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谷川俊太郎「静かな雨の夜に」
谷川俊太郎の詩「静かな雨の夜に」の解釈ができずにこまっております。それ以前に、素人の私には谷川さんが全体として何を言わんとしているのかもわかりません。 「新しい驚きと悲しみが沈んでゆくのを聞きながら」: 「新しい驚き」「新しい悲しみ」とはどんなものなのでしょうか?また、なぜ「感じる」のではなくて「聞く」のでしょうか? 「神を信じないで神のにおいに甘え」: 矛盾しているように見えますが、神など信じないぞ!と強がっていたが気がつくと神の気配に縋りついてしまう弱い自分をイメージしている、ということでしょうか? 「はるかな国の街路樹の葉を拾ったりしながら」: 何の前触れもなく街路樹の話になるのはなぜですか? 「過去と未来の幻燈を浴びながら」: 現実逃避……でしょうか? 「青い海の上のやわらかなソファを信じながら」: 海の上にありながら沈まずに自分を受け止めてくれて、それでいてフワフワ……という優しくて強いものを求めている、ということでしょうか?
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頭で理解しようと思っても、あるいは理屈で説明しようと思っても、 詩の女神はするりとどこかへ姿を隠してしまうもののようです。 ちょうど幼いころ、小川で泳ぐメダカが、あんまりすいすいと気持ちよさそうなので 捕らえようとして近づくと、一瞬のうちに姿が消えて、もうどこにも見当たらなかったように。 そうして、あきらめて岸から離れると、すぐさま以前の通りすいすいと泳いでいるのを目撃しなければならなかったように。 詩のことがどれほど「わかる」のか、心もとない限りです。私もまぎれもなく詩の素人の一人です。 短い詩ですから少し詳しく見て行ってみましょう。途中、こう受け取ったという、あくまで私の受け取り方を書かせていただくことになるかと思います。 まず全詩を掲げます。詩はいま危機的な状況にあり、多くの人の目に触れ、一人でも多くの人に読んでもらうことのほうが最優先ではないかと憂えているからとご解釈ください。 静かな雨の夜に いつまでもこうして坐って居たい 新しい驚きと悲しみが静かに沈んでゆくのを聞きながら 神を信じないで神のにおいに甘えながら はるかな国の街路樹の葉を拾ったりしながら 過去と未来の幻燈を浴びながら 青い海の上の柔らかなソファを信じながら そして なによりも 限りなく自分を愛しながら いつまでもこうしてひっそり坐って居たい 何度か読んでみます。それから題名の「静かな雨の夜」について思いをめぐらしてみます。 これは「静かな雨」の降る、或る夜に書かれた詩なんですね。そのまま素直にそう受け取ればいいと思います。 (作者によっては、これも詩の一部として仕掛けを施す、たいていは高度な、まれに悪趣味にすぎないテクニックもないではないからです。でもだいたいは書いてあるとおり受け取ればいい。詩はパズルではありませんから) 静かな雨の降る夜とはどんなでしょう。われわれにも経験のあることで、それは心落ち着いた、しめやかな気分になるときではないでしょうか。そしてこの詩も、そうした気分に支配されて書かれたのだろうと類推され、それは詩の第一行、「いつまでもこうして坐って居たい」という言葉を読者にもただちに納得させ、受け入れさせるものです。 「新しい驚きと悲しみ」とは、たとえばこの詩の作者は当時二十歳前だったでしょうから、まだ十分に若く、日々はなお新しさがあり、世界は驚きに満ち、自分の無力に対する悲しみがあったのかもしれません。ここのところは自分が若かったときのことを漠然と思い出してもいいし、現にいま若い読者なら自分にあてはめる、もしくはそのことに思いを巡らせる契機となります。 ところでこれは、必ずしも若さによる「新しい驚きと悲しみ」に限定する必要も、もともとないですよね。壮年には壮年の、熟年には熟年の、老人には老人の「新しい驚きと悲しみ」があるものだし、あるに違いないからです。 それらが「静かに沈んでゆく」、しめやかな雨の夜に。 沈む、とはふつう「沈むのを見る」というふうに視覚的な現象だし、あるいはおっしゃるような触覚的な表現なのかもしれませんが、「聞く」というように聴覚的に受けるのもそれほど違和感があるとは思えません。モノが沈んでゆくのを聞く、あたかも聞いたようになることは日常でもよくあることではないでしょうか。たとえば海女が海に潜ってゆくのを聞く、イワシのつみれを鍋に落とすとボトンと音がし、沈んでゆくのを聞いたような気になるとか。 この詩の場合のように、雨が降っているのを、あるいはおそらく窓外に聞いている夜などには特に。 長くなってきたので、以下駆け足します(汗) 「神を信じないで」=無神論者でも、「神のにおいに甘え」=神がいても別に邪魔にはなりません。 ご都合主義なことなんですが。 「はるかな国」=まだ行ったことがない場所、いずれ行くことになるかもしれない世界。というふうに受け取りました。将来、任意の未来の時間でしょうか。 「の街路樹の葉を拾う」=その具体化されたイメージで、詩らしく美しく表現されてますね! 「青い海の上の柔らかなソファ」=海は広大なもの、青い海は健康な世界、肯定的な世界、そんなふうに私はイメージします。 ソファは柔らかく自分を受け止めてくれるもの、安らぎで横たえさせてくれるもの。 そしてそれ以上は書いてないので、それ以上のイメージは膨らましません。これ以上だと、いたずらな深読み、テキストを離れた妄想になってしまいます。 