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「思考する」ことと「行動する」ことについて
自分は「思考する」ことと「行動する」ことのバランスが悪いように感じています。うだうだ悩んでばかりで行動することができないのです。 1.どうすればどんどん行動することができるようになるのか? 2.どうすればきちんと思考することができるようになるのか? 行動することができないのは、きちんと思考することができていないからだ、という気もするし、きちんと思考することができなくても、行動することができればいいんじゃないか、という気もします。 つまり、「行動する」方が下がっているか、あるいは、「思考する」と「行動する」が両方とも下がっているか、そのどちらかだと思っているのですけれど、これを(「行動する」方を、もしくは「思考する」方を、によって両方を)引き上げるにはどうすればいいのでしょうか? という質問です。 「地頭をよくするには…」(http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4484349.html?ans_count_asc=20)という質問に対する回答で、「猪突猛進は、おそらくそちらのむしろ長所でもあるところかと思います」というものがあったのですが、僕もそう思うのです。 行動することができる、ということは、思考することが下手でも、それを補ってあり余る長所なんじゃないか、と。それに比べて僕は、行動することも思考することもできない。 3.「行動する」ことと「思考する」ことは、対置させて捉えるべきものではないのか? これは、どちらかが上がればどちらかも上がる、という気がしている、というのにも繋がるのですが、「思考する」ことは「行動する」ことの一つなのか? あるいは「思考する」ことの延長に「行動する」ことがあるのか? わからないのです。 非常に長くなって申し訳ないのですが、最後にもう一つだけ。 4.こういったことの答えを自分で探さずに、他人に答えを求めるのは間違っているのか? 少なくとも、きちんと思考したい、と考える人間は、その答えを自分で探すべきなのではないか? しかし、それはとても大変で、とても孤独なことのように思えるのですが。あるいは、「孤独」という言葉を「自立」と言い換えて進むことができれば、大人になれるような気がするのですけれど。 回答お願いいたします。
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頭の中(の世界)外の世界をわければよろしいのではないでしょうか。頭の中の世界は外の世界と別のものです。頭の中の世界では誰でも孤独です。二つの世界の中で重なっていることが思考することが行動することにも重なりますが、原則としてこれは非常に危険なことです。頭の中の世界というのは外の世界が現実だとすれば空想に相当します。空想を直ちに行動に移すのは大きな失敗になる確率が高いことです。思考は空想に相当すると考えればその空想が正しいかどうかは外の世界と重なるかどうかを確認する必要があります。思考(頭の中の世界)が孤独であることは救いでもあります。もし自分の頭の中の世界が自分一人のものでなかったら落ち着いてものを考えることはできません。
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- MAXMIN2008
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>>1.どうすればどんどん行動することができるようになるのか? → とりあえず,やってみる。気軽な気持ちで。(取り掛かる対象が何であるかで気構えも変わりますが) >>2.どうすればきちんと思考することができるようになるのか? → とりあえず頭に思い浮かんだことを書き出す(箇条書きで) → 書き出したことを膨らます(具体化する) → 理屈に合うように整理する >>3.「行動する」ことと「思考する」ことは、対置させて捉えるべきものではないのか? → 思考するための思考なのか,行動するための思考なのかで区別すべき → 思考するための思考なら,自己満足できるまで,とことんやれば良い。 → 行動するための思考であるなら,思考~行動~失敗~思考・・・を繰り返し,成功を導く出すことで,人間として成長できる。 >>4.こういったことの答えを自分で探さずに、他人に答えを求めるのは間違っているのか? 少なくとも、きちんと思考したい、と考える人間は、その答えを自分で探すべきなのではないか? → 自分で全く考えないことはお勧めできない。 → 考えてもわからないとき,人に聞くことは重要。 → 自分で答えを見つけたとしても,人の意見を聞くことはGOOD。人の意見を聞くことで考え方が広がる。聞く耳を持たないと意味ないですが。 失敗して,次にどうするか考えることが大事だと思いますよ。
お礼
