- ベストアンサー
今時の学生に・・・
私は大学で生物学を学ぶ者です。 以前、大学の教員に「今の学生は実験で失敗すること、結果の見えない実験をすることを異常なまでに恐がるフシがある。先生の実験を手伝って綺麗な論文を書くより、汚くてもいいから自分で七転八倒して書いた論文のほうが価値があるというのに・・・。」と言われました。 このように、「今の学生に欠けているもの、直したほうがいいところ」というのを様々な職業、立場の方から聞かせてくれませんか? 今後の励みとしたいので、よろしくお願いします。
- みんなの回答 (3)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
- ベストアンサー
こんにちは,suiranです。 昔々そのまた昔に生物を学んだものです。子供は現在生物を学んで?いるようです。 あなたの疑問に答えることは,大変難しいですが,子供との会話の中で,今時の生物の院生について思うことを述べたいと思います。 「今の学生は実験で失敗すること、結果の見えない実験をすること…」 その通りと思います。 昔の研究は,自分の目で直接見ることの出来る実験分野が多くありました。当然,実験の意味も理解しやすいものでしたし,目で見る楽しさもありました。大学の教授の大半は,今申し上げましたような,目で見ることの出来る実験,結果が出なくとも楽しさのある実験を経験してきた年齢と思います。 しかし,現在の生物の実験は,本当に目に見えない物を対象とした実験が多いと思います。また,生物学の進歩が目覚ましく,本当に生物を理解していないと,自分が何をやっているのかさえわからない場合があるようです。 つまり,現在の学生の多くは,教授が経過してきた,実験の楽しさを知る過程を踏んでいないのです。そこに,実験に対する,教授との認識のギャップが生じているのだと思います。 若者の弁護はこれ位にしまして,本題に入りたいと思います。 現在の学生は,昔の学生とは生物のとらえ方が大きく違うのではないかと思います。現在の様にどんなにミクロな分野の研究をしていても,生物はあくまでもマクロに理解すべきものではないでしょうか。 子供の部屋には生物の本は数えるほどで,「The cell」その他何冊かあれば何とかなるような感じがします。教えてgooでも,そのような感じの回答が多いことに危惧を抱きます。分子生物をほんの少し理解したぐらいで,果たして生物の勉強をしているといえるのでしようか。おそらく教授にとっては,今の学生の知識は極めて浅いものと写っていることと思います。 また,「教えて!」でも感ずることですが,すぐに他人を頼ることも,理解できません。基本的な実験の操作方法やレポートの書き方や果ては自らの研究テーマに関わることまで,私には信じられないことです。自ら好きで生物を選んだのではないですか。それなら苦労してでも自分でやるべきだと思うのです。 年寄りのお小言はこれ位にします。勉学に励んでください。
その他の回答 (2)
- ochanomizuhakase
- ベストアンサー率60% (3/5)
今時の学生は… たしかにそういう傾向はあると感じます。しかし私も10年前どちらかといえばそんな学生でした。一世代前の人たちに比べ,私の世代以降生活の便利さはケタ違いだと思います。その代表が携帯電話とインターネット! 教えてGOO などその筆頭です。便利なものがあればそれを利用して安易に答えを求めたくなるのは誰しも同じだと思います。 こんな例えをしてみましょう。ある知らない町のある人を訪ねなくてはならないという状況があったとします。A君は何の電車に乗りどの駅で降り,どっちに歩いてと,要するに道筋を完璧に知らされて行ったので,予定時刻に余裕で間に合いました。しかしB君は住所しか聞いておらずまたこれが紛らわしい名前で町中をぐるぐる回ってやっとの思いで着いたのですが,大遅刻しました。目的は達成できたのはA君のほうなんですが,この町のことを依りよく覚えたのは,そう,もちろんB君の方です。この町の他の場所に行科無くてはならなくなったら,おそらく今度はB君が早く到着することでしょう。まあこういうのを急がばまわれ というのでしょうか? 実験についても,答えの解っていることなど改めて実験するまでもないし,予想通りの結果が出る実験もたいしたことはないですね。本当にやる価値のあるのは予想を大きく裏切る結果が出るような実験。まあこれをただの失敗とみるかそこから大発見をするかが分かれ道なんでしょうが。 しかし一番悪いのは時代の風潮だと思います。大きな研究室に入って,有名でお金のある教授の手足になるのが一番成果が上がってしまうのが今の研究者なんですね。その人もきっと教授になれるでしょう。しかしその人の弟子は彼から一体何を学ぶことができるでしょうか? ただの兵隊には実験のやり方の指導以上の若手の教育は出来ないと思います。本来の教育とは,どうやって歩くかを教え込むのではなく,どっちに向って歩けばいいのかをアドヴァイスし,そっちに向って背中を押すことだと思います。途中で捻挫したり転んだりもするでしょう。でも自力でコールまでたどり着いた者は,一見地味であってもそれはたくましい研究者になっていることでしょう。 「鷄口となるよりもむしろ牛後となるなかれ」という諺がありますが,現代の研究者は牛後の方が早く日の目を見ます。でもその結果次世代以降の学問が衰退しないことをほんとうに願います。
図書館で遊んでいる姿を最近見掛けません。 じゅくだいするのではなく.昼寝しながら.ボーっと本を眺めている姿が見掛けないのです。 抗議の内容なんて.本を読めばわかる。だから.何という本を読めば良いかを覚えている姿が.見かけないのです。 私のように蔵書*万冊.どこの棚になんという本があるかを覚えろとはいいません。 学部学生ならば.自分が専門とする本を日本語で見つけられる。 修士ならば.日本語と外国語1カ国後で見つけられる 博士ならば.日本語と外国語2カ国後でみつけられる ということを言う人は少なくなりました。 高校生以下の児童生徒を学生と呼ぶ人がいるので. 高校生以下の人は.本を読まなくても良いですから.図書館でゴロゴロ遊んでいる姿を望みたいです。 青少年の非行問題で.非行に走る青少年の家庭では原則として本が少ないのです。本が多い場合には非行に走りません。 だから.本を読まないでもいい(書籍以外の蔵書がありますから)ですから.図書館で遊んでいてほしいのです。