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神宮皇學館

タイトル通り、神宮皇學館について教えて頂きたいのですが、 私の祖父が神宮皇學館の卒業生ですが、当時の役割は何だったのでしょうか? 他の官立大学とは違い内務省の管轄であり、また戦後に潰された経緯(卒業生も少ない?)からあまり、語られることがなく詳しいことがわかりません。 私の見解としては 内務省の官僚を育てる機関であったと認識しています。 戦後、GHQに潰された際に多数の方が京都大学、名古屋大学に編入されたと聞きます。また大学予科があり、大学そのものは帝大に順ずる物であったのではないかと思います。 GHQに潰されたわけですが、大学では偏った勉強ではなく政治的な思想も右から左まで満遍なく自由に学べたそうです。 少なくとも戦前の高等教育機関はどこでもリベラルといっていいのか解りませんが自由に学べる土壌があったはずです。 戦後の占領政策により神道が偏ったものであると宣伝されたことは納得いきませんし、それにより職を失った方もいるわけですから・・ とまあ関係ないことはおいて置いて、神宮皇學館に詳しい方お願いします。

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回答No.2

神宮皇學館な内務省直轄の4年制の専門学校でした。1学年50人くらいの小さな学校でしたが、官立の専門学校で入学試験に数学を課さなかったので、神職の子弟のみならず、国語、漢文、歴史の好きな学生が全国から集まりました。中等教員(今の高校にあたる)の免許が得られたので教職につく卒業生もおおく、東京、広島の高等師範卒業と同格に扱われていました。研究者やジャーナリストも結構おおく、中退ですが海音寺潮五郎のような作家もいます。昭和15年に文部省直轄の官立大学に昇格、学部と旧制高等学校の文科乙類相当する予科、高師クラスの専門部がありました。戦後、GHQの神道指令によって廃絶、在校生は京大や高師に編入され、卒業生の学籍は名古屋帝大に移されました。精華寮という自治寮は全寮生で、仰るようにリベラルな学風があり、西洋史などは原書で教授されていました。館長(学長)には上田萬年、山田孝雄博士のような碩学がおられました。昭和37年に吉田茂元首相を総長に、池田勇人首相をはじめとする政財界の指導者たちによって新制大学として復活しました。建学の精神である賀陽宮邦憲王の令旨はいまも息づいており、精華寮寮歌「若草もゆる」も歌い継がれています。

gurappu
質問者

お礼

遅くなって申し訳ありません。 なるほど、高等師範学校と同じに扱われてきたんですね。私の祖父も神職につきながら、国語の教員もしてしましたので、そういうことだったのですね。詳しくご回答いただき、ありがとうございます。

回答No.1

詳しいことは大学に質問すれば教えてもらえるかも。 http://www.kogakkan-u.ac.jp/ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%87%E5%AD%B8%E9%A4%A8%E5%A4%A7%E5%AD%A6