MAXMIN2008さま、回答ありがとうございます。 ありがとうございます。自分で考える部分と、人に頼る部分と、両方ありますよね。そんな当たり前のことが、何でわからないんだろうなー。 あとは、今まで「考える」というと、全部頭の中だけでするものかと思っていたのですけれど、まず、箇条書きにしてみる、書き出してみる、というのは、確かに有効かもしれません。億劫がらずに、手を使ってみる、というのも、これからは意識してみたいと思います。
- hamakkotarou
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思考は行動に対する予測だとすれば、行動してみなければ思考が正しいか どうかは判りません。 こうなったらいいなと思って行動しても実際には思った通りにならない ことはごく普通に起こります。 これは思考の仕方が間違っていたとも言えるでしょう。 あるいは行動の仕方が間違っているのか。 どちらも間違っているかもしれません。 前提(思考)が間違っていれば、行動も間違ってきてしまうでしょう。 人間関係を上手く築きたいという希望を持って行動をしても、実際には 思うようになりません。 それは、人間関係を上手く築けるようになるのは思うようにならない ことと自分が上手く付き合えるようになることが必要だからです。 これは思考を少し成長させたことになるでしょう。 そうすれば行動も成長するはずです。 でも結果はどうなるか判りません。 思考や行動を変えるためには失敗したり間違ったりしたことからヒントを 得ることで地道に修正をしていくことだと思います。 もちろん参考になる知識は本などで集めることも必要でしょう。 思考をしたから正解が出てくるわけではなく行動をして試行錯誤をしなが ら正解に少しずつ近づけていくのだと思います。 そのためには失敗や間違いをすることは当たり前のことになるでしょう。 正解を見つけてから正しい行動をしようとすることは思考の仕方が間違っ ていると言えるかもしれません。
お礼
hamakkotarouさま、回答ありがとうございます。 トライ&エラーで思考と行動を相互に修正していくことが大事なのですね。それに、「仕方」という言葉を付けるだけで、ずいぶん見え方が変わるものだな、と思いました。 たぶん僕は、皆様からの回答やアドバイスで、思考と行動(考えることとやること)の関係の付け方(関係の仕方? あり方?)というのを、学ぼうとしているのだと思います。
- cyototu
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#3です。 もしかしたら、質問者さんは貴方の行為が他の方に決定的な影響を与えてしまうような責任のある立場にない方なのでしょうか。思索が影響を与えるのは自分自身にだけです。ですから、どのような結論を引き出そうが、他の方の迷惑になることは、ほとんどの場合在りません。ところが、行動は確実に他の方に影響を与えます。質問者さんの行動次第で、他の方が幸福にも不幸にもなるのです。ですから、思索と行動は全く違った次元で物が動いて行きます。願わくば、質問者さんも、自分の内面を磨くばかりでなく、行動の重みを体得できる方になってもらいたいです。
お礼
cyototuさま、ありがとうございます。 「貴方の行為が他の方に決定的な影響を与えてしまうような責任のある立場にない方なのでしょうか。」 はい。ないです(笑)。 僕は社会の中で落ちこぼれているような人間なので、自分の行動が他人に迷惑を掛ける、というようなことは、今は、あまり心配していません。もっと、ずっと先の心配だろう、と思っています。(そういえば、「責任」というものがないから、僕は駄目なのかな、と思ったこともありました。自分が、何に対しても、誰に対しても、責任を持っていないと感じたとき。) 僕はずっと社会(現実)から逃げるような生き方をしてきたので、今ちょっとずつ、復帰しようとしているというか、関わろうとしている段階ですね。 友人関係、といったものの中で、これまで、人から好意のかけらをもらったことや、期待をされたことはあったと思うのですね。けれど、それを裏切ってきたのは、cyototuさまの言われるように、「行動の重み」というのを、僕が知らなかったからかも知れません。 他人を不幸にしよう、とか、他人に迷惑を掛けよう、とか思う人はいないと思うのですが(けれど、恨んだり、妬んだり、そういうことならありますね)、他人を幸福にしよう、とか、自分の行動で、行為で、発言で、言葉で、表情で、誰かに影響を与えよう、という気持ちも、僕にはなかったわけです。それが結果的に、他人を不幸にしてきたのかも知れません。それは、僕自身が不幸だったからだと思っていて、未熟で、馬鹿だったからだと思っていて、だから、今、自分をしっかり打ち立てようと、頑張っているところです。 ありがとうございました。
