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格差における自己責任について

「格差社会は自己責任」というタイトルのある日のブログを拝見しました。 (googleで検索していただければ見ることが出来ると思います。) このブログによると 「本当に下流となったことが不当な人物たちばかりなのか。そうではないだろう。」 「現代は自由の時代だ。そして選択するという自由が当然のように与えられている。その中で下流となった人たちは本当に将来を考えたのだろうか。」 「それなりの収入というものを得るには一体どうしたらいいのだろうかと考えたのだろうか。彼らは考えないもしくは努力しないという選択したのだ。」 から 「未来に対して自らが選択していった結果が現状」 という結論に達していました。 ただしその最後には 「世代間の格差社会」についてや、経済的理由などで大学にいけなかった人、身体障害者などについて考えていない。いろいろ言い出したら自己責任なんてことをいえなくなってしまうからだ。また、自由に対する自己責任というものが正当そうで実はそうでもなさそうだということも考えてほしい。 と締めくくってあります。 一見する限り、私にはこの意見は「現実的」に正しいことのように感じられます。 しかし、「世間的」には「頑張っている人に失礼ではないですか?」という風に白い目で見られる意見の様に感じられます。 皆様は「現実的」に見た場合「格差社会」における「自己責任」の割合はどの程度だと思われますか? 出来るだけ就職氷河期世代では…私の会社では…という局地的な話ではなく 全体を見た場合で考えていただければ幸いです。

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回答No.23

自己責任論に一票です。 >しかし、「世間的」には「頑張っている人に失礼ではないですか?」 このような議論で必ず出てくるフレーズですね。私はこういう発言が大嫌いです。 単純に汗をかく事だけが頑張っている事ではないはずです。 頑張る場所・タイミング・方向性が正しく、なお汗をかいてこそ頑張っていると言えるのです。 みんなで家を建てようと頑張っているときに、大工が100m離れた場所で穴を掘っていたらいくら汗をかいてもそれは大間違いです。 既に家の基礎が完成しているのにも関わらず一生懸命セメントを作っても遅いんです。 「頑張ったのに報われない」という発言はそれらの事を完全に無視して、汗をかいているから報われるべきだという誤った主張だと思います。 もちろんそれでも不運にも会社が倒産してしまったり、大分県の教員採用試験のように不正によって不利益を被る事もあるでしょう。 しかし、正しく頑張っていれば、自分自身に様々なスキルや人間的魅力が身につきます。 そうすれば次の転職がうまくいったり、希望していた職種では働けなくても満足のいく人生を送れると考えています。 大分県の例でいえば、本当に実力のある人であれば、公立では不合格だったかもしれませんが、 私立学校や他県の学校で教員になったり、予備校の講師などになっているはずです。 このような理由から現在問題になっている下流の人たちは、はたして正しい頑張り方をしたのかといつも疑問に思います。 彼ら彼女らは人生の様々な面で妥協・怠慢を繰り返したがためにそうなったのだと私は思います。 割合のお話が出ていますが割合でいえば99.9%が自己責任ではないでしょうか? 残りの0.1%は不運にも不治の病にかかってしまったり、犯罪被害者となって残りの人生に大きな障害等が残ってしまった方ぐらいでしょうか。

Opolskie
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 お礼が遅くなって申し訳ありません。 >>「頑張ったのに報われない」という発言はそれらの事を完全に無視して、汗をかいているから報われるべきだという誤った主張だと思います。 このご意見には大きく共感できる部分があります。 >>このような理由から現在問題になっている下流の人たちは、はたして正しい頑張り方をしたのかといつも疑問に思います。 これについて疑問に思ったのがこの質問を立てた一因でもあります。 参考にさせていただきます。

その他の回答 (27)

