一般に"難読漢字"と呼ばれるものは、もはや漢字としての「音」「訓」「義」に頼っただけでは訓(よ)み解けない言葉や物の名が、当用漢字の中でさえ無数にありのみならず、よしんばどうにか読み方が明らかになってもそのよって来たる謂れや由来も朦朧の内にあり、意味が通じない、意味がわかっても合点が行かないものばかりの、いわば辞書・辞典の"迷子"なのかも知れません。
たとえば「満天星」は中国語由来で、石楠花科の落葉灌木「どうだんつつじ/どうだん」と読まれますが、しかし茜草科の灌木である「はくちょうげ」もまた、「野丁香」の他に「満天星」とも呼ばれています。
「つつじ」自体も中国語由来の「躑躅(てきちょく)」の方は今は中国語でも杜絹(花)とか映山紅となっていますが、万葉集では「管自・管仕・乍自・都追慈」などと当てていたようです。
オランダ語「wijnruit」が訛った「ヘンルウダ/ヘンルーダ」という香草は「芸香」と記され「芸」は藝(げい)とは別字で音では「うん」と発音される。紅夷(赤い眼の西洋人)の持ち込んだ「ルウダ(有田草)」だと貝原益軒は記しているが、当の中国ではどちらも「芸香」と呼ばれる。
このように中国語由来のものは数多あり、外国語地名・人名の漢語もしかりであり、ラテン語「Johannes」や英語「John」は「約翰」、「Johnson」は「約翰孫」、「Joseph」は「約瑟」となる。
物を曲げたり真直ぐにして形を整える意味の「矯(た)む」に由来いわれる「ためらう」なので、本来の他動詞での「心を鎮める、気を落ち着かす」という意味では「猶予(ためら)う」というニュアンスが感じられます。これが中世以降は自動詞の用法「心が決まらずグズグズする」意味になってくると「躊躇」の漢語がマッチしてくるし、さらには「歩行が停滞する、うろつく、さまよう」意味になると「踉(よろめ)く」の字を当てて「踉(ためら)う」ともなります。
漱石の「三四郎」では「逡巡(ためら)う」となっています。
唐の詩人杜甫の詩知られる「促織」そのまま「そくしょく」として「こおろぎ」や「はたおり(きりぎりす)」を指す語だが、日本では「こおろぎ」の異名としては「つづれさせ蟋蟀」としての「綴(つづ)れ刺(さ)せ」でもあり、これは冬を迎える準備に衣を「綴(つづ)り刺(さ)せ」と急かすように鳴いている意味だとされます。
外国語を日本語に置き換えようとした時などに、とかく難読にして難解な漢字が生み出されるように思えます。
ウォッチ→時辰標
ウインチ→転柄(まわしぎ)
ペーパーマネー→楮鈔(きんさつ)
ギャング→夥党(なかま)
フォールト→闕典(けってん)
ディスカウント→折准(ひきおとし)
トーナメント→比武(しあい)
デニム→雲斎織(うんさいおり)
メリンス→毛斯倫(モスリン)
お礼
>「読み」なのか「意味」なのかはっきりしないことがあります。 それは私も思っていました。 魚+更で、「ほねがのどにつっかえる」と読むと、 あるサイトで見ましたが手持ちの字典には それは意味として載っていました。 漢字は「読み」と「意味」の境界線がはっきりしておらず、 だから大漢和辭典には変な読み方があるそうですね。 持ってないけど・・・