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阪神大震災の体験談を教えてください。

神戸生まれ神戸育ちの20才、男性です。 当時12才、小学6年生の時に阪神大震災を体験しました。 阪神大震災がどんなものだったのかを理解出来、体験談を話せるのは、当時小学校高学年の僕らの世代が最後だと思います。 この記憶を記録に残す為、僕は被災者の体験談をもとに個人的ですが、映像を制作しています。 そこで、もし御協力いただけるのであれば、被災者の方(特に20歳前後の方)に震災の体験談を教えて頂きたいと考えています。 お手数をかけますが、もし失礼が無ければ、イニシャル(例;T・Y)とお歳と当時の住所(例;神戸市長田区)を記入して頂けると助かります。 御無礼なお願いとは承知しておりますが宜しくお願いします。 最後になりましたが、この質問に気を悪くされた方が多くいらっしゃると思います。心からお詫び申し上げます。

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  • pawatti
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回答No.5

再び#4です。こんばんは。 心配をしていただき、ありがとうございます。震災の事を思い出すのは悲しいけれども、それよりこの記憶が薄れていく事の方が怖いので、語らせていただいております。ですので、質問したことを後悔などなさらないでください。 地震当日…何度も余震があって落ち着きませんでしたね。暗い教室で寝ている間も2、3回揺れました。小学校の建物は丈夫そうでしたが、その度あちこちで悲鳴があがりました。私も揺れると隣にいた妹に覆いかぶさっていました。天井や物が落ちてくるような気がして… 次の日以降の事は記憶の中での順番がはっきりしないのですが…(いろいろありすぎたから?) まず、朝になると自分の家を見に行ったと思います。家々を焼いた炎がまだ近くで燻っていました(風向きの変化で私の家の周りは燃えませんでした)。 瓦礫を手で掘り返して、使えそうなものを探しました。着る物は近所の方がわけてくれていましたので、食べ物とか布団を探していたと思います。 できる範囲で取り出した後、私は被害状況を把握しようと一人で歩き回りました。開いている店はないか、どこが被害が少ないのか…知り合いの人たちは無事なのかが知りたくて…でも歩いていける範囲はみな似たり寄ったりのひどい状態でした。「これではきっと大阪もひどいのだろう、これから先どうなるのだろう」と不安になりました。 電話で(公衆電話に並びました。10円を持ってない人にあげている人がいたり、ここでも助け合いがありました)安全を確認できた友達もひとりだけだったので心配でした。後日、いろいろな人たちが避難所を訪ねてきてくれ、再会を喜びました。 しかし、やはり亡くなった知人もたくさんいました…それは避難所に早い時期から届けられていた新聞で知る事が多かったのですが…。ある幼馴染は一家全員が焼かれて亡くなり、顔見知りだったおじさんは震災後の過労で亡くなりました。近所での被害の実態が明らかになるにつれて、多くの方の死を知り、自分達が生きている事を不思議に感じました。 日を追うごとに、救助物資が避難所や役所に届くようになり、始めに心配されたほどの食糧不足、物不足はありませんでした。全体の被害状況が把握されていなかったためか、物資の量に偏りがあったのは#3の方の挙げられた通りですが。 食料、物資、ボランティア…全国からの有形、無形の支援があったからこそ私たちは立ち直る気持をなくさずに済んだのだと思います。 あの時の感謝の気持を忘れずに生きて生きたいと思います。そしてどこかで困っている方がいれば助けられるような…そんな人間になりたいと思います。 長くなりそうだったので、無理やりまとめました。地震について語りだすと止まるところを知りませんので… 映像作りは大変だと思いますが、がんばってくださいね。

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質問者

お礼

二度もありがとうございます! 催促して申し訳ないです。 本当にありがとうございました!