  • staratras
  • ベストアンサー率41% (1499/3651)
回答No.7

格差社会における自己責任の割合など神様にしか分からないと思います。例えば「同じ採用試験を受けて落ちたのは自己責任」といえるのは「公平・公正な試験が行われる」という大前提があります。賄賂で試験の公平さがゆがめられた某県の教員採用試験のような場合は、合格するはずの好成績の人も落とされたわけですからとても自己責任とはいえないでしょう。 この問題が深刻なのは事件として発覚して初めて試験のインチキさが判明したという点です。事件にならなければ、賄賂のおかげで採用された試験の成績が低い人が「採用試験に落ちた人は自己責任」と今も言っていたかもしれないのです。こうしたインチキは某県の教員採用試験だけで、他の採用試験は全て公平・公正であると断言できる人はまずいないでしょうけれど、ではどのくらいの割合で公平・公正な試験とインチキな試験があるかと聞かれて自信を持って答えられる人もいないでしょう。就職の採用試験など一例に過ぎず、世のなかの「公平・公正な競争」といわれているもののほとんどに、このような不透明さが付きまとっています。こうしたことから私は「格差社会における自己責任の割合など神様にしか分からない」と考えますが、いかがでしょうか。

Opolskie
質問者

お礼

>>格差社会における自己責任の割合など神様にしか分からないと思います。 仰るとおりだと思います。 ・格差の下流となったのは自己責任である ・格差の下流となったのは自己責任ではない デジタル的にこの二つだけでどちらと思いますか? とお聞きしますと「何ともいえません」という回答が多くなると思いましたので それまでの人生においての選択が格差における位置づけにどの程度寄与していると思いますか?という意図で「割合」という言葉を使いました。 では、後半の部分なのですが確かに「公平・公正な競争」には不透明な部分が多いですよね。 しかし、「世の中は全て不公平・不公正な競争である」という論理にも不透明な部分が多いですよね。 ・米国に留学してMBAを取得する ・将来の就職を考えて文学部ではなく経済学部に進学する というような、しっかりリスクヘッジを考えた選択をし努力をした人。 ・ミュージシャンになるべくアルバイトをしながら音楽活動をする ・自分のやりたいことが見つかっていないので、派遣を渡り歩くという選択をした人 これについて私は後者の方が下流に落ち込む可能性が高いと感じますが staratras様はどちらも下流に落ち込む可能性が同じと言うことでしょうか?

noname#155097
noname#155097
回答No.6

>一見する限り、私にはこの意見は「現実的」に正しいことのように感じられます。 全然正しくありません。 一生懸命働いても食うや食わずの貧困の生活しかできない。 ちょっと病気したら、退職を余儀なくされ、社会生活から放逐される。 こんな社会では、極貧層や、労働意欲の低い層はすぐに犯罪に走ります。 全体として、まじめな人間が簡単に犯罪にまきこまれるような社会を望んでいるのか。 と考えれば、単なる主観と客観を取り違えた浅はかな感想だとしか思えません。 マラソンに例えるならば、脱落しそうなやつに、声をかけ、 叱咤激励しながら完走をめざさせる社会のほうが豊かなことは間違いないはず。

Opolskie
質問者

お礼

申し訳ありません。質問文に記載するのを忘れていました。 質問文に引用する文の手前に以下のような文章がありました。 「すると、いやいい暮らしとまでいかなくとも普通の暮らしがしたい、それすらままならないのが格差社会という下流の現状なのだ、といわれる。「ワーキングプアいくら働いても報われない時代が来る」という本の中には格差社会の厳しい仕打ちを受けた人物がたくさん書かれている。もちろん、こういう人たちを放っておくのはよくない。」 というのがありました。 なので、引用しましたブログを書かれた方は 叱咤激励しながら完走をめざさせる社会のほうが豊かなことは間違いないはず。 というご意見については賛成されるのではないかと思いますし 私自身も下流の方が犯罪を犯さないような社会を目指すべきだと思います。 しかし、今現在において「下流となる人」は「それまでの人生の選択の場面でそれ相応の選択をしてきた」 という点について「現実的」に正しいことと感じました。 派遣社員として働くという選択肢を選ぶことは 正社員として働くという選択肢に比べ非常にリスクが高いように感じる。 というものです。 その点をご理解いただければ幸いです。

  • sakura-333
  • ベストアンサー率10% (952/8906)
回答No.5

努力するしないは個人の自由でしょうし、それによる格差も仕方がないとは思うのですが、努力によってどうにもならない事(予期せぬ事態や運・不運)も入ってくるので、結果が全て自己責任になってしまうというのも・・ 中には汚い事に尽力して上にいる人だっていると思いますが、その人達も努力によって得た結果とされてしまうのでしょうか。

