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個性の形成について。
高校生です。 高校の現代社会の授業で個性の形成ということを習いました。 その中で、 『個性を形成する要因には、遺伝的な要因と環境的な要因がある。この二つの要因の相互作用によって、個性は形成されていくが、その過程はただ受動的なものではなく、自我によって主体的に方向づけることが可能である。』ということを教えてもらいました。 最後の『自我によって主体的に方向づけることが可能である』の理解ができず、根拠もわかりません。知っているかた詳しく教えてください。 私が思うに人を裁くために無理やり論じている気がしてなりません。 とても気になるのですぐに回答ください。お願いします。
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教科書そのままの引用と思ってよいでしょうか?? おそらく、いくつかの心理学の理論をまとめてやさしく言い換えたものでしょう。 確かに、強引な要約だと思います。 この場合、「個性」の言葉の使い方もおかしいですね…。 「人格」あるいは「パーソナリティ」を言うべきところですが、予備知識のない高校生に伝えるために、身近な言葉を使ったのでしょう。 >遺伝的な要因と環境的な要因がある。この二つの要因の相互作用によって、個性は形成されていく シュテルンの輻輳説などを初めとする発達心理学の「遺伝と環境は相互作用する」という説でしょう。心理学では、パーソナリティをきめるのが遺伝と環境のどちらか、という論争がずっとやられてきましたが、現在は、相互作用だ、と言うことで落ち着いています。 >その過程はただ受動的なものではなく、自我によって主体的に方向づけることが可能である 質問者様がひっかかっているここですが、おそらくエリクソンの理論をものすごーーく乱暴に言い換えたものでしょう。 「自我」と言い方も乱暴ですし、教科書を作った人たちを小一時間くらい説教したい気持ちになりますが。 アイデンティティという言葉はその教科書には載っていませんでしたか?? おそらく、アイデンティティを獲得する過程についてを、ものすごーーく乱暴に言い換えたのでしょう。 その教科書のほかのところになんて書いてあるかわからないので、解説がしにくいですが…。 よかったらご自分で調べてみてください。 >人を裁くために無理やり論じている気がしてなりません 「人を裁くため」というのは、ちゃんと根拠とする心理学の理論をもとに書いていると思うので、そこまでの意識はないでしょうが、要約がものすごく下手で、言葉の使い方もおかしく、論もヘタクソなのは確かです。 結論:こんなクソ教科書の一文を気にする必要はないです。どうせだったらこれをきっかけに正しい心理学の理論を調べてみてください。 参考になれば幸いです☆
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- ao-golden
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『自我によって主体的に方向づけることが可能である』とは、 『自分と環境(刺激)の間には空間があるから(←根拠)、自分の自由意志に基づいて環境に関わらず、反応を選択できる。』ということだと思います。 要は、自分の個性表現には、自分自身(の意思)にも責任があるということでしょう。いい意味においても、悪い意味においてもです。 人格者や人望がある人に惹かれるのは、単に環境の要因だけではなく 陰での努力や意思があったりしますよね。 しかし、そもそも「個性」とはなんでしょうかね?今まで多くの人が考えてきたんですけど、よくわからないですね。 そもそも「個性とは●●である」というのは、人によって考えが違ったりしているから「本当の個性」って何なんでしょうかね?? たとえば、「オタリーマン」のような人は個性的な人として見るか、しっかりしてない人、頼りない人と見るかでもよくわかりませんよね。 その論理(『個性を形成する要因には、遺伝的な要因と環境的な要因がある。この二つの要因の相互作用によって、個性は形成されていくが、その過程はただ受動的なものではなく、自我によって主体的に方向づけることが可能である。』という考え方)も、あくまで今まで学者が考えてきた中で一番いい結論に過ぎません。 もっと素晴らしい学説(パラダイム)が出てくれば、表記も変わるでしょうね。教科書は学者が書いていることが多いですからね。(学校の先生もいますけど) 教科書はあくまでも、今まででの中での最高な真理なだけであって、絶対的な真理とは限らないものですよ。特に倫理・哲学とかは。
お礼
回答ありがとうございます。 『空間があるから』それだけの理由で自由意思の根拠になるとは思えませんし最高な真理などというのは誰にも決められるものではないと思います。
- mijinco
