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国語の音読
小学校2年の音読の宿題に谷川俊太郎の「いるか」という詩が課題としてでました。 親がこどもの音読を聞いて採点をするのですが、 その採点基準もわからないし、 どういうふうに音読させるべきか、というのもとても難しいと思います。 悲しい文章なら、その主人公の気持ちになって読めとか、 自然を表現している文章なら、その場所にいる感じで読めとか言えるのですが、 「いるかいないかいないかいるか」と言う時に、いるかを探している気持ちになれ というのは違うような気がします…。 また、 この詩がいわゆる言葉遊びだということは理解していますが、小学校低学年という時期に、言葉を愛でるのではなく、遊戯にしている歌を教えるのはどうかと頭をかしげてしまいます。 国語はまず、花鳥風月や、人間の感情を扱った作品を専らにすべきであって、 言葉遊びのような、言語に対する不信が表面化した記号論が一世を風靡した時代の思潮を受けた作品をこどもたちに紹介するというのは、どういう意図なのでしょうか。 親としては、教師がその作品に惚れこんでいるのならば、そういう教育もありだとは思うのですが、担当教師も、谷川俊太郎は有名な詩人であり、すばらしい作品だと言われているということしか、説明できませんでした。 「ずいずいずっころばしごまみそずい」と 「いるかいないかいないかいるか」は 語呂的にはとても似ているが、思想的には決定的に違うと思うのです。 こうした国語教育をしている背景を知っている方、もしくは合理的説明ができるかたはお教えいただきたく…。
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こんにちは。 私にはspontaさんのように難しいことは分かりませんが、一言書かせていただきます。 我が家にも2年生の息子がおり、昨日も宿題で「いるか」の音読が出ました。 それも5回、覚えてくる・・・という内容でした。 主人と「詩」って強制的に覚えることに意味があるのかね?と笑っていました。 本当に良い詩なら、自然な形で覚えてしまうものじゃないでしょうか? クラス30人の子供が強制的に取り立てて感動もしていない詩を覚えて学校で一人ずつ読み上げている姿を想像すると、「ちょっと違うんじゃないかな?」と疑問を抱きます。 ここで「いるか」の詩を知らない方のために書いておきたいと思います。 いるかいるか いるかいないか いないかいるか いないかいるか いないいないいるか いるいるいるか いつならいるか いっぱいいるか よるならいるか ねているいるか またきてみるか ゆめみているか とういうものです。 初めてこの詩を音読する時の息子はとても楽しそうでした。 「面白いで!聞いててな!」と上手く読めるか緊張している様子でした。 横から5年生の兄が入ってきて、「僕のときこんなんあったかなぁ~?」と興味深かそうに眺めていました。 一瞬子供の興味を引く事は間違いないのですが、確かに情緒的な感動ではありません。ですので聞く側にとって5回も繰り返されるうちに「いい加減にして欲しいな」とさえ思えてしまいます。 採点の方法、確かに悩んでいます。 「気持ちを込めて読んでいるか」とういう項目には「・・・?」ですよね。 ある意味2年生にとっては難しいのかもしれません。 言葉遊びを客観的に捉えることなど出来るはずもありません。 ただひたすら九九のように「詩」を唱え続ける我が子の姿を、同じ保護者の皆さんは一体どのように思われているのかが知りたいと感じていた矢先のこの質問でした。
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- atsusaki
