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竹田の子守を訳したいです
《竹田の子守唄》を欧州の言葉に訳したいのですが、どうも京都の古い言葉で 書かれているらしくて、全体的な意味がボンヤリとしか分かりません。宜しく、 お願い致します。 Bebson Y. HOCHFELD 守もいやがる 盆から先にゃ Mori mo iyagaru Bon kara saki-nya 子守も嫌がっている、お盆の先では 如何して、お盆の先なのか? 雪もちらつくし 子も泣くし Yuki mo chiratsuku-shi Ko mo naku-shi 子守の最中に、雪もちらつくし 預かった子供も泣くし 盆が来たとて 何うれしかろう Bon ga kita-tote Nani ureshi-karou お盆が来ても、如何して嬉しくなるのだろう? 此処も意味不明。 帷子(かたびら)はなし 帯はなし Katabira wa nashi Obi wa nashi 自分には、ちゃんとした服も無いし、服を飾る帯も無い OK? この子よう泣く 守りをばいじる Kono ko you naku Mori wo ba ijiru この預かった子供はワアワア泣いて、子守の私を苛める OK? 守りも1日 やせるやら Mori mo ichi-nichi Yaseru-yara こんな子守を1日中やっていたら、痩せてしまうよ はよも行きたや この在所こえて Hayo-mo yuki-taya Kono zaisho koete 早く行きたいな、この部落を越えて 此処も意味不明。 向こうに見えるは 親の家 Mukou ni mieru wa Oya no uchi 向こうに見えているのは (誰の?)親の家 此処も意味不明。 向こうに見えるは 親の家 Mukou ni mieru wa Oya no uchi 向こうに見えているのは (誰の?)親の家 此処も意味不明。
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質問者が選んだベストアンサー
「この在所」を被差別部落と考えると,この唄は,「この部落をこえて早く帰りたい」という意味になってしまいます。だけど,これはどう考えてもおかしい。 この唄は,ご承知のとおり,幼くして被差別部落から他家に奉公に行き,子供を背負いながら朝早くから夜遅くまでじっと歯を食いしばって働いた少女たちの決して口にはできなかった心情と慟哭を秘めた守り子唄です。 ならば,4番の意味は,「被差別部落ではない『ここ』から父母のいる部落に帰りたい」という意味にならなければ筋が通らないでしょう。したがって,私も御質問者と同様に,「この在所」とは単に「奉公先の家がある場所」を指しているにすぎないものと思うのです。 #1さんのお示しいただいたサイトによれば,京都においても在所が必ず被差別部落を指すとは限らなかったそうですし,そのように考えるほうが自然です。 そうだとすると,4番の歌詞は,「ああ,早くここをこえて家に帰りたいなぁ。あ,あれがそうかしら。そう,あそこに見えるのがお家に違いないわ」という意味だと思いたい。私には,子供を背負って遠出をした少女が爪先立って親の家を遠望する姿が思い浮かびました。 一番の意味は,皆さんと同じです。ただ,元唄によれば,この子は足袋を履いていません。たぶん,この子たちはほとんどがそういう境遇だったのでしょう。ですから,お盆の後,だんだん寒くなると足が凍えて冷たくなる。動きも鈍くなるから背負った子供もよく泣く。子供を泣かすと叱られる。それが「いやだなー」という心情だと思います。 二番の意味は,お盆が来てもちっとも嬉しくないという心情。本当ならお盆に親戚が集まって墓参りや先祖の供養が終わると,きれいな着物を着ておいしいものを食べて親戚中の子どもたちが遊びまわって楽しかったものです。でもこの子たちは,奇麗な着物も持っていないし,一緒に遊ぶこともできない子守です。集まった子供たちや大人たちに悔しい思いもさせられたことでしょう。そんなお盆なんてちっとも嬉しくない。その悔しさを二行に込めていると思います。 三番の意味は,子供が泣くと自分が叱られる。頼むからそんなに泣かないでよという心情だと思います。この子たちは,子守だけではなく,子供を背負って掃除や風呂焚きなどの労働をしていたのです。子を泣かせて叱られればもっと労働がきつくなる。ね,頼むから泣かないでという切ない思いかなぁと・・ 良い唄です。できればその意も汲んでいただければ幸いです。
