※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:他大の学生を指導したのだけれども・・・)
他大学の卒論指導で感じた問題とは?
このQ&Aのポイント
他大学の学生の卒論指導をすることになり、その大学では学生が相手にされず悔しい思いをしていた私は、同情し手伝うことにしました。
学生の論文は非常に優れたものであり、どこの大学でも高評価が得られると思います。
しかし、主査である他大学の教員Xは自分の勉強不足を棚に上げて論文を批判しており、納得できない気持ちでいっぱいです。治外法権のため直接訴えることはできませんが、このような劣悪な教員には天罰が下るべきだと感じています。
ぼやきを兼ねた質問です。先日、他大の学生の卒論を指導しました。私がやる必要はないのですが、その大学だと相手にされないと訴えるので「同情した=共感した」という動機が大きいでしょうか。私も自分が学生の頃、指導教員に相手にされないで悔しい思いをしたので、手伝ってやるかという気になりました。
論文は非常に良いものが完成しました。私がこれまで指導した中でも最高の出来と言ってよいもので、どこの大学に持っていっても8割以上の評点がつくと思います。昨今の東大の院生の論文も面倒見たけれど、それに比べてもよいものだと思います。だから修士論文と言っても通用するかもしれません。
ところが主査である他大の教員Xは、自分の勉強不足を棚に上げてその論文を批判しているそうです。仔細は書きませんが、専門的に見て愚劣な指摘です。 先刻、仲間内で話したけれども「そりゃ普通じゃないよ」という結論に落ち着きました。Xの物言いからすれば、評点は6割くらいをつけるつもりでしょう。9割がつく論文が8割に格下げされた程度ならわかりますが、卒業に必要な点数すれすれというのは納得し難いことです。
私が出て行って相手をボコボコにしたい気持ちはありますが、「治外法権」なのでそれはしません。とは言え内心では、「全く指導もしないくせに最後になってくだらないことを言い出すとは何事か」と、憤懣やるかたなし、という気持ちです。
学生は院に行くわけでもないし、これで終りなのです。大学生活が暗いものであっただけに、最後くらい花を持たせてやりたいと思って手伝ったのでした。私は指導教員と仲が悪かったけれど、最後は「感動したよ」と褒めてもらえたものです。人間の悪意っていうのはここまで行くものかと愕然としています。
で、質問です。こういう劣悪な教員が「天罰」を受けることはないのでしょうか? どうも気持ちが落ち着きません。まあ私が甘いことを言っているのかもしれませんが・・・。
お礼
こんにちは、Pさん。ありがとうございます。 >天罰はふつうないですね。言いたい放題やりたい放題の人物は長生きする傾向があり, おっしゃる通りでしょうね。この人物は立派な服を着て、好々爺に見え、世間ではジェントルマンで通っています。天罰があるとすれば、 ・まともな弟子が全くいない ・クズ論文しか発表していない というあたりです。しかし当人が気に病まなければ、これも「天罰」とは言えません。 打撃があるとすれば研究科がブッ潰れることで、実際、お隣の研究科がそうなったそうです。「ざまあみろ」としか言い様が無い話です。いっそ大学そのものがブッ潰れてくれたらいいのですが、それはないでしょうね。どことはいえないけれど、名前を出せば誰もが知っている大学です。Pさんも割と褒めていらしたかな。偏差値の割に質の高い教育だと。私だけがボロクソに言っていましたが、これはこうした関係で内実を知っていたからです。 >「相手にされない」でDさんが相手にしたということは,根本的な見解の相違があったようにも見えるのです。 そうですね。まあわかってはいたんですよ。しかし若干期待もしていました。私はたぶんマヌケなんでしょう。論文がよいものであれば、学者である以上、その矜持にかけて正当に評価するはずだと信じてたのですから。私自身も理不尽なことには遭ったけれど、そう思ってやり続けて、認められていったわけですので。「こいつが相手ではまともな結果にはならないだろう」とは、わかってはいるんですが、やはり若干の希望は持っていたわけです。 >ぼくなら,くだんの学生に,最初にこう言います。 私は、こんな感じです。「君の大学の教員は極めつけの馬鹿が揃っている。私はそんな馬鹿どもの世界に巻き込まれたくないと思っている。どれくらいバカな世界か。論文を書いても、それが正当に評価されるかどうか心もとない。自己満足に終わるかもしれない。君が少し賢くなって、主体がはっきりしてくるという程度かもしれない。それでもやってみようと思うなら、私が面倒見よう」。だから学生当人は、私が張っておいた予防線のおかげで?、割と元気なんですよ。しかし私がむかっ腹がたっているわけで。 ちなみに私の名前はどこにも出ていません。中身を読んでも、これはDだと特定することは難しいでしょう。論文は何かの 学説を支持しているわけでもなく、論文作法通りです。 形式的なものに、私の癖は出てはいます。絶対に三章構成で、テーゼ、アンチテーゼ、ジンテーゼを外しません。破格を出さずに作法通りにやるというのが、私の偏執的な癖です。しかし「これは間違いなくDだ」と特定させるほどのものではありません。 >>私は指導教員と仲が悪かったけれど、最後は「感動したよ」と褒めてもらえたものです。 これがラッキーすぎる経験だったんでしょうね。私はやはり甘ちゃんなんでしょう。どうも人を安易に信じるところがあります。
補足
>破格を出さずに、 こういう優等生的なやり方に対して怒る方もいると思うので書いておくと、これは私が苦労したからです。学生の頃に私自身が周囲から猛攻撃に遭って、誰がどう読んでも防御できるやり方で書こうと思ったのです。中身は前衛的でも、形式は後衛的という形をとります。 書いていて気付きましたが、私がショックを受けているものの中には、私のストラテジーが「劣悪な教員の胸先三寸」で水泡に帰したことかもしれません。「誰がどう読んでも防御できる」という前提でしたから。