Opolskie
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 私はこのブログを書いた方ではないのでわからないのですが きっとこのブログを書いた方は「努力」ということだけに焦点を置いていないように感じます。 むしろ「何に」「どれだけ」努力するか。の2つを大きく掲げているように感じます。 ・経済学を一生懸命努力してMBAを取得した方 ・文学部で一生懸命、日本文学についての研究を行ってきた方 どちらも「努力してきた方」ですが 相対的に企業において評価されるのは前者の方だと思います。 そのように「何を努力すればいいのか」ということを考える部分の違いについて ブログの著者様が語っているように思えます。 ただ、運によるものが多いというご意見も立派なご意見です。 ということは格差の下流にある方は自分の選択によるものよりも 運でそうなったということですね。

Opolskie
質問者

補足

お礼欄で全て「運」によるものということですね。 と書きましたが 努力するしないは個人の自由でしょうし、それによる格差も仕方がないとは思うのですが、努力によってどうにもならない事(予期せぬ事態や運・不運)も入ってくるので、結果が全て自己責任になってしまうというのも・・ という前置きがありましたね。 ということは自己責任の割合は60%くらいということだと認識したいと思います。 もしそれは違う!ということであれば再度回答をいただければ幸いです。

  • oo12
  • ベストアンサー率44% (26/58)
回答No.4

格差社会という場合の格差は単に上位者と下位者との所得の差が大きいということを指しているのではなく、下位者の所得の異常な低さを指しているのだと思います。 自己責任といえるためには、仮に全ての人間が努力したならば、下位者になったときにでも異常な所得の低い状態に置かれないという制度が必要です。 現在の制度においては、全ての人間が努力したとしても異常な低所得の状態に置かれる人間が一定の割合で必ず出てくる以上、本人が現在の状況を選んだかどうかは制度的な話をするのであれば自己責任論とは無関係です。 確かに努力していれば現状とは違った収入を得られる人間もいるでしょうが、それを理由に自己責任というのは、ただのごまかしなように思えます。

Opolskie
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 申し訳ありません。質問文に記載するのを忘れていました。 質問文に引用する文の手前に以下のような文章がありました。 「すると、いやいい暮らしとまでいかなくとも普通の暮らしがしたい、それすらままならないのが格差社会という下流の現状なのだ、といわれる。「ワーキングプア いくら働いても報われない時代が来る」という本の中には格差社会の厳しい仕打ちを受けた人物がたくさん書かれている。もちろん、こういう人たちを放っておくのはよくない。」 というのがありました。 なので、引用しましたブログを書かれた方は 「下位者の所得の異常な低さ」について懸念しているように感じます。 しかし、 「本当に下流となったことが不当な人物たちばかりなのか。そうではないだろう。」 という論理の展開だと思います。 また 「全ての人間が努力したとしても異常な低所得の状態に置かれる人間が一定の割合で必ず出てくる」 というのは非常に正しいご意見だと思います。 しかし、現状は「全ての人が努力」しているわけではなく 「現代は自由の時代だ。そして選択するという自由が当然のように与えられている。その中で下流となった人たちは本当に将来を考えたのだろうか。それなりの収入というものを得るには一体どうしたらいいのだろうかと考えたのだろうか。彼らは考えないもしくは努力しないという選択したのだ。」 という意見にはある程度正しいといえる部分があると思うのですがいかがでしょうか?

  • akamanbo
  • ベストアンサー率17% (462/2680)
回答No.3

(1) 「自己責任」自体の中に「偶然」もけっこう含まれているので、難しい話ですね。 自己責任でない偶然と自己責任に含まれる偶然をどう見分けたらいいのか・・・ 結局は局所的な条件で大きく変わってしまうのではないですか。 (2) 自己責任の比率が算定できたとして、それが誰かの役に立つかと言えば経たないので、論ずること自体にあんまり意味がないような気がします。 無差別殺人を実行して罪を受けることも、自己責任の一つの形です。 また、自己責任だから底辺で生きてね、と言ったところで納得する人がはたしているのか・・・ いわゆる自己責任論は、床屋政談的な、無目的な評論に過ぎないのではないかとしばしば感じます。 もっとマシなアプローチがあるような気がするのです。

