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江戸時代では自殺幇助は罪になりますか?
現代では自殺幇助は罪になりますが、 江戸時代では自殺幇助は罪になったんですか? またどのくらいの罪になったのかおしえてください。 確か普通の殺人では死罪であったときいたことがあるのですが、やはり自殺幇助は死罪なのですか?それとも無罪だったのですか?
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こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 >>江戸時代では自殺幇助は罪になったんですか? 結論から言うと「なりました」。 このことについては、あまり深く記述した書物はありませんが、 森鴎外の「高瀬舟」の中に「遠島」とあります。 森鴎外は、文久2(1862)年に石見国津和野藩(現:島根県)の御殿医の息子として生まれました。江戸時代も後6年後に終わりを告げようとしていた時代ですが、当然、江戸時代の見聞等の「知識?」は持っていたと考えられます。 「高瀬舟」は、自殺幇助罪で遠島になる男の告白の物語です。 江戸時代も末期、場所は京都の設定。 なお、関東近辺で罪を犯すと、江戸町奉行の裁決を受け、「遠島」と言うと、大概は「八丈島」でした。 しかし、近江以西の罪人は大阪の牢に集められました。「遠島」の行き先は「薩摩」「五島列島」「隠岐」「壱岐」「天草島」などでした。 小説では、今でいう「フリーター」が主人公で居場所が定まらず苦労した、とあり、「わたしは、これまで、どこといって自分のいてよい所はありませんでした。この度、お上で島にいろ、と仰せ下さいます。そのいろと仰る所に、落ち着いていることが出来ますのが、まず何よりも有り難い事でございます」。 このフリーターの男にとっては、 「牢屋は有り難いもので、仕事をしないのにタダで飯を食わせてくれる。おまけに島送りになるときは、200文も持たせてくれる」 と、まあ、これまでに手にしたことのない「大金?」であった、と記されていますね。 「遠島」には、江戸でも大阪でも、特に「期限」は定めてはいません。 罪の軽重や島での生活態度が良い者では、短くて三年~五年。公方さま(将軍さま)の代替わりなど、慶弔事でもあれば「ご赦免」もありました。また、生涯を「遠島」になったままで過ごした人も多かったのです。 なお、江戸時代、「将軍さま」とは呼ばず、正式には「公方(くぼう)さま」または、「ご公儀さま」「大樹(たいじゅ)さま」と呼ばれていました。良くTVなどで「将軍さまのお成り~」などと叫びますが、これは、ただ単にTVの視聴率を上げるための所業。
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- tanuki4u
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たとえば 心中は 相対死として、激しく罪人とされております http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%83%E4%B8%AD
- oska
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>江戸時代では自殺幇助は罪になったんですか? 時と事情によって判断が異なります。 大岡越前とか遠山金四郎は「英雄」となっていますが、記録を見ると「とんでもない判決」をしている場合が多いです。 (似た事件でも)時と場所及び事情で、大きく判決が異なっています。 ですから、罪になったと言えば罪になった場合もあるし、無罪の場合もありました。 確実な事は、江戸時代は「自殺は犯罪」です。 自殺死体は、葬儀・埋葬する事も禁じられています。 (奉行所の許可を得た場合も、非常に質素な葬儀です) 町の辻に住居地・氏名(分かっている場合)を高札に書き、死体を晒し者にしています。また、自殺未遂の場合は、晒し者にした後で男は非人に女は女郎にしています。 幇助の者は、自殺を助けた(犯罪の協力者)として罪になりそうですね。 高瀬舟は大正5年頃の小説ですが、明治刑法に基づいて書いた?と聞いた事があります。 本当は、どうなんでしようか?