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加藤楸邨の鮟鱇の骨まで凍ててぶちきらるについて
加藤楸邨の俳句の中で、「鮟鱇の骨まで凍ててぶちらる」というのがありますが、 最初は、どんな思いで、鮟鱇を見ていたか、教えてください。 (解釈では、魚のあわれさとありますが、あわれさは、あとからの考えで、そのあわれさを感じる前の思いを教えてください。) ほかの情報もあったら教えてください。
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「ぶちきらる」と受身になっている点に注目すべきです。 「鮟鱇の」の「の」は主格(主語を表す=鮟鱇「が」)です。切られるものが鮟鱇であることを示しています。 下手な例ですが、「鮟鱇の骨まで凍てしをぶち切りぬ」というような「鮟鱇を切った」という言い方ではありません。 極言すれば、調理をする側でなくて切られる鮟鱇の側に立った句です。 俳句では小説などと違って、作品の鑑賞には作品以外のものは必要ない、という立場は貫きにくいですから、他の回答者のお答えにあった、作者が病身であったことを加味して鑑賞するならば、理解の方向は定まってくると存じます。
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鮟鱇とくれば鮟鱇鍋。 いまは鮟鱇の骨まで凍てるかと思える酷寒ですが、 やがては、そのぶちきられた身が、 ぐつぐつ煮える鍋に放り込まれ、 湯気の立つ鍋を取り囲んで、 顔をほころばせながら、 温まった鮟鱇に舌鼓を打つのでしょう。 「骨」「凍てる」「ぶちきらる」という硬質の言葉で、 それとは正反対の場面を髣髴とさせるところに、 この句の妙味があるのではないでしょうか。
お礼
食べる時の考えもあるんですね。 この句は、食べる前や食べた後やいろいろな考えがあるんですね。 とは言っても、どんな俳句でも、いろいろな考えがあるんですけど。 今回はありがとうございました。
- jo-zen
- ベストアンサー率42% (848/1995)
この句から感じられるものとしては、魚に対する「あわれさ」という解釈はあまりあたってないのではないかと思います。凍った大きな魚(鮟鱇)を牛刀のような大きな刃物でぶった切っている情景は、凄愴ですあり、暴力的なものを感じます。 この句が発表されたのが昭和24年ということを考えれば、以下のURLにある『広島、長崎に原子爆弾が投下されて、戦争が終わる。その生々しさは、作者の心中にあったとしても、この句から戦争の悲惨さを読みとろうとするのでは決してない。「もの」が大いなる力をもって、私達の現前に出てきている、そういう状況のなかに私達は、俳句は、さらされているのだ、と感じてしまうのである。』という解釈が的をえているかと思います。 http://www.hat.hi-ho.ne.jp/hatabow/kikuti%20kyouko%20san.html また、当時楸邨が病床にあったことから、楸邨の心の叫びを感じ取れるような気もします。
お礼
詳しくわかりやすい説明ありがとうございます。 良いサイトも貼ってくれていたのでよりわかりやすかったです。
- suunan
- ベストアンサー率14% (224/1569)
魚の哀れさという解釈は間違いですよ。 そんなこと言ったら魚をさばくのはみんな同様に 哀れです。 極寒の中でこれから極上の料理を食うぜという 原始的な喜びを乱暴な語句で表現したものでしょう。
お礼
そんな、考え、背景があったなんて、気がつきませんでした。 よく考えれば、乱暴な語句を使うことによって、喜びがより強く表現されていました。 回答、どうもありがとうございました。
- dxdydzdw
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この鮟鱇は、「骨まで凍てて」いる、つまり冷凍状態にあるのでまな板の上で「ぶちきられ」ていると考えるべきです。通常の「吊し切り」ではありません。
お礼
「鮟鱇をさばく=吊るし切り」という考えしかなかったので、 このような考えはでなかったので、いい参考になりました。 ありがとうございました。
鮟鱇の吊るし切りの映像がありましたのでリンクします。 http://jp.youtube.com/watch?v=Z6Pwv3O2FNk&feature=related ぶち切ると言うような動作をしていたのは骨を切るところだけですね。 もうひとつ「凍てて」ですが。 まあ実際凍るほど寒かったということなのでしょうが。 あとは僕も考えてみます。
お礼
ありがとうございます。 しかし、映像は少しグロテスクなところがありましたが、 参考にさせてもらいます。
お礼
いろいろと、立場を考えても解釈の違いがでてくるんですね。 ありがとうございました。