「限りなく自分を愛しながら」 何を言わんとしているかは、こうした世界の中にあり、こうした世界に取り巻かれている自分に対する慈しみです。 「いつまでもこうしてひっそり坐って居たい」のは、そうした自分をいつまでも味わっていたいからで、これは若い肉体と無限ともつかない将来性を持つ若さの特権かもしれないし、そうした世界はもろくて崩れやすいことを予感しているからかもしれません。あるいはまた、それらすべてが自分ひとりの能天気な幻想に過ぎないと知り尽くしている自分自身を見つめ返す覚めた目が、このひとときに固執し、それを強いているからかもしれません。 どう受け取るかは、読者一人一人の手にゆだねられています。 補足: 谷川俊太郎がいい詩人であることは言うを待ちません。多くのファンがそれを実証しています。 けれども、これも軽妙な現代の詩を多く残してくれた愛すべき詩人、辻征夫によると「社会は鈍感なので谷川俊太郎を最も口あたりのいい、ここちよい詩人だと思いこんでしまっている。気の毒でならない」などと言っています。詩人とは、とても正直な種族(笑) 谷川氏に「鳥羽」という十四行詩による十編ばかりの連作があります。(詩画集『旅』所収、1968年) 機会があればお読みになってみてください。正直に自分のことが歌われています。 私は造られそしてここに放置されている 岩の間にほら太陽があんなに落ちて 海はかえつて昏(くら)い この白昼の静寂のほかに 君に告げたい事はない たとえ君がその国で血を流していようと ああこの不変の眩(まぶ)しさ! (「鳥羽 1」)
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- go_urn
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こんにちは! No. 1 のお方の素敵な解説のつけたしのようなことですが... 静かな雨の夜に いつまでもこうして坐って居たい 新しい驚きと悲しみが静かに沈んでゆくのを聞きながら ○super-MMさん:「新しい驚き」「新しい悲しみ」とはどんなものなのでしょうか?また、なぜ「感じる」のではなくて「聞く」のでしょうか? ●「新しい驚き」「新しい悲しみ」は、私のような凡人にも日々あります。今日は、この詩について感じ考えている人の存在が新鮮な驚きでした。今日見つけた新しい悲しみは、若い日に感じていたあるものがもう思い出せないことでした...で、何しろ静かな雨の夜です。雨の音といっしょにそれらが思い出されては消えていきますので、その音と同調しているんですね。だから聴覚的に捉えているわけです。 神を信じないで神のにおいに甘えながら ○super-MMさん:矛盾しているように見えますが、神など信じないぞ!と強がっていたが気がつくと神の気配に縋りついてしまう弱い自分をイメージしている、ということでしょうか? ●神を信じるのはいつも辛く難しいことですね。ですから、みなさん、ヘン!といったふうに生きてるわけですが、その実、まったく自己を超越した何かをカケラも信じない人も少ないですね。それを「神のにおいに甘えながら」と表現しているようで、なかなか巧みじゃないでしょうか。 はるかな国の街路樹の葉を拾ったりしながら ○super-MMさん:何の前触れもなく街路樹の話になるのはなぜですか? ●ここらは、自分の沈思の中の想像ですね。遠い外国の街路を歩いている自分のことをあれこれ想像し、それを「街路樹の葉を拾う」に代弁させてるんでしょう。 過去と未来の幻燈を浴びながら ○super-MMさん:現実逃避……でしょうか? ●まあ、そう言えばそうですけどね。でも前の行が空間的想像だったのに対し、今度は時間的想像でで、それで対句的にしている気味があります。「幻燈」はちょっと陳腐な隠喩ですが、illusion によく使われますね。来し方、行く末を思い巡らす...誰しも雨の日によくすると思いますよ。 青い海の上の柔らかなソファを信じながら ○super-MMさん:海の上にありながら沈まずに自分を受け止めてくれて、それでいてフワフワ……という優しくて強いものを求めている、ということでしょうか? ●ここが独創的なイメージャリーです。神様を信じないで、寝そべるように人生の神秘と戯れているのが好きな作者の態度をうまく視覚化してますね。「青い海」は神秘です。でも溺れるのはイヤ!海の上にソファーがあって、そこで寝そべってあれこれ考えるのが愉しいんですね。 そして なによりも 限りなく自分を愛しながら いつまでもこうしてひっそり坐って居たい ●現代人の偽りのない表白でしょう。どこで生まれてきたのか、この自己というもの、それを愛する自分を半ば突き放して見ながら、けれど、半ばは微笑とともに肯定しつつ、ただ自分の想いとともに、この世にひっそり存在している、そんな雨の日の孤独な想念の、けっこう充実した時間が浮かんできますよね。 音の感覚が優れていて、読んでいて、引き込まれる力を感じます。 以上、散文人間のとりとめもないひとりごとでした。ご自分の感覚でのとっかかりを見つけられるご参考になれば幸いです!
お礼
一見意味不明にも見える谷川俊太郎の詩の巧みさが身に染みてきましたし,また詩に対するイメージがだんだんと膨らんできました。文学に造詣の深い方と思いますが,丁寧な解説をいただきありがとうございました。
お礼
懇切丁寧なご回答,ありがとうございます! 雰囲気に合うようで実に微妙な言葉を並べてある谷川俊太郎の詩をここまでクリアーに理解できたのは初めてです。ありがとうございました。