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アジアとヨーロッパの境はどうして決まったのか。

他の州は地理的に見ても妥当な境界に見えますが、 アジアとヨーロッパの境はウラル山脈、カスピ海、黒海付近になっています。 1.いつ頃 2.誰たちが 3.どのような根拠で この境を決めたのでしょう。 また、 昔、ギリシャとペルシャが戦争をしましたが、そのころ、 4.ギリシャ人はヨーロッパ、ペルシャ人はアジアという帰属意識を持っていたのでしょうか。 さらに、 現在、その境付近に住む民族は、それぞれ 5.西にいる人はヨーロッパ、東の人はアジアという帰属意識を持っているのでしょうか。 いくつもありますが、1つでもよろしいですので、お分かりの方、資料でもいいので教えてください。

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  • ベストアンサー
  • nacam
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回答No.1

アジアという概念は、ヨーロッパ人のもので、現在のアジア人のものできありません。 ギリシャ神話では、ゼウスが小アジアからエウロパをさらい、着いた所を(ギリシャ)ヨーロッパと呼ぶようになりました。 ギリシャ人にとって、小アジア(現在のトルコ)を近東(近い東の国)、アラブ圏を中近東(中くらいに近い東の国)とし、それ以東を極東(東の外れ)としていました。 それを慣例的に現在も使用しているにすぎません。 アジアとヨーロッパの境は、地理的にはボスポラス海峡ですが、中世その地にあったビザンツ帝国は、バルカン半島とアナトリアという地域にあり、アジア・ヨーロッパの境を意識したとは思えません。 むしろ、キリスト教の範囲とイスラム教(ゾロアスター教も含む)の範囲が、アジアとヨーロッパの境界として認識していたと思われます。 そのため、カフカス山脈南方の3カ国のうち、グルジアとアルメニアはキリスト教国であるため、ヨーロッパの扱いをうけます(グルジアのEU加盟問題などあります)が、その隣国のイスラム国家アゼルバイジャンがヨーロッパの扱いを受ける事はありません。 ウラル山脈においても、その西側は、おおよそロシア人が近世まで主流であったのに対し東側がトルコ系民族が中心であった事が原因だと思います。 また、ギリシャとペルシャが戦っていたころ、ギリシャ人にとってギリシャ人以外のヨーロッパ人は全て蛮族の扱いですから、ヨーロッパ人としての帰属意識など存在したとは思えません。 またペルシャ人にしても、ペルシャ帝国という国はあっても、内容は地区ごとにバラバラな民族・国家を軍事的に束ねていただけですから、アジア人としての帰属意識など存在したとは思えません。 アジアとヨーロッパの境界近くに住む民族の代表は、トルコ人とロシア人でしょう。 両国とも、その時の状況により、アジアになったりヨーロッパになったりしています。

okormazd
質問者

お礼

質問に一通りお答えいただき、ありがとうございました。わかりやすく、私の感覚ともあっているように思います。、

okormazd
質問者

補足

ヨーロッパ人と称する人たちのいわば「中華思想」のようなものでしょうか。 キリスト教とイスラム教ですか。とするとこの概念が一般的になるのはイスラム教伸張後となるのでしょうか。 質問には書きませんでしたが、この区分がそれほど意味のあるように見えなかったものですから。

その他の回答 (2)

  • tanuki4u
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回答No.3

ヨーロッパというのは、歴史的な空間です。 歴史的というのは 1:キリスト教国 2:欧州外交メンバーであるかどうか。 上記の二つの条件です。 ウラル山脈というからには、ロシアが鍵となります。 ロシアに対する、他の欧州国家の認識を、アジア地図ということで見てみますと、下記の変化がわかります。 http://wsv.library.osaka-u.ac.jp/tenji/maps/img0080.jpg 16世紀の西欧的には、モスクワもアジアみたいだ。 http://wsv.library.osaka-u.ac.jp/tenji/maps/img0084.jpg http://wsv.library.osaka-u.ac.jp/tenji/maps/img0028.jpg 17世紀も同様な理解のようだ 1650年 1677年 http://wsv.library.osaka-u.ac.jp/tenji/maps/img0095.jpg 18世紀 1745年ですと、現代の物に近い。 (http://wsv.library.osaka-u.ac.jp/tenji/maps/maps.htm より) この間になにがあったかというとピョートル大帝による 大北方戦争(1700~1721)での勝利であります。 つまり、ロシアが欧州外交のメンバーに入ったと認識されたことによって、欧州はロシアまで広がった。 ※ 大北方戦争での相手、スウェーデンは、1648年に終結した30年戦争における一方の主要プレーヤーです。 18世紀前半において、すでにロシアはオホーツクまで進出していたので、オホーツクまでヨーロッパかというと、第一番の原則、キリスト教世界か?というが出てきます。 18世前半でウラルあたりが、キリスト教世界の限界になります。

okormazd
質問者

お礼

歴史的な変遷がわかりますね。ありがとうございました。

okormazd
質問者

補足

面白い地図ありがとうございます。 とすると、トルコのEC加盟は相当難しそうですね。オスマン・トルコに一部支配されたこともあるし、ヨーロッパの枠を踏み越えるんでしょうか。

  • onioncat
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回答No.2

先日、イギリスの方から聞いたのですが、「ヨーロッパにおいて、どこまでヨーロッパかという認識はかなり広がりつつある。例え、そこが限りなく中国に近くて、住人が中国人のような顔をしていたとしても、ヨーロッパとしては、そこをヨーロッパとして受け入れたい。なぜなら、ヨーロッパの土地を広げることこそが、この世界においてヨーロッパが力を強くする材料となるからだ」とのことでした。 日本が中東(アジア)と認識している辺りも、ヨーロッパ人はヨーロッパの一部と考えたりしているとか。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%91 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%B1 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2 「ヨーロッパ」はもともと、ユーラシア大陸の意味で、ギリシャ語が語源。 「アジア」はもともとアッシリアの「アス(東)」が語源で、本来はトルコ西部の地域にあたる古代ローマの属州アジアとその一帯を指したそです。

okormazd
質問者

お礼

ちょっとそこまでイギリス人などが考えているとは知りませんでした。イギリスはヨーロッパじゃないということもきいたことがあるような。

okormazd
質問者

補足

この区分がそれほど意味があるとも思えませんから、中国の西がヨーロッパだとしてもどうでもいいことですが、ヨーロッパ人と考えている人たちが、ヨーロッパは狭くてひがんでいるようにも受け取れますね。ヨーロッパは十分力強かったし、今でも力強いのにね。 北アメリカをヨーロッパの一部とは考えないのでしょうか。