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自身の考えを持つことと徒党を組むことの内的な差異

今まで質問して回答を読んだり、人の質問に寄せられる回答を読んだりしてきまして、ジャンルを問わず、大体受けた印象が印象があって、 ○押しぎせの世間で言われているようなことを声高に居丈高に答える ○必ずしも一般論ではない自身の思考、体験を、自分の言葉で平静にあるいは謙虚な姿勢で答える という印象を抱いています。 もちろん ○押しぎせの世間で言われているようなことを平静にあるいは謙虚な姿勢で答える ○必ずしも一般論でない自信の思考、体験を、声高に居丈高に答える。 というのもないではありません。しかし印象に残らないほど少数な様です。 こういうところにどういう理由があるのだろうと考えてみたいのです。つまり、ちゃんと頭を働かせて自身の思想を持つということに関連して洗練された人間性があって、それが態度にも表れるということがあるのか、あるいは、とりあえず多数派の常識論を、実感もなく騒いで居丈高になるという自身のなさ思考のなさは、粗野な性質と連動しているのか? そういう憶測をしているのですが、こういうのは大体言えていることなのでしょうか?またなぜそのような傾向が生じるのでしょうか。

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  • Asgrim
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回答No.2

社会学的には同質性と異質性ですとか、社会化と言った所で語られるテーマかと思います。 答えが明確に決まっているものではない質問、特にメンタルなものや思想・人生に関する質問では、一般的な常識とは外れたものがありますが、私も含めて一般的な社会人と言う存在は、今自分が生活している社会で「常識」と言われているルールを受容して生活しています。 ゆえに自己と他人とは同じ「常識」と言うルールを遵守しているもの同士、同質性が担保されて、社会組織が形成されています。 「常識」から外れた質問は、集団としてのルールを侵害する異質な存在であり、この時点で質問者は同質性が担保された組織で、そのルールを崩壊させる可能性がある侵入者となります。 「声高に居丈高に答える」と言う行為は、ルールを遵守している構成員がそれを遵守しない者に行う排除活動です。 一方で、「必ずしも一般的ではない」と言う回答は、質問者の質問内容に関して、何らかの同質性を見出したものが殆どかと思います。この場合は質問者と回答者の間で同質性が構築されており、「声高に居丈高に」攻撃し、排除する対象ではなくなっていると思います。 性質的な問題とはあまり関係なく、あくまでも社会的・思想的な立ち位置の違いにより発生する行動です。同じようなことを最大にスケールアップしたものが戦争になります。

garcon2000
質問者

お礼

個人の心象≦集団的規制 という構図がものすごいようですね。 声高に異分子を攻撃する。なんとも品がない集団サルのようなまねです。少なくとも文明人にあるまじきことと考えています。

その他の回答 (2)

回答No.3

違いは理解の度合いではないかと思います。 あることを理解しているということは自分の言葉で表現が出来ることだ と思います。自分の言葉で伝えるのならなるべく解りやすく伝えたいと 思うのではないでしょうか。 自分が理解したつもりになっていることは、自分の言葉では伝えられな いと思います。そうなれば誰かの使っている言葉をただ引用するような ことになってしまうでしょう。自分の理解していないことを表現するこ とは丁寧には出来ないものだと思います。

garcon2000
質問者

お礼

自分の言葉を声高に叫ぶということがないというのは、結局威勢がいいというのは集団的になっているという背景があってのことのようですね。あさましいことです。 信念があること=丁寧になること(心が素直) という構図があるようです。

noname#82286
noname#82286
回答No.1

 ある種反感にたいする適応と考えることができると思います。 質問の例でいきますと ○押しぎせの世間で言われているようなことを声高に居丈高に答える  これが一番多いように感じます。 この回答を出す人は質問者からの不意打ち攻撃に対して順応しやすいというメリットをもっていると思います。  つまりあなたの仰る優位性です。僕なりの言葉で変えますと有利性といったところだと思います。  上記の二つに該当する回答を出す人には特徴として、科学的な表現を多様する。世間的な常識論を出す。ということだろうと思います。科学的な表現の場合、質問者の疑問に覆すことが容易であること、さらに科学的根拠ということを述べれば質問者側が間違えていると追い込むことが容易になるということからクッションの役目を果たしていると考えられます。  そして、世間一般的な常識論を出すという人は世間一般的な回答を出せばそれに対する異論は世間一般ではないという領域に質問者(非一般的な考え)を埋め込めることができるために世間一般的な雰囲気に頼ってしまうのだろうと思います。  その裏には自分の意見や考えが雑である。そうあなたの仰る粗野な性質との連動に近いものですね。あと自分の考えに自信がない。などの理由で安易にクッションを使用してしまう。ということだと思います。  次に ○必ずしも一般論ではない自身の思考、体験を、自分の言葉で平静にあるいは謙虚な姿勢で答える   これに行きましょう この場合もある種反感にたいする適応とだと思います。 ただこの場合前者の場合と違い一般論や科学言語を並べ立てるという部類のものではありません。この場合本当に自分の思考や意思を表現したいのだと感じられます。しかしこの場合は科学的根拠や一般論に対しての反感を恐れ自分を謙虚な姿勢にすることで反感から避けたいという願望があるように思います。 前者にしろ後者にしろ科学論と世間一般論の方が正しいと思い込んでいるのだと思います。なので正々堂々と前者は語り謙虚に後者は語るということだと思います。

参考URL:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%81%BD%E8%96%AC
garcon2000
質問者

お礼

プラセボ効果のほうの引用も、的を得ていると思います。 結局人間のサガということに落ち着いてしまう問題な用ですんね。いずれにしても、人は集団が怖い。自分が孤立して相手が徒党を組んでいると怖い。その怖さゆえ、自分の説というものをもてないでいるか、あるいは勝手に引っ込めてしまうという傾向にあります。もっと奔放でいいんだ、こんなところは危険はないんだからといっても、潜在意識的に作られた規制は動かないのかもしれません。