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直江兼継の頭は総髪でいい?
NHK大河ドラマで「天地人」が始まりましたが、直江兼継を含めて総髪の出演者が多く、あのころは月代にしていた時代ではなかったのか? 鎧兜をまとうときにはちょんまげでないといけないようにおもっていたけど、どうなったいるのでしょう?
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いわゆる武士の身分が月代を剃ることを普段もするようになったのは、実は江戸時代になってからのことです。 なぜなら豊臣秀吉の政策以前は武士階級とその他の身分階級の差がはっきりとしておらず、月代を剃ることが武士の身分である。とはっきり決まっていなかったからです。 もともと月代を剃るのは公家の冠装束の見栄えを良くするために始まり、戦国時代も末期(織田信長の時代と考えられている)になって、武士が戦闘で兜を長時間かぶることでの蒸れを防止するために定着したといわれています。 つまり、信長の時代ではまだ戦闘時にしか月代を剃っておらず、しかも習慣として京の周辺から広がっていって地方では普段は総髪と考えられることになります。 今放送中の「天地人」の時代では、まだ総髪と月代が半々特に武士階級でも地方では通常は総髪が多い。という考え方で今までの大河ドラマの時代考証もされています。秀吉が中央に地方の大名を参勤させるようになって広がったという時代考証の流れのようです。
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室町時代までは総髪が普通だったようですので、月代が定番となる江戸時代への過渡期にあたる戦国時代に総髪というのは、不自然ではないかと…。 ただし、兼続の前髪、かなり変ですよね。 総髪にするにしても、それはそれで、ちゃんと考証しなきゃ、キモイです…。
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ありがとうございます。 確かに伝足利尊氏像では総髪で、髪を両脇に分けています。とにかく前髪が顔にかかるというのは視界を邪魔するのではないかと想像され、少なくとも後ろに束ねることは少なくても必要になったのではないかと想像はしています。兜がしっくり頭に合わないようで激しい戦闘には不向きなようにも思われますが、歴史を勝手に想像で書き直すことできないわけでしっかり考証してほしいですね。
お礼
ありがとうございます。歴史の本などでは室町時代の職人などでも月代をしているような図がみられるようにもみえ、全部が総髪というのがなんとない違和感がありました。特に謙信は他国への出兵を繰り返しており、月代はじわじわ浸透したというより、越後兵では一挙に流行したようにも考えられました。 また首実検されるとすると総髪では髪が前にたれるとお化けのようにも見えそうで、死後の姿も気にするような時代には自分の顔が髪で隠されないようにする美学でもあったのかな想像していました。