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- ahkrkr
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1.「はよも行きたや この在所こえて」 竹田の子守唄の元歌というサイトがありましたが、そこではこの部分は以下のような歌詞になっています。 「早よもいにたい あの在所こえて 向こうに見えるは 親のうち」 ここからあの在所(村)が見えて、親の家はさらにその向こうだ、つまりそれほど遠くだと言っているようです。これなら「在所」が被差別部落のことを言っているのかどうか考えることもなさそうです。 なお「早よもいにたい(去にたい)」は「早く帰りたい」という意味です。 http://moto33osaka.web.infoseek.co.jp/kashicard/takeda.htm 2. 「守もいやがる 盆から先にゃ 雪もちらつくし 子も泣くし」 私の以前からの疑問ですが、お盆(旧暦の7月15日)といえば夏の真っ盛りなのになぜ「盆から先に 雪がちらつく」のか不思議ですね。せめて「秋から先にゃ」なら分かるのですが。
お礼
元唄の場所を教えて頂きまして、大変参考になりました。
補足
> http://moto33osaka.web.infoseek.co.jp/kashicard/takeda.htm > 竹田の子守唄の元歌というサイトがありましたが、そこではこの部分 > は以下のような歌詞になっています。 >「早よもいにたい あの在所こえて 向こうに見えるは 親のうち」 元唄は現在の唄よりももっと悲惨な状況なのですね。大変参考になります。 > 「守もいやがる 盆から先にゃ 雪もちらつくし 子も泣くし」 > 私の以前からの疑問ですが、お盆(旧暦の7月15日)といえば夏の > 真っ盛りなのになぜ「盆から先に 雪がちらつく」のか不思議ですね。 > せめて「秋から先にゃ」なら分かるのですが 京都の方が居ればよいのですが、私の想像する所、盆地の京都では 既にしてお盆の後,だんだん寒くなる兆しが始まるのではないでし ょうか?「雪がちらつく」のはその終点に近いのですが、それが 「寒くなる兆し」と共に思い出されたのではないでしょうかね。
- kadowaki
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ANo.2ですが、回答のお礼、ありがとうございます。 >多くの方が"在所"とは被差別部落の事で、そこの貧しい娘さんが比較的裕福な村に子守 に出ていると、解説されております。ですから奉公先の家がある「部落(村)」を在所 とは、(彼等の考えでは)、言わないのではないですか? まず、「在所」とは、現在でも日本の各地方で、自分の出身地(村)を指す《一般名詞》としてごく普通に使われているとご理解下さい。 私も田舎で自己紹介するときには、「おら(私)、○○の在所の者やわい」と言います。 また、「部落」という呼称も、地方の田舎ではまだまだ「在所」と同じく、普通に使われておりますので、この呼称を「被差別部落」だけに引きつけて解するのは適切ではないと思います。 現に、田舎の道路脇には「部落内の山菜を採るべからず!」といった立て看板が各所に見られます。 >>「この在所」が「奉公先の家」を指しているのか、「家のある部落」を指しているのかについてですが、そもそも子守が両者の違いを意識していたとはとても考えられませんので、どちらの解釈もできます。 >私には子守娘が両者の違いを意識していなかった事の方がとても考えられません。 質問者さんは、もしかしたら、「家のある部落」の「家」を《子守の実家》の意だと誤解なさいませんでしたか。 「家のある部落」とは「奉公先の家のある部落」という意味です。