その他の回答 (4)

  • pawatti
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回答No.4

こんばんは。震災の被害を忘れないで後生に伝える…生き残った私達がやるべき事ですよね。 私は震災当時21歳、神戸市灘区の実家で被災しました。 1月17日午前5時45分…たまたまトイレに起きた私は布団に戻って、うとうとしていたところ突然体が突き上げられて宙に浮き、激しい揺れの中で次々と体の上に物体が降ってくるのを感じました。そして揺れがおさまった時には身動きが取れなくなっていました。真っ暗の中、近くでは父のうめき声、遠くからは家族の名を呼ぶ近所の人々の声が聞こえていました。 「火事だ!」という声で近所で火事が発生したらしいとわかり、私を必死で探してくれている家族に「大丈夫?こっちは平気だから!」と答え、もし火が来たら自分を置いて逃げてもらおうと考えていました。幸い30分弱で私は外に出られましたが、粉々になった我が家の瓦の上を歩いていると「これは夢では?」と思えてきました… しかし明け始めた空に飛ぶ火の粉、騒然とした辺りの様子を見るうちに現実を思い知らされました。自分が怖い思いをしたので、他の人たちも早く助けないとと、あちこちの家の人がいそうな所をまわって壁を破ったり、家具を運び出したり、その時は夢中で走り回りました。運び出されたご老人がまもなく動かなくなったので声をかけ続け、通りかかった車に頼み込んで乗せてもらい病院に運びましたが、すでに建物はいっぱいで外にまで患者が寝かされていました。医者を呼んでその人を診てもらったら一目見るなり首を振って慌てた様子で去っていかれました。 失意のうちに家(があった辺り)へ戻ると「ガス漏れが発生した、ここは危ない」との情報が入り、火事も間近まで迫っていたので近くの小学校へ避難しました。始めのうち小学校ではテレビが見られた(その時だけ?以後電気が使えなくなりました)ので避難してきた人々みんなでテレビに映る惨状を見つめていました。 その日は教室にすし詰めで寝ました。廊下や階段にも人が大勢いました。夜になると一台の給水車とパンの配給がありましたので、水を少しもらい、みんなで食パンを1枚ずつ食べました。その日は朝から何も食べていなかったのですが空腹など感じてはいませんでした…窓の外では真っ暗な中、家々を焼く炎だけが赤々とあちこちに見えました。 一日目はこんなところです。もし、その後の事をとのお求めがありましたら、また記入させていただきます。 私は震災の記憶をかたちに残せそうにないので、どうかがんばってください。

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質問者

お礼

本当にありがとうございます! お話を聞いて今、胸が痛い思いでいっぱいです。 こんなつらい経験を思い出させてしまい、正直こんな質問をしてよかったのだろうか?と自分に問いています。御負担を感じるようでしたら、本当に無理はしないでくださいね。 でも、正直なところ、こんなに事細かなところまで教えて頂いて、本当に感謝してます。もし、そちらがよろしければ、その後の事も教えて頂きたいと思います。少しでもしんどいなと思われたなら、結構ですし、時間もいつでも構いません。 本当にご協力ありがとうございます!

回答No.3

#1です。授業が終わったので続きを それから、学校へ行くと避難者で溢れかえっていました。中には知っている顔もちらほらと。 学校の方も水は出ないようで、結局何もすることがなくそのまま帰ってきました。 しばらくの間は水を求めて走りまわってました。 マンションの水道管を調べたところかろうじて水道管が生きていることがわかり、それを破壊して水を得るに至りました。 水が出たと言う情報が入ったら直ぐに現場へかけつけたりしました。 水が当たり前のようにあった頃、食料が十分にあった頃はさほど有り難さを感じませんでしたが物がなくなるということがどういうことなのか分かった気がします。 相変わらず水、ガスが止まったままでしたが救援物資が届くにつれ食料には困らなくなりました。 ですが、救援物資も地域差が生じ、まったく回ってこなかったり文房具類ばかりが届くなんて時期もありました。 隣の町会に少し分けて欲しいと相談したらしいですがまったく相手にしてもらえなかったようです。 人間の醜い部分がはっきりと現れていると思います。 一番困ったのは野次馬ですか。わざわざ他府県から訪れたり。中には火事場泥棒みたいな連中もいたようで。 はっきり言って迷惑でした。口では頑張ってくださいと簡単に言いますが果たして本当のところはどうなんでしょう。 地元に帰れば「神戸はあんなことになってた」なんて自慢気に話すのでしょうね。 本当の気持ちが分かるのは同じく被災した者だけでしょう。現状の厳しさや辛さなんて外部の者には理解してもらえないと思った瞬間でした。 ワイドショーも「東海地震」なんて予想をしていましたしね。非常識も甚だしいです。 たくさんの人が亡くなられて8年が経ちました。 今こうして生きていることをうれしく思います。 徐々に新聞からも記事がなくなり、やがては1・17にしか話題にならなくなりました。 いずれ人の脳裏から消えてしまうのかと思うと少し悲しいですね。 もっとつらい体験をされている方もいると思います。あまっちょろい経験かもしれませんが何かのお役に立てれれば幸いです。