No.4&7です。 でしたら いまの姿勢で 世の中を 徹底的に(ただし そうしたいときだけのこととして自由に) 見つめて その仕組みを知ってやろうとか これは とうといことだと分かってみたり それは くだらんことだと きちんと理解してみたり 面白いと思うことを 進めていくとか あると思いますよ。 ともかく 自慢じゃないですが わたしは 三十歳になるまで 世の中のことが なぜ 裏と表 ホンネとタテマエとがあって これらを使い分けているのか そうしている人びとの頭の中は いったい どうなっているのか 分かりませんでした。そういう意味では 西も東も 分からなかったのでした。 ふいと 《悪は 存在しない》という見方を知って それまでの知識やものの見方が すべて 整列したことを覚えています。それまで 混沌と言えば わたしの代名詞だったわけです。日本人は 奥が深いと言うべきなのか あたかも二重人格のようなのか うなぎのように のらりくらりですから 確かに のれんに腕押しになって 自分の足が地についていない感覚を持っても おかしくないでしょう。 うんぬん うんぬん です。
お礼
はい。 ありがとうございました。
No.4です。 ★ 「よい思想に出会う」ということは、努力して為すことができるものなのでしょうか? それとも、そういったこととは関係がなく、まさに「出会う」ものなのか。 ☆ もし これまでに《出会った》形跡もないとすれば 自分で つくってください。 たとえば ひとの意見にしても自分の見方にしても ただちに 別の考え方をしてみるのです。 村上春樹は 処女作からつづいて――長編小説だけを捉えて言うのですが―― なかなか 人間とは何かや 人間として・現代人としてどう生きるかについて 探究している姿勢を見せていました。常識を疑い つねに 自分を甘やかさず 真実を追究しようとしていました。 ユング系の・あるいは河合隼雄系の精神分析に 傾いていったところで はじめからの探究に――わたしの見方によれば―― 終止符が打たれました。もう問い求めていないということです。もっと 辛辣に言えば はじめから 探究の姿勢だけがあったということです。 それは 『ねじまき鳥』の第三部で 見えたと知りました。主人公とその失踪した妻との関係を 最後の最後で もはや 何の人間的尋究もせずに ただ 辻妻を合わせただけだと受け取りました。 というように たえず別の・違った見方を していくと いいでしょう。自分にしっくりくる内容の思想を 身につけてください。その問い求めの時期としては 少々 貪欲に過ごしても いいのではないでしょうか。 と思いました。
お礼
brageloneさま、ありがとうございます。 brageloneさまの他の回答を拝見させて頂いたのですが、いつも、一つの答えを提示される、というよりも、そこから生まれる会話(対話?)によって、答えを得られればいい、といった姿勢が感じられて、とても好ましく思います。 僕が『ねじまき鳥』もユングも河合隼雄も読んだことがないのが、とても残念なのですが、というか、こういうときに、いつも自分の無知を痛感することになります。 「これまでに《出会った》形跡」というのは、あるように思います。村上春樹もその一つだという気がしています(自分の「思想」というのは、たった一つのものなのでしょうか? それとも、幾つもある?)。ただ、それが自分に根付いていないというか、「身についていない」という感じですね。行ったり来たりしているような、だから、それが大事だと思うのですけれど、その歩みをもっと速くしたい、という焦りにいつも駆られてしまいます。にも関わらず、「うだうだ悩んでばかりで行動することができない」といったことになっているのは問題だな、と思うのですが。 「たえず別の・違った見方」というのは、それをするニュートラルな自分、というのはいるわけですよね? 「こういう見方をしてみよう」「いや、こういう見方もあるのではないか」といったことを判断する冷静な自分というか。 焦りにしても何にしても、いつもそういう冷静さを僕は欠いているように思ってしまいます。それとも、「少々 貪欲に過ごしても いいのではないでしょうか」というのは、元よりそんな冷静さなど欠いていることを気にせずに突き進んで行く姿勢、というものを、少しは持ってもいいのではないでしょうか、という、そういった意味なのでしょうか。 冷静であるとか、貪欲であるとかいうのも、見方の一つに過ぎないのか? こういう風に、いつもこんがらがってしまいます。「思考」というのは線のイメージで考えているのですが、先に進めることができないのです。
思考で困難とされつつも「甘いブドウ」と思い込んでる大金とか人脈とか名誉を望んで為される辛苦を飲む過程は「酸っぱいブドウ」を食しているものであり、簡単に手が届き「やりたい」の甘いブドウはすでに行動と経験の手中にしているが故に思考する必要を感じてないのだと思います。 「努力している暇はない」これがなかなか思考も行動もなんら成長しないのを悩まない楽観さ、無防備、無鉄砲、全くアテにならん奴でいる私の行動基準です。好きなことだけしてるから「これだけやったのに」とか「してやったのに」と自分にも言い訳しないで済み、他人に責任転換して恨む必要も減らせます。 深く考慮することなく行動するのを人に勧める理由もこれといってないですが、「するが易し」「失敗は成功の素の報酬」と考えれば楽です?