お礼
ヨーロッパでも、フランスの様にパリのフランス語で全国が支配されて いる国以外は、標準語でも地方に拠って言葉の意味が少しずつ変化する 所が非常に多いです。標準語に地方色が付くのですね。kadowaki様の御 返事で日本語の使い方に関し色々発見させて頂き有難う御座いました。
補足
この子守唄の"在所"は京都近郊で、その地域では被差別部落の意味です が、日本の他の地域では、私または誰かが居る場所の意味で使われてい るのでしょう。特に東北地方には被差別部落が無いそうですから、それ らの地方では特にニュートラルな意味の可能性があります。また西日本 で部落出身と言えば被差別部落の意味の様です。地域差がありますね。 > 質問者さんは、もしかしたら、「家のある部落」の「家」を《子守の > 実家》の意だと誤解なさいませんでしたか。「家のある部落」とは >「奉公先の家のある部落」という意味です。 これは完全に誤解しました。日本語はやはり難しいです。ヨーロッパ語 であれば、この家に定冠詞が付くが付かないかで意味がハッキリとする のですが、日本語の場合は単独で出てきた場合は、主人公に一番身近な 家を先ず考えて (her house)、そこから離れると奉公先の家の様に形容 句が付いて、the/her house ではないよとする使い方が多いのですが、 必ずそうなるとも限らない所が、大変難しいです。毎日、修行ですね。
- tiekoyo
- ベストアンサー率44% (48/108)
No1です 私なりの勝手な解釈ですが以下参考にしてください。 竹田という地名は日本各地にあります この歌を唄っていた「赤い鳥」の後藤悦治郎は、 この「竹田」は大分県の竹田だと思っていたそうです。 ここは荒城の月で有名な滝廉太郎の故郷で日本の子守唄の代表曲である 「五木の子守歌」の地にも近い場所だからです。 ところが良く調べていくうちに「京都の被差別部落の竹田」であることが判明したのです。 もともとは尾上和彦が京都の竹田地区で老婆が唄ってくれた唄を採譜したものだそうです。 そのころ尾上は奈良の被差別部落を描いた住井すゑの『橋のない川』を舞台上演するときの 音楽監督で、なんとか部落内に伝承されていた曲をモチーフにしたかった。 それが舞台に流れ、竹田深草支部の合唱団「はだしの子」がこれをレパートリーに入れた。 それをどこかで聞いた関西フォークの高石友也らが唄いはじめ、 それをステージかフォークジャンボリーで聞いた後藤が注目し、 アレンジを加え、「赤い鳥」ふうの「竹田の子守唄」をレコーディングした という経緯があるそうです 歌詞はほぼ原詩通りですが後藤悦治郎がアレンジをしたと言うところに私なりの解釈があります。 即ち後藤悦治郎はアレンジした時には京都の被差別部落の竹田を知らなかったと思われるからです。 後藤悦治郎がその時「在所」と言う言葉をどのように考えたかは分かりませんが。 おそらくそんなに深くは考えず原詩のまま採用したのではないでしょうか? したがってネットで書かれているような解説は 原曲 のことで 赤い鳥の竹田の子守唄には当てはまらないと私は勝手に思っています。
お礼
『早く行きたいな、この此処を越えて』、二重強調の文ですね。 "在所"には"こんな処"とユウ意味があったかも、知れないです。 被差別部落ですから。"こんな辛い処"と卑下して言っていたかも と想像しました。"在所"とユウ言葉には何か情感の籠もった強い 意味が感じられます。後藤悦治郎も、簡単には捨てられなっかた 言葉の様に思われます。色々、刺激を与えて頂いて、感謝です。
補足
私は最初のtiekoyo 様の解釈から、"在所"は元々"此処"の意味であった のが、後に他所の人達から"被差別部落"の意味に転用されたと考えまし た。すると総てのパズルが上手く解ける様に思えたのです。深くは考え ず原詩のまま採用しからこそ、女の子が働いている場所を、"在所"と言 った意味が残ったと考えます。後藤悦治郎が本当に原詩を"アレンジ"し てしまったら、女の子が働いている場所をもっと、分かりやすい言葉に 変えたと思います。『はよも行きたや この村さ/里さこえて』の様に。