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「自分の個性を変えたいと思った」 ↑ これが自分の自由意思か他で決定づけられているか。 それは、自分で決めればよいと私は思っています。 決めるときの基準は、私にとってどちらと受けとめる方が意味があるか、良いことなのか、ダメージが少ないのか、よいよい生き方につながるのか、状況や周囲にとって効果的・有益なのか…など様々ですが、それは私自身が答を出します。 (この答を出す自分はどうなのか、ということはとりあえずこの段階では考慮に入れません) 誰かをケガさせたナイフを裁くことはあまり意味はなさそうですが、人が関係してくると、同じ要因が集まっても、化学反応ほどに同じ表れが起こるとはないように見えます。 それは、人には『自我によって主体的に方向づけることが可能である』 からなんだろうということなのでしょうか。 しかし、もしかしたら、主体的に方向づけるように見えるのは、要因が同じ事はありえないからかもしれませんし、あるいは要因が多すぎて把握しきれないだけかもしれません。 ですから、別の考え方ももちろん成り立ちます。
お礼
回答ありがとうございます。 私は自分というものに自由意思があるのかないのかが知りたいのです。
- hamakkotarou
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いまの自分の個性というのはすべて自分の判断で取捨選択した結果だと 思います。 もちろん気が付かないうちにそうなっていたというものもあるかも知れ ません。 でも、自分の個性に問題があるのなら自分の意志で変えていいのです。 変えることを誰かに相談する必要もないでしょう。 ただ,物理的に変えることが出来ないことは除きますが。 誰かからこうした方がいいと言われて,それを受け入れるか入れないかは 自分の選択です。 それを受け入れないと事態が悪くなるからとか,それをした方が得だから などといった理由があるかもしれませんが、そういったものも個性に 含まれているでしょう。 ですから,この一つの個性を変えたいと思っても自分の中では複雑に 絡み合っているために変えことがとても困難なように思えるのです。 でも個性とは複雑に関連しあっているものだと理解できていれば 個性を変えるためのポイントを押さえることで変えることができる はずです。 個性は環境や遺伝的と思われているものから気が付かないうちに形成され それを変えることが出来ないと思えばそれに何らかの外的な心理的圧力 がないかぎり続いていきます。 個性は変えることが出来ると思えば自発的な心理的圧力を作り出して 変えることは出来ます。 もちろん良く変わることも出来るし悪く変わることも出来るのです。 どちらかと言えば、変えられないと思っている方は悪く変わり, 変えることが出来ると思っている方は良く変わるのではないかと思います。
お礼
回答ありがとうございます。 私の質問は、個性の形成に主体的な要因があるのかということです。 例えば、自分の個性を変えたいと思った時それは本当に自分の自由意思によるものなのか、遺伝と環境にのみ作られたかりそめの自由意思ではないのかということです。
- nisekant
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見解を否定しようが、賛同しようが、犯罪者は存在すると思います。何故なら、善悪を規定しているものは他ならなぬ人間だからです。矛盾するように見えるのは、道徳を絶対に扱ってしまうからです。 もちろん、世界には犯罪者は存在しないというか属性すら存在しないのだそうです。
お礼
度々ありがとうございます。 そう言われれば本義での犯罪者は存在しないように思えます。 現在社会通念上、未成年の罪は親が責任をとる風潮、法があります。 そういう面での現行社会システムの崩壊には繋がることだけは譲れませんw
- nisekant
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そして実際にこの調査を行なってみたところ、確かに一部の母親は他の母親より、頻繁に子を舐め、毛づくろいをするなど、熱心な母親行動を見せた。このような母親の関心度の差は、なんと遺伝的な形質であるようにも見えた。母親が頻繁に娘を舐めてやると、成長した同じように高い頻繁で子供を舐めた。しかも、そうした関心度の高い母親の子は、オスでもメスでも、成長後にストレスや不安を示す割合が低いとわかった。要するに、母親から高い関心を受けて育った子は、そうでない子に比べて成長してからの不安が少なく、したがって不安もまた遺伝されるのだと解釈できる。だが、何が遺伝しているのだろうか? その答えは、交換養育を行なってみることで得られた。生まれた直後の子を母親から話して、別の母親に育てさせる方法である。マイケル?ミーニーを中心とする研究グループが関心度の高い母親の子と、関心度の低い母親の子を入れ替えて育てさせてみたところ、子の傾向には生物学上の母親の傾向ではなく、育ての母親の傾向が反映されるとわかった。遺伝子によらずに行動形質が伝達される。