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阪神・淡路大震災などの大きな地震を体験した方

こんにちは、わたしは今、地震のことについて調べているのですが、 わたしは、静岡県に住んでおり、小さな地震しか体験したことがありません。 阪神・淡路大震災や新潟県中越地震、岩手・宮城内陸地震 などの5弱以上の大きな地震を体験された方、 その時の様子を話すのはおつらいかもしれませんが、よろしければお話を聞かせてもらってもよろしいでしょうか? お聞きしたいことはこちらです。 >体験した時自分はどこにいたか、何をしていたか。 >その後の避難所生活はどうだったか。 よろしくおねがいします。

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回答No.2

阪神・淡路大震災 女性 当時30代 一戸建て2階で就寝中 半壊 朝方突然の揺れで起きました。 隣の部屋に子供たちが寝ていたのでそちらに向かおうとしましたが 電器は点かず、激しい揺れで立ち上がる事もままならない状態でした。 なんとか柱につかまり子供たちに声を掛け こちらの部屋に来るように言いましたが、真っ暗で物が散乱していて(たぶん、ガラス片などもあり)「行けない」とのこと。 その後、主人が階下に降り、靴を持って来てくれ、新聞紙で簡易たいまつを作り、灯りにして、子供に靴をはかせて外に出ました。 ちょうど前日こどもにはスキーウエアを買っていて、嬉しがって枕元に置いていたので、それをきせましたが、私はパジャマのままでした。(着替えようにもタンスの所に行けなかったので…) すぐに、ご近所とも相談の上、近くの小学校に行きました。 誰が開けてくれていいたのか、門は開いていました。 怪我人などが戸板に乗せられ、続々と集まって来ましたが、手当ての手段は保健室ぐらいしかなく、また、遠くで火の手も見えるのですが情報が全く入らず、噂がとびかう状態でした。 小学校のトイレは最初のうちはタンクに水があり、使用できましたが、その後タンクの水も尽き、昼前には糞尿があふれる状態でした。 各、教室には次々人が入り、新たに入室しようとすると、ヘンな先住意識なのでしょうか「もう、無理! 違う教室に行って!」と言われました。 救援物資が届いたのは夕方でそれもゴミ袋に5袋だけでした。 皆、殺気だち、殺到しようとしましたが、分別ある男性が「避難民はこれだけいて、たった5袋じゃ、皆には行きわたらないでしょう?我々、大人たちは我慢できるし、明日にはもっと物資も届くだろうから、 ここは、老人や子供にわけませんか?」と提案され、殺気だってた人々も不承不承納得して、夕が過ぎました。 私たち家族は家にあったクッキーなどで、おなかをごまかし夜は殺気だった学校ではなく車の中で夜を過ごしました。

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質問者

お礼

ありがとうございます。 今、とりはだがたちそして言葉を失っています。 とても参考になりました。

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  • yandenman
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回答No.1

阪神・淡路大震災 男性、当時30歳台。 自宅ベッドの中で就寝中。震度7直撃で目が覚めたが起き上がれず。 携帯画面が青白く浮かび上がったのですぐに手元へ取り寄せて、東京の兄弟へ連絡し、家族の無事だけを伝えた。 自宅は半壊で済んだが、前後の家が倒壊。近くのマンションも2階から座屈し出火。 停電、断水、そして都市ガス停止、ガスは復旧まで3ヶ月を要した。 2週間ほど会社の施設へ避難。ホテル並の設備だったので不自由は無かったが、通勤に時間がかかり過ぎる為、自宅へ戻る。 1ヶ月ほどは、電気と給水に頼る生活だった。風呂のみ2時間かけて会社の施設へ通った。 教訓 携帯は今ほど普及していなかったが、最初だけしか使えなかった(停電と混雑) 靴を枕もとに。家中にガラス片が散らばるから、室内で怪我をすると後の避難生活が大変。 タンスは前後だけで無く横転もする。 食料と水。なんとかなるさ。異常なほど溜め込んでもムダ。早期脱出のほうが良い。

0046
質問者

お礼

ありがとうございます。