- kadowaki
- ベストアンサー率41% (854/2034)
日本の各地に伝えられた子守歌には、悲しいまでに美しい歌詞を持ったものが多いと思います。 >子守も嫌がっている、お盆の先では 如何して、お盆の先なのか? お盆もすんで、秋から冬を迎えるようになると、徐々に寒冷になり、雨や雪の日も多くなりますから、それを考えると気が重くなるわけです。 >雪もちらつくし 子も泣くし 雪が降れば、外で遊べない子供は不満気味になり、機嫌も悪くなりますから、泣く子をなだめなければならない子守もつらいということです。 >盆が来たとて 何うれしかろう 本来ならば、綺麗な着物を着せてもらえるはずなのに、それを持たない自分は、お盆が来ると、かえって辛い思いをさせられるということです。 >この子よう泣く 守りをばいじる 「いじる」には「苛める」というより、「守にいたずらをしたり、悪さをして困らせる」という意味合いが籠められております。 >はよも行きたや この在所こえて >向こうに見えるは 親の家 「この在所」とは、子守が傭われている奉公先の家がある「部落(村)」のことで、子守は、本音では、早くこの部落から逃げ出して、遠くに見える自分の親の住む家に帰りたい(でも実際にはできるはずがない)と思っているわけです。 「この在所」が「奉公先の家」を指しているのか、「家のある部落」を指しているのかについてですが、そもそも子守が両者の違いを意識していたとはとても考えられませんので、どちらの解釈もできます。 ちょっと違う例になりますが、昔の日本では、自分の娘が結婚すると、娘の名前(○○子)を話題にするとき、その嫁ぎ先の地名(在所名)で呼ぶことが普通になされていました。 「竹田は元気にしてるかな?」とか、「竹田に子供ができた」とか、と。 昔は、日本全国どこでも、貧しい農家などに生まれた女子は、幼いうちから食費を節約する必要もあって、近村の素封家(地主等)に子守奉公に出されることが多かったのです。 その他に、遊女や芸者にするため、女衒(ブローカー)に売られていく少女もたくさんいたようです。
お礼
今日は!kadowaki 様の前半の解釈はとても役に立ちます。感謝です。 残念ながら、後半の解釈は、少なくともヨーロッパ人には、受け入れ られません。訳しようが無いからです。御免なさい。日本語で考えて 自然でも、西欧の言葉で考えると理解不能の時が、ママありますね。 何れにしろ、お手数を掛けて頂いて有難う御座います。
補足
>「この在所」とは、子守が傭われている奉公先の家がある「部落(村)」のことで、 > 子守は、本音では、早くこの部落から逃げ出して、遠くに見える自分の親の住む家 > に帰りたい(でも実際にはできるはずがない)と思っているわけです。 多くの方が"在所"とは被差別部落の事で、そこの貧しい娘さんが比較的裕福な村に子守 に出ていると、解説されております。ですから奉公先の家がある「部落(村)」を在所 とは、(彼等の考えでは)、言わないのではないですか? kadowaki 様は違った御意見で どこも、"在所"で良いとお考えですか? >「この在所」が「奉公先の家」を指しているのか、「家のある部落」を指しているの > かについてですが、そもそも子守が両者の違いを意識していたとはとても考えられま > せんので、どちらの解釈もできます。 私には子守娘が両者の違いを意識していなかった事の方がとても考えられません。自分 の環境とは違う違和感のある、辛い子守をしている村(被差別ではない部落)から、自分 の心が休まる被差別部落へ帰りたい歌なのではないですか? それでないと不自然です。 私の考えでは、被差別部落の人達は自分達の部落の事を、"此処"とユウ意味で"在所"と 言っていたのではないでしょうか?周囲の人達も被差別部落民の人達が"在所"と言って いるので、段々に"在所"を"被差別部落"の意味で使う様になったと思われます。この唄 では、本来の意味で、子守の女の子が"此処(在所)"から出て自分の家に帰りたいと歌っ ていると考えられます。ですから私は、先のtiekoyo 様の解釈を支持したいと思います。
