場合、形式や構造、和声に関してはむしろ保守的です。Nr1の方の仰るとおり、旋律はおおかたこの時期に確固としてかたまった「型」を踏襲して書かれています。これが今のポップスから演歌までを支えている土台になっているのです。だからモーツアルトが日本的というわけには行かないでしょうが。 ドビュッシーですが、彼は1900年のパリ万博でインドネシアのガムランを聞いてショックを受けます。自分が書きたい音楽はこれだとまでいったとか言わないとか。彼の音楽が日本的に聞こえるとしたらそれは勿論「ペンタトニック」(5音音階)のせいでしょう。日本中国その他多くの音楽はペンタトニックですから。アイルランドやハンガリーもです。じつは19世紀から20世紀にかけてヨーロッパは「アジア趣味」があらゆる分野で大流行でした。「ジャポニズリー」「シノワズリー」という言葉がフランス語であるように例えば有名な浮世絵や掛け軸、中国の壷や仏像などが大量に入ってきました。ドビュッシーの「海」の表紙に北斎の絵が使われたのはまさにこの流行のなせる業で、勿論ドビュッシーの音楽とは海の画像意外は関係なく、出版社(デュラン)の売らんが為です。ラヴェルの「マメールロワ(レドロネット)」、バルトークの「中国の不思議な役人」、マーラー「大地の歌」これらはこの時期の流行と無関係ではないでしょう。ちなみにラヴェルは大の「日本趣味」だったことは良く知られています。 ではペンタトニックはそういう「東洋趣味」から出てきたのかと言うと、そうとも言い切れません。むしろ機能和声と長短調の構造でがんじがらめになった音楽(和声)構造から抜け出るための、飽くこと無い探求からたどり着いた結果のひとつにすぎません。この辺はドビュッシー一人の功績ではなく、この頃の作曲家は多かれ少なかれ「モダル」(旋法)を取り入れた和声(対位法)理論を盛んに取り入れていました(たとえばフォーレ)。ちなみに全音音階もドビュッシーの専売特許みたいになっていますが、これは日本にもどこにも多分無い、かなり頭脳的産物。こちらはどちらかと言うとワーグナーの和声構造から生まれた副産物的な気がします。頭脳的産物と言ってしまえば長短調音階も多分に頭脳的産物です。 なんら回答になっていないことを長々書きまして、失礼いたしました。少しでも参考になれば良いのですが。
お礼
長文ありがとうございます。 何においても、決定的に個の力でもって物事が独占的に確立されたと言うことはあまりないことのようで、音楽もその例だなと改めて思いました。何か中心的人物はいますけど、それを過度にピックアップする傾向がありますね。おゃるとおり、当然ドビュッシーの周辺の動きに、彼を押し上げるような流れがあったと思います。伝説的なストーリー展開に後世無理やりはめられてと言う感じですね。 日本における西洋音楽の捉え方も、その毒を受け継いでしまって、グローバルな観点をないがしろにしています。結局中心点はないのかもしれません。ところ変わればそこが中心。モーツアルトにしても、周辺からの影響でああいうスタイルに落ち着いたというわけですか。たしかにイタリア的という雰囲気です。 それから、ペンタトニックも「日本的」と言うのは錯覚で、グローバリズムのものなんですよね。ここでも、中心点を誤る例ですね。何々的音階とか雰囲気とか言う(インド風旋法とか)あれって、結構錯覚で刷り込みも大きいのですよね。
お礼
現状の日本の惨状?を省みれば、ご指摘のような状況の方がより近いと感じます。伝統とか風月なんて、それこそ特殊な世界に成り下がっていますからね。その侘びさびがどうしたって言ったって、体の中に根付いてやしません。よりオリエンタルな響きなんて、ぜんぜん響かない人が大部分かもしれない。 モツのご指摘のような安易さは大変感じるところです。それが、モツ人気の一員でもあると感じるところですが、これは一方では、本物のモツファンを侮蔑するという分裂的な状況かもしれませんね。 それにしても、どうして、ヨーロッパの中心の方って言うのは、私流に言うと閉鎖的なんでしょうか。つまり、外からの価値というものを認めないで内部醸成してきたような感じです。それがどうも、露仏あるいはもっと周辺領域のクラシック世界と比べて、開放感という点でなにか物足りない、あまりに意固地な印象をぬぐえないと思うのです。