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1月8日放送の「日本音楽コンクール」を観て(作曲部門)

2006年「日本音楽コンクール」の本選の番組(NHK)を観ました。 作曲部門を観て思ったことがあります! 4曲の作品を聴かせてもらいました! 全部が「メロディ」がわからない 現代音楽 ハーモニーがつかない 拍子がわからない・・・・ほか。 勿論「素晴らしい」と専門家が判断したのでここまできたのでしょうが 一般の「クラシック」を勉強していない方や 普通の人が聴くと・・「どこが良いのだろう?」と 疑問を感じました! 「音楽」ってそういうものなのかなぁ・・・って。 文句や、批判を書いているつもりはありませんが・・。 一体何が基準であのような曲が素晴らしいものと判断されるのですか? 逆に・・。 「服部隆之」「大島みちる」「池辺晋一郎」他 みたいな メロディやハーモニーがわかりやすく 一般の方でも「感動」するような曲は 本選の前の「予選」に登場しているのですか? それとも、あのような感じの「楽曲」が このコンクールにおいて評価される・・みたいな流れができていて それを意識したものを「作曲」されている方が多いのですか? 基準が知りたいです!!

みんなの回答

  • fish28
  • ベストアンサー率0% (0/0)
回答No.3

 nanase66さんのご感想はとても率直なものだと思います。メロディも拍子もありませんし、和音もすべて不協和音です。  音大の作曲科に行くと、調性のない音楽を書かなければならない、というような風潮があります。調性があるより、調性がないほうが芸術っぽいというような感じでしょうか。一回聞いてすぐ理解できる曲よりも、「何なんだろう、この曲は」と考えさせられる曲の方がありがたい感じがするみたいな。  でも、作曲科の教員が現代音楽を書けと言っているわけではありません。ただそういう雰囲気が厳然としてあるので、堂々と調性丸出しの曲を書くのは気がひけるわけです。  こういった事情がありますから、コンクールでも当然、調性のない曲を提出することが暗黙の了解です。ですが、コンクールの応募要領には、無調とは書いてありません。ただ、コンクールなんだから当然、無調の曲を出すべきだろうという雰囲気があるわけです。  とはいえ、100%無調の曲ばかりではありません。20世紀初頭のような、調性と無調が交じり合ったような作品もあります。ただあまりにも調性がぼかされているので、何が何やら分からない感じがします。  

  • hiro0164
  • ベストアンサー率18% (38/205)
回答No.2

その番組は私も見ました。 私の感想も概ねあなたと同じです。 ただ、表現の手段としては「なるほど」と感じる部分もあります。 何かをメロディとして表現するのでなく、音そのものを用い、より写真的に表現しているのかなって思ったりもしました。 例えば、夜の森を表現する場合に、虫の声、木のざわめき、ふくろうの鳴き声等を音のみで表現(極端に言えば、音の模倣)しようとすると、メロディや拍は必要ありませんね。 心の動きにしても、世の中の動きにしても、ずっと同じ拍子ではないし、メロディや和音を奏でることもまれだと思います。 そのような不安定なものを音楽にすると「あのようになる」。 うん、きっとそうなんですよ、多分。 何だか無理矢理自分を納得させているような気がしてきました・・。 まあ、あのような曲が評価されやすいのだとは思いますが、それを考慮しても表現の手段としてはありかと思います。 ただ、また聞きたいとは思いませんでしたが・・・・。 何度か聞くと好きになれるのかも知れませんね。 私自身は、専門家ではありませんので、的はずれな回答かも知れませんし、なんだか抽象的ですね。 すいません。

  • Ta595
  • ベストアンサー率57% (525/911)
回答No.1

こんにちは。 TV放送は観ていませんしコンクールの審査についても分からないので,ご質問そのものにはお答えできませんが,現代の音楽についての雑感という事で。 とても深いテーマで私もきちんと整理できていないのでややこしくなりそうですが,もしもよろしければご一読ください。 コンクールに入選する作品や現代の純音楽作品が一般の人には難解に映るようになった原因のひとつは,「他の誰かが過去に作ったようなものは<芸術としては>評価されにくい」という事が背景にあると思います。 今回入選した作曲家の皆さんも,美しいメロディとハーモニーによる作品を作る事は当然できるでしょうし,例えば映画音楽やTV番組の音楽というテーマが与えられれば,それにそったもの,多くの人に受け入れられるものを作る事はできるのではないかと思います。 (そういえば,池辺さんが作った大河ドラマ「独眼流正宗」のテーマ曲は名曲でした,笑) しかし,コンクールに挑戦する場合や「芸術としての音楽」というものを考えた時には,「他の誰にも作れない自分の音楽とは何か?」というのを深く考えねばならないような気がします。  ・新しくなくても感動できる音楽は,これからも作り続けられるでしょう。しかし,そこにどのような新たな価値が見出せるのか?(⇒余談-1)  ・あるいは,単に新奇な音ならば,ほぼ無限に作り続ける事ができるでしょう。しかし,それは音楽といえるのか? 現代では,単に自分の感性にしたがっていくだけでは今までにすでにあるものにぶつかってしまうし,新しいものを求めるだけでは音楽としての美しさや感動が置き去りになってしまうかもしれない・・・。 現代の作曲家に求められるものは,非常に難しいと思います。 そして,その難しさにどう取り組んでいるかが審査の対象になっているのではないかと。 推測ですが,個性・新しさ,高度な作曲技術,そしてもちろん,高い音楽性・芸術性(審査員がどう判断するのかは私にも不明ですが^^;)。これらの高度なバランスが要求されていると思います。 ---(余談-1)--- 自分の表現したい事が表現できているなら,感動できる音楽であるなら,そして多くの人に愛される音楽なら,新しさなんか必要ないじゃないか,という考え方もあると思います。 もちろん,芸術云々とは関係なく多くの人に愛される作品を作りたい,あるいは,他の人の事は関係なく自分の欲するものを作れればいい,というのも,作曲家のあり方のうちだと思います。 実際,多くの人たちに好まれる音楽を数多く作り,音楽の教科書に載っているような作曲家たちよりもずっと人気がありお金持ちだった売れっ子作曲家は過去にも大勢いましたし,歴史の流れとは関係なく,自分の信じる音楽を書き続けた作曲家もいた事でしょう。 しかし,それらの多くは忘れ去られ,現在音楽史に残っているのは,たとえ生前は認められずに不遇であったとしても,「個性」や「新たなもの」を作品に強く刻み込む事ができた作曲家たちです。 その是非はともかくとして,「個性的なもの・新しいもの」というのが「芸術」の価値判断基準としては非常に重要であり,その価値観のもとで過去の作曲家たちが自分と厳しく向き合いながら自分だけの新しい世界を求め・切り拓いていったからこそ,現在我々が聴けるような広く深い音楽世界ができあがったというのは,事実であろうと思います。 ---(余談-2)--- なお,こちらは本当に余談ながら,日本音楽コンクール(やその他の音楽コンクール)というのは,スポーツの日本選手権などの「一番を決める」ためのものではなく,若い才能の発掘とそれに対するサポートを目的としています。 (詳しくは分かりませんが,応募資格に制限があるはずです。) 入選した人たちは,奨学金(賞金)・留学・公開演奏会などの新たなチャンスを与えられ,さらに研鑽を積んでいく事になります。(もちろん,コンクール入賞,という肩書きも将来の活動の場を拡げるためにはそれなりの意味を持ちます) また,作曲部門の審査員には池辺さんも入っていらっしゃったようですね。 (そして,池辺さんも,難解で複雑な作品も作っていらっしゃいます)

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