- tiekoyo
- ベストアンサー率44% (48/108)
竹田の子守唄は放送禁止となっているようですが とてもいい歌で私の好きな歌の一つです 放送禁止の是非はいろいろな考えがあると思いますが 私なりの解釈なので違うところもあるかもしれませんが 参考まで まず時代背景を理解してください 昔(昭和の初めくらい)までの日本では 年季奉公と言って裕福な家などで住み込みで働く (こずかい程度で殆ど無給)風習がありました。 休日は年1~2回お盆とお正月しかありません。 この歌の場合はお正月しかなかったように思えます 想像ですがこの歌の主人公は若くして(10歳前後) 子守として奉公にあがったのではないでしょうか。 ここから本題に入ります主人公になったつもりで考えてください 守もいやがる 盆から先にゃ 雪もちらつくし 子も泣くし お盆の先はやだな~ これからは雪も降って寒くなるし、 この子も泣き止んでくれないし 盆が来たとて 何うれしかろう 帷子(かたびら)はなし 帯はなし >何うれしかろう→うれしくないの意 お盆が来ても嬉しくないな~ きれいな着物も帯びも私は持っていない この子よう泣く 守りをばいじる 守りも1日 やせるやら この預かった子供はワアワア泣いて、子守の私を苛める OK? こんな子守を1日中やっていたら、痩せてしまうよ 1日 →日々(毎日)と言う意味も含まれると思われる やせるやら→疲れ果てると言う意味も含まれると思われる はよも行きたや この在所こえて 向こうに見えるは 親の家 この奉公先を出て(正月休み又は年季明けで)早く帰りたいな~ 向こうに見える→ここでは、考える(夢に見る、思い出す)の意 優しい父母のいる実家ことばかり 向こうに見えるは 親の家 お父さん、お母さんは今頃何をしてるのかな~ 等考えていたと思われます 参考まで http://www.beats21.com/ar/A04021902.html http://www7a.biglobe.ne.jp/~panikku/page072.html
お礼
私にとっては最高の回答/解答でした。とても感謝です。 これで、ヨーロッパの幾つかの言葉に訳せると思います。 只、一つだけ追加させて頂きますと、tiekoyo 様の様に "この在所こえて" は "この奉公先を出て"と理解するのが、 ベストと思いますが、そちこちのネット解説では、偉そうに "このゲットー(部落)を出て"と解説しているのです。(~v*)? この点だけ、可能であれば再度、御解説下さい。 再度、有難う御座います。 Bebson Y. HOCHFELD
補足
如何(どう)考えても tiekoyo 様(さま)の様(よう)に... この奉公先を出て(正月休み又は年季明けで)早く帰りたいな~ 向こうに夢に見のるは、優しい父母のいる実家のことばかり.... と解釈するのが自然なのですね。ところが、ネットの解説者の様に "在所"は"部落(ゲットー)"の事であると、決め付けてしまうと... 自分の居るゲットー(部落)を出て、向こうに見えている 《子供達の》親の家に早く行きたいなあ~ と、とても妙な解釈になります。これは自然に"自分の今いる所"を "在所"と言っているのだと考えると納得が行きます。ネット解説者 の方々は何かイデオロギーが強すぎたのではないかと思っています。
お礼
hakkei様の御投稿で、芝居の脚本の様に更に詳しい状況が目に浮かんで 来て、翻訳するのに大変参考になります。どうも有難う御座いました。
補足
言葉の解釈は自分独りだけですと、どうしても自信が持てなくて不安 なモノですが、大勢の人に相談すると段々に正解が見えてきて、安心 する事が多いのです。hakkei様の御投稿で更に確信が持てる様になり まして、感謝しております。この唄は『この在所』がキーワードにな ると思いますが、この言葉の解釈に付いてインターネットの何処にも 満足する答えが無く、gooに相談して本当にグーグーッでした。