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江戸城天守再建

1657年に焼失していらい、再建されなかったわけがわかりません。財政不足だとかいう説明もあるのですが、それだけで、天下の中心である江戸城の天守を断念したりするものでしょうか。再焼失の懸念もあったにせよ、城下の整備で対応できるのではないでしょうか。 ともかく、象徴としての天守を江戸から消滅させたわけがよくわかりません。

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回答No.4

財政の面もあるが、諸大名に天守建築を禁止しているので、幕府みずからがそれを破るわけにはいかなかったという面があります。  天守建築は寛永年間の江戸城、大坂城の建築を最後に新築されなくなりました。大名の城の作事、普請は幕府の許可制でした。大名が申請しても幕府が諸大名に天守新築を許可せず、また再建の場合は3層以下しか認めていません。  当時は家綱期の文治政治でしたから、その手前、幕府自らがそれを破ることはしなかったと考えるのが妥当です。  実は、江戸城天守は家康、秀忠、家光と3回建築されています。 最後の家光は寛永年間の建築ですが、その前から諸大名には天守新築を許可していません。3代将軍家光は独裁で父2代秀忠と不仲で、祖父家康を尊敬していました。そのため、秀忠政治を否定するように秀忠の建築した2代目天守をわざわざ解体し、さらに大きな天守を建築して幕府(というより自分の)威信を高めたわけです。当時は武断政治で家光期は幕府権力と財力はピークでしたから、金に糸目をつけず、豪華な天守を造ったわけです。また、諸大名に天守建築を禁止してても「俺がルールだ」というわけです。  それが、4代家綱期になって文治政治に転換した。法に基づく政治だったわけです。家綱は独裁ではなくまったくの飾り物将軍で、幕閣が合議制で運営していたわけです。諸大名に禁止していることを幕府が破ることはしなかったわけです。  また、武士は見栄を重視します。前述のように豪華な天守の後に質素な天守を建築することは、かえって幕府の威信にかかわることになります。だから予算を節約して再建ということも安易にできないわけです。   *天守の新築、再建禁止としっても法の抜け道はあったようで、「御三階櫓」「大櫓」と称し、3層以下であれば、天守ではなく通常の櫓と同じ扱いで許可されました。弘前城や松山城は当時は「御三階櫓」でした。水戸城「御三階櫓」は5階建てですが、3層です。つまり「層」とはひさしの数です。1層目が3階になっていて、ひさしは3層で見た目は3階だが、内部5階というわけです。  

garcon2000
質問者

お礼

4代になると、模範となるようなふるまいを強いられたという事情もあったのでしょうかね。大変よくわかりました。それからは、徳川だけは特別でなく、その範を守る立場の外にいるわけじゃないということなのでしょうか。3代までが本当の徳川の思いのままという感じだったのでしょうかね。また、観えのわるいものをもはや立てられないというのも理解できます。 大変勉強になりました。

その他の回答 (4)

  • liar_adan
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回答No.5

振袖火事の後再建されなかったのは、直接的には、 保科正之の反対によるものです。 「天守閣を建てるというのは織田信長以来の事ですが、 これは、攻防に役に立ったという例があまりなくて、 単に遠くを見るだけのものです。 この非常時に、そんなことに金を使わなくてもいいでしょう」 という説得で、建築がとりやめになりました。 その後、再建したいと思った老中や将軍は、おそらくいたのだと思いますが、 「実際問題として、必要か?」 ということを考えると、やはり踏み切れなかったのだと思います。 建てるとしたら中途半端なものを建てるわけにはいかないし、 豪華なのを作れば作ったで、大名や庶民たちにどう思われるか……。 また、名君の誉れの高い保科正之の言葉ですので、 後世に渡ってもある程度の影響力があったと思われます。 知名度は低いですがかなりの人物で、 大河ドラマの主役にしようという運動もあるそうです。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%9D%E7%A7%91%E6%AD%A3%E4%B9%8B

garcon2000
質問者

お礼

保科正之ですか。合理的観点からの幕臣意見ですね。大変よくわかりました。

  • Ramses2nd
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回答No.3

57年じゃ家康は死んでますね・・・恥ずかしい(笑

  • Ramses2nd
  • ベストアンサー率27% (33/120)
回答No.2

自分は歴史に明るくありませんが大阪城攻めで外国製の大砲を使った家康が的にしかなり得ない天守を積極的に再建するとは思えません。 実際に彼は敵対しうる勢力を積極的に弱体化させる事に力を注いでいて戦が起きないようにあらゆる手を使っています。 世界的に見ても火器の発明により以前のように防御拠点としての城としてではなく、執政・経済の中心としての城に重点がシフトしています。もちろん防御拠点としての城塞も残っていますが江戸城は幕府の中心地であるのですから後者を選んでいても不思議ではありません。

garcon2000
質問者

お礼

大阪城攻めでだいぶ意識が変わったのでしょうかね。大筒の発生時期があの時だったのか。ありがとうございます。

  • cobamax
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回答No.1

天守閣のある城は防衛をむねとする戦国時代の遺産です、 徳川の世になり「振袖火事」により消失したのは、徳川が安定 した家綱の時代です、安定した時代にあえて天守閣を含む 城砦を莫大な費用で建設する必要がなくなりました これは防衛上の観点から決定されたことです、 その代わり「大奥」が肥大化していき国の予算の3割を使うこと になりました、 結果美的観点から天主閣を作ったほうが良かったですね http://homepage2.nifty.com/edojou/tensyu7.html

garcon2000
質問者

お礼

天守閣を作っていた時代から過ぎてしまったということかもしれませんね。どうもありがとうございます。