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音読は文章の理解度を高めるためにも、特に低学年で有効とされていますよね。 何度も繰り返し読むことで言葉のもつ響きやリズムなどを体で覚えていく、その積み重ねで長文の黙読にも耐えられる読む力が養われていくのです。 その力をつける第一歩としては、音読を好きにさせることだと思います。そのためにもとにかく読ませていい所を誉めることですね。「大きな声でよめたね」「一度もつまらなかったね」「口をしっかりあけていたね」などなど。 「いるか」の詩については、「楽しく読もう」「リズムを感じながら読もう」が音読の目あてになるでしょう。内容云々を問うのは2年生には無理だと思います。それよりも、読むこと自体をお子さんが楽しめていれば「◎」ではないでしょうか。そのなかで自分なりにリズムを工夫して読んでいればさらに「○」という感じで。そういうのが「採点」だと私は思います。 どんどん音読を誉めてあげてください。
補足
回答ありがとうございました。 楽しく読もう、リズムを感じながら読もう。 とっても納得しました。 問題は、回答者のような説明を担任の教師ができなかったことのようです。 トレーニングのひとつと考えれば、悪い教材でもないのかな…。 とはいえ、遠大な目標としては、音読においても、 感じることばかりでなく、表現するところまで行って欲しいのだが。 まぁ、なかなか難しいのでしょうね。
再登場です。無知な者が何度もスミマセン。 質問者様のお礼の回答及びNo.2の方の回答を拝見し、「なるほど~」と感じました。 私は「言葉遊び」を、あくまで一人の人間が書いた「詩」として捉えようとしていたことに気づきました。 No2の方は「言葉遊び」を言葉遊びとしてそのまま捉えていらっしゃる。 そして質問者様はその詩が時代的背景の中でどのような位置付けにあったかまで遡ってお考えのようです。 3人いれば3様の捉え方があるのですね。非常に面白いと感じました。 さて、質問の題目であります「国語の音読」というタイトルはお考えの内容からすると、少し違っているように思います。 『音読』が問題ではなく、思想的な問題を提議していらっしゃると感じましたが、違いますでしょうか? カテゴリを言語に変更されるといかかですが。 小学2年生の国語の音読という点からすれば、No2の方がお書きのように 「言葉遊び」を「言葉に親しむ為のもの」 として捉えると意味があるかもしれません。 それを授業の中に組み入れる価値があるかどうかまでは、私には分かりません。
お礼
再度、ありがとうございます。 言語など視点での議論もあるのかもしれませんが、それでは話が広がるばかり…。 小学校2年生の娘を持つ父親という現実という限定された状況でなら、意見交換ができるのではと、思い質問をしました。 ここで一つ感じたのは、私は娘を持っているということで、男の子をお持ちの保護者とは、だいぶメンタル的に違うのだろうということです。 ☆ 娘の日常とは、クラスの女の子どうしの仲間はずれや、口喧嘩の不平。 それらの底に、言葉の能力の欠如があると思えてならないのです。 例えば、娘の親友が友達全員に「わたし、英語とピアノを習っているの」と大嘘をついて総すかんを食らいました。 人間、嘘をつくのは悪いことです。 でも、彼女が嘘をついたのは、他の子供がお稽古ごとに通っているのに、自分だけ親から通わせて貰えない辛い状況だったからです。 言葉の裏には、言葉を発した人の心があること。 そのことに思いをいたさないで、音読するというのは、 あまりに無機質で、即物的で…。 人間の気持ちと言葉のせめぎあい。それは、小学校からはじまっているのですし、このあたりにイジメの芽もある。 このあたりのことは、教科としては、道徳なのかもしれませんが、 国語でも…。 ☆ 脱線しましたが、音読をするのなら、音読をする意味をもっと子供達に納得させてやるべきなんだと思うのです。
小3の子どもを持つ父親です。専門家でもありませんし、合理的説明ができるわけでもありませんが(^^ゞ。 少々言葉が悪いかも知れませんが、「難しく考えすぎじゃないのかなぁ」という気がします。 小学校低学年「だからこそ」、「言葉遊び」を通して「言葉に『親しむ』こと」が重要なのではないか、と思いますね。 質問者さんが提起されている点(言葉を愛でること/花鳥風月・人間の感情を扱った作品を専らにすべきこと)などは理解できますが、これらの点について考えさせるのは、もう少し上の学年になってからでいいんじゃないでしょうか。 ちなみに、うちのボウズが通っている小学校でも音読の宿題は毎日出されています。やはり親が採点(3段階)することになっていますが、「ちゃんと(=つっかえずに)読めるかどうか」で判断してます。 #というか、これぐらいしか判断基準がありません(^^ゞ。適当でいいんですよ、適当で(爆)。