その媒介を果たしているのは母親の遺伝子ではなく、子に対する母親の行動なのである。 ミーニーらは、この発見をさらに発展させて、母親の世話行動の差が脳内の遺伝子発現の差につながることを証明した。彼等はそれ以前にも、幼児期に母親から受けた世話の差が、成長後のストレス反応系の感受性を左右する一因になることを証明していた。例えば、頻繁に子を舐めたり毛づくろいしたりする母親に育てられた子は、危険な状況にあってもホルモン反応が低く、脳内の変化も小さかった。これはストレスに対する脳の反応が抑制されていることを示す。これらの調査で調べられたのは海馬という脳の一領域で、ここは学習と記憶にとくに顕著な役割を果たすことから、研究者の多大な関心を集めている。動物が空間環境を学習し、記憶できるのも、この構造の働きによるものだ。ミーニーらは海馬の機能に関する最新の知識を利用して、幼児期の初めに母親から舐められたり毛づくろいされたりする頻度が高いと、海馬内の遺伝子の発現に変化が生じ、それによって海馬内でのニューロン同士の結びつきが強まることを明らかにした。その結果、これらの子は成熟したときに空間学習能力が高くなるのである。 これに関連する近年の驚くべき研究結果は、母親の行動様式がなぜ遺伝子メカニズムに頼らずに次世代に遺伝されうるのかという謎を説き明かしつつある。ここで出てくるのが、この章の前のほうで取り上げた、メチル化である。前述したように、メチル化のパターンは受精時にいったん全て消去されるが、のちの発達段階で再び現れてくる。そしてラットの場合、このメチル化のパターンが生まれた直後にきわめて修正されやすくなり、そこで現れてくるパターンは母親の世話、つまり肛門や性器をどのぐらい舐めてもらったかを含め、どのように育てられたかによって決まってくる。この新たな研究分野は、経験による遺伝子発現が発達途上の生物に果たす役割について、革新的な理解をもたらしてくれるかもしれない。 こうして肛門性器舐め行動をめぐる楽しい世界を一通り見てきてもらったのは、ある単純だが重要な点をわかってほしかったからだ。もし私達がラットの母親の養育傾向に差があるのを、単にメスのラットの性格の違いによるものだと──親密なメスとよそよそしいメス、温かいメスと冷たいメス、包容力のあるメスとないメス──解釈して、「母性本能遺伝子」なるものを探しはじめたとしたら、母親の行動に関する私達の見方はどれだけ不毛なものになるだろう。しかし、行動はそれより遥かに複雑だ。これまで見てきたように、肛門性器舐め行動が子の成長後の行動につながり、さらに遺伝にまでつながっているというのは、予想もしなかった驚くべき流れである。
お礼
長文ありがとうございます。 余りにもむずかしい文章なので理解できない部分も多々ありますが。 結論としては、環境的要因を後世に伝える遺伝的システムがある。 虐待を受けた子供が親になって子供に虐待を与えることによって虐待が遺伝するようなことを言っている風に解釈できました。 nisekantさんの意図を間違えてなければいいのですが。
- nisekant
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「本能はどこまで本能か」 マーク?S?ブランバーグ レーマンの1953年の有名な論文で取り上げられていたラットの母親の行動は、彼の解釈では、行動の発達が学習か?成熟か?という二分法的なカテゴリーにはおさまらないことを示す顕著な一例だった。動物の母親行動は、すでに50年前から心理生物学の熱い研究対象になっていたわけだが、これに関する誤った二分法的解釈をレーマンは頑として否定した。とはいえ、そのころ母親行動に関する研究はまだ全盛期にさしかかったばかりで、研究の成果によってホルモンの働きや、神経の発達、ストレスなどについての理解が深まるには、それから数十年がかかった。 生まれたばかりの一腹子のラットを世話し、授乳するのは大仕事である。新生児が一匹ずつ産道からでてくると、母親は胎膜をはがし、胎盤を食べ、子を巣に集める。子は母親が自分の腹をなめて羊水でついた匂いの後を辿って、乳首まで辿りつく。全ての子が集まって自分の乳首に吸いつくと、母親は子の上に覆い被さるようにして乳を吸わせる。子が乳首を吸うことで母親に与えられる刺激は、乳を出す反射を引き起こすのに必要なものだ。逆に、子は母親から与えられる触覚刺激がなければ、排尿や排便ができない。この触覚刺激は、母親の肛門性器舐め行動によって得られる。母親が口や前足を使って子を自分の温かい体の仰向けにさせると、子は安心して体の力を抜くので、母親は子の肛門と性器に触れやすくなる。それから母親がせっせと肛門や性器を舐めはじめると、その行動が反射的に子の排尿を促し、さらに長時間なめていると、排便を誘発する。母親はこの行動を、一匹一匹の子に一日中繰り返す。それは子が生まれたときから始まって、乳離れするまで続く。 この母親との相互作用における利点は全て子にあるように見えるかもしれないが、意外にもそれだけでなく、子の排泄物を食べてもいる。