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阪神淡路大震災から15年
阪神淡路大震災から15年 平成7年1月17日午前5時46分・・・阪神淡路大震災の発生した時刻です。皆さんそれぞれの思いがあると思いますが、あなたはこの時のことをどう感じていますか。ぼくは、この年の生まれで、関西の者ですので、学校でも震災のことについては、かなりの力を入れています。下の動画を当時テレビで見たときは、前がうっすらぼやけてしまいました。いい思い出ではありませんが、皆さんの声が聞きたくて質問しました。
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当時は小学生でした。 私が住んでいた場所は震度4で被害も全くありませんでした。初めて経験する震度4でしたが、寝ぼけた頭で「よく揺れるなあ」くらいにしか思っていませんでした。 朝からテレビで、火の海、瓦礫の山と化した阪神地区の映像が映し出されていたのを思い出します。 しかしながら実はあまり「強烈な印象」を感じませんでした。 1993年の北海道南西沖地震、同じく1993年の釧路沖地震はよく覚えています。北海道南西沖地震では、奥尻島青苗地区は夜が明けたら全て津波に持ってかれたあとで、一面の漂着物の中で炎が燻る映像には恐怖を覚えました。 阪神淡路大震災はそれよりずっと大きな災害です。おそらくあまりにも大きな出来事で、小学生の私が事態を飲み込めるレベルを超えていたのだと思います。 数日たって、学校でも、習い事でも、町内会でも、義捐金とか物資を送ろうという話になります。知っている大人の人が現地にボランティアに行きました。さらに神戸から遠く離れているのに「がんばろう神戸」のTシャツを着てイベントが開かれます。 そしてだんだん「大変なことが起きたんだ」と納得していったのです。 現在は地震に関係する仕事をしています。阪神大震災の前後で日本社会がどう変わったかについても多少勉強しました。 阪神大震災は日本に大きな影響を与えました。大人になっていろいろなことを知って改めて「大変なことだった」と感じます。 今になって考えてみれば、高速道路が倒れている写真以上に、日本社会に与えた影響のほうが強烈です。
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- cxe28284
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私は東京に長く住んでいました。東京は震度3ぐらいの地震が、度々あって、地震の時の 避難訓練もやっていました。 関西に帰ってしばらくして、ずっと神戸に憧れていましたので、 神戸の新築マンションに住みました、地震の一年前です。 山の上をけづって建てたマンションで、 高台でした。朝5時46分どーんという大きな衝撃があり、飛び起きました。 東京で地震の訓練をしていたので、毛布をかぶり玄関のドアを開けに走ろうとしましたが、 又足元で大きな揺れが起こり、食器棚や本棚が倒れました。 関西は地震がないと思い込んでいたので、まだ何が起ったのか、どこが震源地なのか、何も分かりませんでした。 とにかく水の確保と思いバケツや、やかんやポットや鍋に水を入れ、 幸い電気は切れてなかったので、 すぐご飯を三日ぶんぐらい炊きました。それからすぐ、水がでなくなりました。 食料は、お正月前に買って冷凍していたものや、買い置きのものがあり、くいつなぎました。 ベランダから新長田の方を見ると、一筋の煙が出ていました。ああ火事が起きなければいいがと 思っていましたが、昼ごろには赤い炎や原爆雲のような煙が見えました。私達のところは、 電気ガス水道の復旧も早く、次第に分かってきた惨状に、 無事でいるのが申し訳なく辛い思いで、いっぱいでした。 その後マンションの人に、お年寄りが口に合わないものばかりで、困っていると聞いたので、 お弁当を作って、リュックをしょって何人かで避難所に届けていましたが、炊き出しなども始まったので 3月ぐらいでやめ、YWCAの訪問ボランティアをしました。 沢山の高齢者が避難所で寒さや、持病のため亡くなられたと聞いています。 神戸市の不手際や、備えの不備など、人災と云われる部分も多かったと思います。 新長田の火事はガス漏れして、そこへ電線が切れショートした火花が引火したと言われています。 今はすっかり変わりましたが、その変化が正しいのかどうかは疑問です。
お礼