補足
国語では例が難しいので童謡でたとえ話にしますが、 チューリップの歌で、 チューリップが咲いた、きれいだなと思うこと。 山口さんちのつとむ君の歌で、 となりの男の子が泣いていることに思いを致すこと。 言葉が世の中の風景や他人の感情を伝えてくれる。 言葉でしか表現できないのだ。 そういうことを言いたかったのです。 言葉を大切にすることは、コミュニケーションを大切にすることでもあると思います。 私とて、専門外、門外漢のものですが、そういう人にとっても説得力のある教育がなされるべきだと考えます。 公立の小学校でなされている教科書の内容について、教員が納得していない。 また、納得していない保護者を説得することができない。 それでは、日本の教育を論じる前に、人として人に教えるという点で、無責任だと思います。 こどもは大人の言うことを無邪気に信じるものです。 公立の学校で教えるものというのは、もっと吟味すべきだとおもうのです。 ちゃんと読めればいい。 それはそうだと思います。 でも、読むだけでいいのでしょうか。 それではお経と一緒のような気がしてなりません。 ☆ 因みに、私に説得ができなかった教師は、自分が好きな歌だからと、 「夜空ノムコウニ」をクラスで歌わせたそうです。 いくら自分が好きな歌だからといって、 小学2年生に、 「あのころの未来に僕らは立っているのかな…」 と、過去を振り返り、人生なかなか難しいと歌う曲を歌わせるのはどうかと 思いました。 この私の感想なども、そんなに目くじらをたてなくたっていいじゃないか。 ってことになるんでしょうけど、 でも、どこか間違ってるとおもうんだけど。 なかなか難しい問題ですね。 おっしゃっている適当の語義についても難しい問題があるし…。 書きこみありがとうございました。
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お礼
早速の書きこみ、ありがとうございます。 わたしは理屈っぽいところがあり、?となってしまったのですが、当の2年生の男の子が楽しんで読んでいるということは、まんざら悪いことでもなさそう。 という感じですね。 でも、暗記するというのはすこしやりすぎのような感じがします。 暗記したあとの達成感はあるのだとは思いますが…。 学校というところは、物事を正しく伝えることを第一に考えるべきではないのかと思うのです。 自分の気持ちや状況をお友達に伝えることができない。そういう言語能力の低下が引いてはひきこもり若者を増産している気がしてなりません。 その意味で、学校の国語では、世の中の諸相や自分の気持ちを切実に言葉につむいだような作品を暗記させるべきではないでしょうか。 ☆ 私のほうの親の記入欄には気持ちを込めて読んでいるかというチェック項目はありませんが、そういう項目がある回答者の場合は、誠実に親の責任をまっとうしようとすると、もっと切実な問題ですよね。 はたして、作者はいるかのいるところに行って歌ったのか、わたしには、そうではなく、いるかという語感であそんでいる感じ。 勿論、谷川氏の作品で、「夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった」などという詩に感銘することはありましたので、谷川氏を全否定するわけではありません。 しいていえば、教科書という文脈の中で、いるかの詩が登場することに違和感をおぼえたまでです。 ☆ ところで、 九九のように詩を唱えることの是非については、わたしはありだと思っています。 私は43歳ですが、いまでも、小学校のときにおぼえた 「柿食えば、鐘が鳴るなり法隆寺」や 「古池やかわずとびこむ水の音」 などを思い出したり、口にだしているのですから、意味はあると思うのです。 教育とは、日本人が日本としての共通の文化と歴史を共有することだと思うので、とても重要と思えるのです。