Opolskie
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 たしかに偶然は誰にでもあることだと思います。 しかし、その偶然にも対応できるようリスクヘッジを考えた選択をした人 リスクヘッジを考えずその場限りの選択をした人 格差の下流にあるのは後者の方々のようにも思われます。 私にとってはこの議題は論ずることに意味があることですので (加えて#1,#2様やブログを書いた方にとってもそうであると認識しています) もしよろしければ回答していただければ幸いです。

  • rikukoro2
  • ベストアンサー率21% (1316/6195)
回答No.2

極論かもしれませんが、身体障害者以外の場合は 全部、自己責任だと思います。  まず、前提とて >経済的理由などで大学にいけなかった人 >就職氷河期世代  は完全に関係ないと思います。 自分も含め、自分の友人で大学に言って無い人は多いです。その代わり、自分も含め彼らは自己資本がほとんどない状態から会社を興し、中には従業員300名ほどの会社を経営している方はいます  年収が10億超えている方はおります。 その人に言わせると『まずいい大学で、いいところに就職』という考え方でまず、己の人生の敗北者といいます。  最初に人に使われることを前提としているからです。 就職せずに、会社を興した豊田佐吉、松下幸之助、本田宗一郎、ビルゲイツは敗北者ですか? 人生の失敗者ですか?  違いますよね  2chで有名なB・N・Fサン 彼は対外的には無職ですが、株の運用で2008年5月時点の資金は203億円を個人一人で所有してます  彼も就職なんてしてませんよね  自分の知り合いで、下半身が動かない方で株のティトレードで年間数千万の利益を出している方もいます。 だから自分に言わせると「格差社会」における「自己責任」の割合は99%だと思います

Opolskie
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 「格差社会」における「自己責任」の割合は99%ということですね。 たしかに、例えどのような状況でも人生の成功者となりうることは可能ですね。 参考にさせていただきます。

  • souun1432
  • ベストアンサー率24% (43/179)
回答No.1

ブログを読みました。私は格差社会については 基本的にブログの作者同様、自己責任論を採っています。 現代は情報が氾濫する時代です。その氾濫する情報の中から どんな情報を得てどんな人生選択をするのかは個人の自己責任です。 また現代は自由の時代でもありますが、 自由の意味を履き違えている人が多いと思います。 自由があるということは、それだけ選択肢もあるということですが 選択したことについての結果は、自分の責任として返ってくるのです。 世の中を見渡すと、やはりよく考えて行動している人は それなりの結果を出していますし、逆もまた然りです。 格差を金銭や収入の格差と言うのなら、 なぜそれを多く得られる選択をしなかったのか。 楽な生き方、自分の趣味や性向に合う生き方を選んだ結果 格差がついたとしても、それは仕方ないことでしょう。 「頑張っている人に対して失礼」という言葉をよく聞きますが 私は、この言葉に違和感を感じずに入られません。 なぜならば、生きる上で頑張るのは当たり前だからです。 このような言葉が出てくること自体、甘えていると言えます。 このように主張する人々は、格差の上にいる人たちは 寝転んでいながら結果を出したとでも思っているのでしょうか? 彼らも結果を出した以上、人の見ていない所で とてつもない苦労をしているに違いありません。 もちろん才能が手伝っている部分もあるでしょうが それは生まれつきや生活環境の成せる業であり、やむを得ないことです。 私の意見としては、格差問題は自分のしてきたことに対して 責任が取れないから、他人との格差という結果のみを挙げて 社会に責任転嫁しているだけに思います。

Opolskie
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 自分にとって好都合な回答のみを求めていると言われるかもしれませんが それが本当に正しい論理かどうかは抜きとして "あくまで私にとって"souun1432様の回答はとても筋の通った回答だと思います。 >>私の意見としては、格差問題は自分のしてきたことに対して >>責任が取れないから、他人との格差という結果のみを挙げて >>社会に責任転嫁しているだけに思います。 という意見にも納得してしまいました。 注:あくまで今の時点で納得ですので、「そうじゃないだろう」と思われる方は その理由を論理的に提示していただけると幸いです。

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