お礼
miko-desiさま、回答ありがとうございます。 「やらなければいけない」的な考えから解放される、ということには、とても興味があります。 努力なんかではなく、ただやりたいことを、ただやれることを、ずっと(そのときそのときで)やっていけば、それでいいのではないかと。 ただ、僕の場合「やりたい」と感じていることに、「やらなければいけない」という感じが掛かってきてしまうのですね。感じる必要のない義務感のようなものを、わざわざ自分で感じているのは、本当に馬鹿馬鹿しいと思うのですが。 理想として、「甘いブドウ」と思い込んでいる大金とか人脈とか名誉を望んで成される辛苦を飲む過程を、そうと知りながら歩き、「これだけやったのだから」「これだけやっているのだから」と自分に対して誇りを持ちたいという気持ちがあります。そんな理想こそが思い込みなのかも知れないのですが。 ちょっと、考えがまとまっていないのですが、だからこそ、解放されることに意味があるのかな、とか、「努力している暇はない」という姿勢は、とても自分の「好きなこと」というのを尊重しているよな、とか思います。 優柔不断というか、すっきりしない性格の自分が嫌なのですが、ともかく、ありがとうございました。
- mtron
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そんな事で悩む方は、それ以前の事が欠落してるからでつ. 例えば、例に出されてる「地頭をよくするには…」の質問者わ 回答者にお礼をしてない.話にならない.ソンナ方わ存在しないに 等しいでつね. 人生に於いて基本的な事を蔑ろにして その先を求めるから、自分自身を見失うのでつ. 自分自身が分からないで、それを他人が分かる筈がない. 例えば他に、睡眠を十分とるとか栄養とるとか生活リズムが正しいとか 嘘をつかないとか、約束守るとか 生きる姿勢がシッカリしていれば、自然と今悩んでるバランスが 整いまつ.