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質問者

お礼

そうなんですよね。 僕の街は被害が少なかったものですから、近所の子とは「凄かったよな~」と簡単に話せますけど、被害が凄かった地区の友達に改まって「地震どうやった?」なんて絶対に聞けません。 被害が少なかったので偉そうな事は言えません、でも、つらい記憶ですが、忘れてはいけない記憶だとも思うんですね。本当、教訓にもして欲しい。 20歳を迎え成人になったのを機に、この映像制作を思い付きました。被害が凄かった友達の体験談も色々聞かせてもらい、そして、みなさんの体験談と共に記録として大事に残したいと考えています。 2度も本当にありがとうございます!

  • soba
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回答No.2

神戸市垂水区在住(当時) 近所に水道管が3本通っていたらしく、外に出たら膝下まで洪水でした。 しかし、水道が使用不能になる事は一度もありませんでした。 揺れた直後にありったけのペットボトルに水道の水を溜めました。始めは普通の水でしたが、3リットル程したら土の混じった物になりました。 電気は午前10時半に復旧。 その日の夜、兄が車で三宮で給油しようとして 「予備のガソリンを水を入れていたペットボトルに入れてくれ」と頼んだ所、 「水が入っているならその水を分けてくれたら、ガソリン代はいらない」 と言われて交換したエピソードがあります。

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質問者

お礼

本当にありがとうございます! そう!あの時は本当に助け合いの連続でしたよね。僕の住んでいた街は被害は少なかったのですが、大変な揺れの直後にすぐ近所のおばちゃんが、僕の家に来て「どうしよう!?」と泣きながら来たのを憶えています。ほんとパニックで、とりあえず両親が近所の家、一軒一軒を見回って安否を確認していました。 貴重なエピソード本当にありがとうございます!

回答No.1

名前T・M 西宮市南部 22歳 まず、記憶に残っているのは寝ている最中に背中をドンと突き上げられたような感覚があったということ。 目が覚めると同時にタンスの上に置いてあった衣装ケースやら、おもちゃが一気に足元目掛けて落ちてきました。 それと同時に台所の方で食器やフライパンが飛散する音がしばらく続いていました。私の部屋の方からは本棚やタンスの倒れる音が響いておりました。 幸い自分の部屋で寝ていなかったので大きな怪我もありませんでした。 大変だったのはそれからですね。 水が出ない、電気がつかない・・・。わずか数分後には電気は復旧しましたがあの時は何時間にも感じられました。 それから、同じマンションに住む人の安否の確認。全員怪我もなくほっとしました。 明るくなって初めて視界がはっきりしてきたころ家の周りでは大変な事体になっていました。あるべきはずの建物、お寺がないこと。隆起したアスファルトによって宙に浮いた車など。 このとき、まだ神戸の方が大変なことになっているとは想像できませんでした。 朝8時ごろでしょうか、水を求めてコンビニへ向かいました。ですが既に売り切れてましたね。 自販機も水やお茶の類はすべて売り切れ。ひた走ってやっと貴重な水を手に入れることが出来ました。 その間にも倒壊した家屋を見て改めて大変なことになったと実感しました。 そろそろ授業が始まりますので一端ここで打ち切ります。授業が終わり次第また続きを書き込みします。

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質問者

お礼

本当にありがとうございます!! 西宮の被害も凄かったと思います(今の西宮北口辺りを見ると空き地や再開発の多さに悲しみと復興への期待とで複雑な気持ちになります。)が、電気の復旧がそんなに早かったのは意外で驚きました。 僕は神戸市長田、須磨、北区のちょうど境目辺りの街に住んでいたので、被害は本当に少なかったのですが、標高が少しあるので、綺麗な神戸の街が一望出来るんですけど、そこから地震直後に見た神戸の景色には悲し過ぎて涙が出ました。 大火災があった長田からもくもくと暗黒の煙りが立ちこめ、神戸の街全体を覆い、炎の赤い光が、煙りのあちらこちらで反射して、赤い雷雲の中に自分の大好きな街が飲み込まれていくようで、小学生ながらすごい無力感に浸ったのを今でも鮮明に憶えています。 貴重な体験を本当にありがとうございます!

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