ご回答どうもありがとうございました。 震災のために学んだことは、たくさんあります。これからもこの悲惨な出来事を生かして変化してほしいと思います。
- 馬鹿鳥 仁左右衛門馬鹿犬(@osuwariha)
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阪神淡路大震災の2日前に母が 自分の実家がある神戸市須磨区の本家に 数年ぶりにご機嫌伺いをかねて滞在していました。 阪神淡路大震災当日も母はまだ神戸に滞在していました。 地震のニュースをテレビで見たときは日本ではなく 外国の事件だろうと錯覚してしまいました。 神戸市長田区新長田周辺の映像が映された時には愕然としました。 叔父のマンションがテレビで映し出されたのです。 1階部分だけがだるま落としされたようにへしゃげてつぶれ 幸運にも2階部分より上は外見上はほぼ無傷でした。 叔父はそのマンションのオーナーで1階部分に 住んでいました。 見た瞬間に駄目だと思いました。 それと西代、鷹取、板宿など母の親戚が住んでいるところが 次々映し出されて、壊滅的打撃を被っている惨状を目にし 涙が止まらなくなりました。 小学校1年~中学校3年まで大阪と岡山に住んでいましたので 神戸は近いですから、母の兄弟つまり私の叔父や叔母の家に しょっちゅうあそびにいってました。 母の兄弟は母と叔母2人は子宝に恵まれましたが 残りの叔父と叔母は子宝に恵まれず、 母にとっては次男坊にあたる私を 養嗣子に迎え入れたいと本気で考えていた叔父叔母が 何人かいました。 その溺愛してくれて可愛がってくれていた叔父や叔母が 一瞬の大地震で財産だけでなく、行方まで分からなくなって しまいました。 とるものもとりあえず急いで勤務先に連絡し、 有給を1週間とり携帯電話を握りしめて 千葉の勝浦からバイクに乗って神戸まで飛ばしました。 大阪府の茨木市あたりで大渋滞でどうにもならず、 山陰地方づたいに一旦北上して豊岡から南下して 三木三田を通って須磨区に到着しました。 幸い母が滞在していた須磨区周辺は地震の被害も 新長田に比べれば軽微でした。 母も叔母も叔父も無傷でほっとしました。 ただ建物は悲惨で全部瓦が落ち、 土塀は完全に崩れていました。 しかし新長田の叔父夫婦は行方が分からぬままでした。 一方、父の弟の家族が東灘区御影に住んでいたので 父は御影の叔父家族の救援に香川県から向かいました。 叔父の家も完全に破壊されていましたが、 父が到着する前に叔父の家族は自力で脱出出来たようです。 母の実家を含め母の兄弟姉妹の家は新長田の叔父だけ除き 旧家であったため自前の井戸を持っていました。 普段はほとんど使うことはなかったのですが このときにはその井戸が威力を発揮して 生活用水や飲料水不足に悩まされることはありませんでした。 (飲料出来る代物ではないが煮沸して使用した) 1週間ほど滞在したが、電気の復旧はいった時にはすでに 復旧しており、ガスもプロパンだったので ライフラインが止まって苦しんだのは上水道だけだった。 下水道はなく浄化槽だったので。 旧家であり、百姓家であったことからライフラインが 断絶しても食べ物で困ることはなかった。 贈答品のやりとりで身上つぶすくらいの 風習がある地域だったので物資で困るものは何もなかった。 箱を未開封の食器類などもあったので室内に置いていた 調度品や食器は全壊しても物置においていた未開封の 頂き物の食器類が潤沢にあったので助かりました。 父とは結局合流することなく私は千葉へ帰りました。 新長田の叔父夫婦だけ亡くなったのは残念でした。 さすがに最近は母の実家に立ち寄ることはなくなり ましたが、神戸に遊びに行くことは度々あり そのたびに亡くなった叔父夫婦の事を思い出します。 地震からかなりの日数がたって叔父夫婦の破壊された マンションを撤去した際に遺体が見つかったそうです。
お礼
詳しくご説明いただきありがとうございました。 僕がまだ小さかった頃神戸に行ったときには、もうすっかりきれいになった町並みを覚えています。ルミナリエやハーバーランドなど印象的で物心つく前のことなのに鮮明に覚えています。 ご回答どうもありがとうございました。
補足
すみません。質問文の下の動画とはこちらのことです。 http://www.youtube.com/watch?v=n92v7uQvXmw http://www.youtube.com/watch?v=ooTKXOAuE1I&feature=related よろしければご覧ください。
お礼
詳しいご回答どうもありがとうございました。