お礼
mtronさま、回答ありがとうございます。 「人生に於いて基本的な事を蔑ろにしている」というのは、きっとその通りですね。それは、僕がすごく悩んでいることで、他人との関係を上手く作れないのは、自分との関係を上手く作れていないからなのか、自分との関係を上手く作れていないから、他人との関係を上手く作れないのか。 たぶん、そういう風な問いに走らない方がいいのでしょうね。mtronさまがおっしゃられているように、何かを受けたら、それをくれた人に「お礼をする」といったこと、「睡眠を十分とる」「栄養をとる」「生活のリズムを正す」といったこと、そういうことを大事にすることが、自分のバランスを保つことに繋がるのでしょうね。本当にそう思います。 「生きる姿勢をシッカリする」というのは、僕の目標というか理想というかでもあります。ありがとうございました。
よい思想に出会うことです。
お礼
brageloneさま、回答ありがとうございます。 村上春樹さんの『ノルウェイの森』の中で、登場人物のひとりが、「必要なのは理想ではなくて、行動規範だ」といったことを言っていたのを思い出しました。 「よい思想に出会う」ということは、努力して為すことができるものなのでしょうか? それとも、そういったこととは関係がなく、まさに「出会う」ものなのか。 こういう質問は愚問ですね。努力して為すことができると言われたって、それなら努力して手に入れよう、という気概は僕にはないみたいですから(笑)。ありがとうございました。
- cyototu
- ベストアンサー率28% (393/1368)
質問者さんは多分思索の世界に生きていらっしゃるのでしょうか。私は若い頃、三島由紀夫の 『行動学入門』を読んで、思索の論理とは別な次元の「行動の論理」と言うのが在ることを知りました。思索好きな方に向いた本だと思いますので、一読してみては如何ですか。 http://www.amazon.co.jp/行動学入門-文春文庫-三島-由紀夫/dp/4167124017 で手に入ります。
お礼
cyototuさま、回答ありがとうございます。 「多分思索の世界に生きていらっしゃる」というのは、自尊心をくすぐられますが、多分、実際には、「思索の世界に生きているつもりで、そうでなく、現実の世界で上手く生きられていない」、というところだと思います。 知識の有無は重要なことですね。それの有り無しで考えというものは(また、行動というものは)、随分と変わってくるように思われます。 是非、おすすめして頂いた、三島由紀夫さんの『行動学入門』、ネットで注文して読んでみます。 僕は「思索の論理」も「行動の論理」も(論理というものも)わからないので、それでそういったものに触れられたらいいなと思います。
世界最高峰といわれる大リーグにおいて、 イチロー選手は他球団の監督や選手、 スカウトマンからも高い評価を得ている。 10打席中3回ヒットを打てば一流である。 イチローでさえ打率4割は超えない。 しかし、イチローは10打席中6打席アウトでも超一流である。 では、イチローは10打席中3回ヒットが打てりゃ良いやと考えて毎打席立っているのであろうか? もちろん彼は超一流である。 10打席中10打席打てるとは思っていないはずだ。 しかし、打席に立ちながらアウトを願ってその場にいるわけではないであろう。 何が言いたいのか分からなかったらごめんなさい。
お礼
rerereno5さま、回答ありがとうございます。 バッターボックスに立つ選手のイメージは、行動する、ということのたとえとして、わかるような気がします。 どうも僕は精神的に未熟なようで、10か0かという考え方をよくしてしまうようです。もし、10打席全てにおいて、ヒットを打つことができたとしても、それは、その打席においてヒットを打とうとし、それが成功した、ということが、10回続いたということに過ぎない、ということなのかなと思いました。 1を積み上げていくことは、きっと大事なことですね。 でも、(たとえば)イチロー選手は、10打席中3回のヒットは打つことができるだろう、という気持ちを持っているとは思いますか? 「自信」という言葉に言い換えられると思うのですけれど。それとも、毎回1つのヒットも打てないかも知れない、という気持ちを抱きながら、全ての打席に挑み、かつ、(3回のヒットを達成した後で)4回目のヒットすら狙っているのだとしたら、イチロー選手は相当タフな人物のように思えるのですけれど。 ただ、そこまで考える必要はないのかも知れません。ともかく、ありがとうございました。繰り返しになりますが、目の前のこと、という考え方(?)を、僕は忘れてしまいがちだということを思い出しました。
お礼
kaitara1さま、回答ありがとうございます。 「頭の中と外の世界をわける」というアドバイス、とてもためになるものでした(と思います、と今の時点では)。僕はどうもいろいろなことをごっちゃにしていたのかな、と思いました。 また、「思考は空想に相当すると考えればその空想が正しいかどうかは外の世界と重なるかどうかを確認する必要がある」というのは、「思考」から「行動」、また「行動」から「思考」という流れを作れるような気がしました(内と外を行き来する……)。 「孤独」についても書いて下さって、本当にありがとうございました。 kaitara1さまに対することと限らないと思うのですが、僕は「ありがとうございました」というお礼を言うだけでは駄目だな、と思いました。「行動する」(ことによって、「確認する」)ことによって、今とは別の視点を持たなければ(それが、次の「思考」に繋がる? 「思考」というのがどんなものなのかわからないけれど)。それが本当にお礼をすることになるのだと思いました。