どちらも程度の問題。
>私自身は、「自己責任」という意識は自らに課すためにあり、
>他人に突きつけるものではないと解釈しています。
そうですか?
ウソをついた時にその責任を追及する行為はいけませんか?
殺人を犯した時にその責任を追及する行為はいけませんか?
あくまで自分が犯罪を犯した時にしか「自己責任」を課してはいけませんか?
私は、現代社会の中で生きる人間である以上、自己責任は自らに課すものだけではなく、他者(社会)から突きつけられているものだと思います。
別に法律に限りません。家族や地域のコミュニティなどでもそこでのルールが存在し、自己責任が要求されると思います
・一人暮らししている大学生がいきなり実家に帰ってきてもご飯が用意されていない。そんな時に実家暮らしの家族が「連絡も無しに突然帰ってこられてもご飯の準備なんかしてないよ。連絡しなかったあなたが悪い」と、その大学生の自己責任であると言う事はいけませんか?
そこに自己責任を課してはいけませんか?
>怠惰な人が苦境に陥るのは当然で、救済する意味がないという
>「お気持ち」は理解しますが、なぜそうなってしまった(なぜ自堕落的・
>自暴自棄になったのか)を理解しようとする努力が必要かと思います。
>社会問題と結びつけて想像力を働かせることが大事かと思いますが、
>「自己責任だ」と突き放しては何も進みません。
どこまで努力が必要でしょうか?
ギャンブル中毒になっている人がいて、その人がなぜそうなったのかをその人の過去やら親やらがどういう教育をしてきたかを理解してあげる"努力"が必要でしょうか。最近だと依存症には脳のメカニズムに関係があるという話もありますので、その人のギャンブル中毒が脳のどのようなメカニズムに関係しているかを解明してあげる"努力"が必要でしょうか?
当然、努力することは論理的には可能です。今から国が数兆円規模で予算を投じて即刻研究を開始することはできますが、そんな努力をすべきでしょうか?
上は極端な例ですが、それを抜きにしても現実的にもどこまで理解してあげる努力が必要でしょうか?
ここに書き込みをしている人も日頃の鬱憤やストレスや困った状況にあるかもしれません。googoonekoさんはそれを理解する努力をしていますか?
>少数派でも、確実に存在するわけです。
少数派を守るためにどれだけのコストをかけますか?
車の安全性でも同じです。車の事故は起こります。でも「ある程度以上は仕方ない。あとは車を利用する人達の責任で気をつけてもらおう」と車の所有者・運転者の自己責任に委ねています。
完全なエンジンなど作れません。極限までトラブルが発生する確率を少なくすることもできません。車の値段を200万→1000万とすることで、99.9999%安全から、99.99991%安全に改善するということはやりません。
どこかで安全性の追求をあきらめます。
>例外を知る想像力がないのでしょうか。
>想像力を働かせることが大事かと思います
上でも書きましたが、例外のためにどこまでコストをかけますか?
「何でもかんでも自己責任」という人も問題はありますが、「不幸な人がいるからそれを救済できるようにしろ」と言うのもどうでしょう。「助けろ、助けろ」というのなら、自分が助けてみろと。盲目の方、先天的な重病を持った方がいますが助けられるのでしょうか。自分もできもしないのに他人にそれらを要求するのも、無責任発言と言われても仕方ありません。
想像力を働かせることは大事ですが、想像しているだけで、自分は大して何もせずに人の文句ばかり言っているのは、ただの卑怯者です。
お礼
すべて同意なのですが、せめて自己責任論者の人たちの考えていることを聞いてみたいと考えました。 首が回らなくなったら、やっと理解するのでしょうか。 それとも、そうなったって、「つける薬なし」の法則でしょうか。