それはラットにとって非常に有益な行為なのである。第一に、子は巣から出られないし、母親はそれらの子を自分だけで育てなければならないので、糞尿を食べてしまったほうが巣を清潔に保てる。第二に、授乳は大量のエネルギーを消費するため、母親としては通常以上に食物や水をあさる必要が出てくるが、そうすると無力な子を残したまま巣を離れ、自らも外界の危険に身をさらさなくてはならない。その観点からみると、肛門性器舐め行動は母親にとっても有益なのだ。母乳のかたちで子に与えた水分と栄養のかなりの部分を取り戻せるからである。要するに、ラットはリサイクル活動をしているわけだ。 そして、肛門性器舐め行動に関する私達の理解をさらに一段引き上げたのが、レーマンの教え子であるセリア?ムーアだった。彼女の観察で、ラットの一腹子のなかでもオスの子のほうがメスの子よりも頻繁に舐められることがわかったのである。だが、ここですぐに一つの疑問が出てくる。ラットの母親はどうやって子の性別を知るのだろう?ムーア達の研究で、母親の関心がオスの子に集中するのは知識の問題ではなく、少なくとも部分的には、化学的な誘引によるものだということがわかった。オスの子が排泄する尿には精巣に由来する独特の匂いがあるので、母親は母親ならではの理由から、この匂いに非常に引きつけられる。だが、母親がオスの子の尿に引きつけられるのは単なる好みの問題なのだろうか? 実は、これには非常に深い意味がある。母親の関心の対象、すなわち性器に目を向けてみよう。ペニスの付け根には、ペニスの勃起に重要な役割を果たす球海綿体筋という筋肉がある。生まれたときにはオスにもメスにもこの筋肉があるのだが、メスの場合はまもなく消えてしまう。その他の筋肉と同様に、球海綿体筋も多くの筋繊維からなっていて、それぞれの筋繊維が、ペニスの付け根から脊髄につながっている神経からの刺激を受けとる。脊髄の中では、ニューロンの細胞体が寄り集まって、球海綿体筋脊髄核(SNBC)という細胞体の小さな集団を形成する。成熟したオスのラットが性的に興奮すると、脳から送られた信号が脊髄を伝わってSNBCニューロンを活性化させ、今度はそれが発する信号が神経を伝わって球海綿体筋に届き、ペニスを勃起させる。 成熟したオスのラットのSNBCには、およそ200個のニューロンが含まれているが、生まれたばかりのオスとメスのSNBCにも、同数のニューロンが見つかっている。つまり、その系の発達においてはオスがニューロンを蓄積していくのではなく、メスがニューロンを消失させていっている。ニューロンの過剰な生成とその後の死滅は神経系の発達の基本的な特徴だが、SNBCはこの現象の顕著な一例というわけだ。では、どのような要因がオスだけに球海綿体筋とSNBCニューロンを維持させているのだろう?その答えの一部は、テストステロンを分泌するので、それがステロイドとして球海綿体筋の維持を促すことがある。 もう一部の要因は、例の肛門性器舐め行動に関連している。オスの子の性器を舐めることで、母親は脊髄の中のSNBCニューロンに触覚刺激を与えている。この触覚刺激の重要性を実証したのがムーアだった。臭覚を奪われた母親ラットは、通常のようにメスよりもオスを頻繁に舐めることはしなくなり、舐められる頻繁が少なくなったオスは、SNBCニューロンを保持できる割合が下がったのである。 ムーアはその重要性を示すために、母親がオスの子を舐める傾向を操作して、幼児期に受けた肛門と性器への刺激量が異なるオスを育てた。舐めてもらえなっかたオスは、交尾はできるがペースが遅かった。交尾の過程全体がもたついてしまうのだ。この発見の最大の重要性は、幼児期の肛門性器への刺激と、成熟してからの機能的に重要な行動との間につながりがあったことを示した点にある。 肛門性器舐め行動に関する次のエピソードは、ラットの母が子の肛門性器を舐めるときの傾向が遺伝するかどうかに関連している。この遺伝の問題を探る一つの方法は、あるラット集団の中で母親行動に自然と現れてくる多様性を細かく検証し、母と娘の行動の間に関連性があるかどうかを調べることだ。
- nisekant
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回答ではありませんが、その見解は否定的な立場です。 「自我とは、複合的なシステムによる幻想かもしれない」と記述を読みまし、現在では、ホムンクルスなどは否定してありますので、「自我」と全面に出すべきではないと思います。 主体といっても、その嗜好性や方向性は、先天的に決定しているものではありませんから、「主体」として切り離して扱うのは危うい表現だと思います。 参考著書(誤字脱字あり 「解明される意識」 「ダーウィンの危険な思想」 「ユーザーイリュージョン」 「ヒトはいかにして知恵者となったか」 「本能はどこまで本能か」
お礼
回答ありがとうございます。 嗜好性や方向性は環境的要因と遺伝的要因の相互作用で決定されているように思います。 ですが人間として私の見解に対して否定的な立場であることは正しいことのように思います。 もしも私の見解を認めてしまっては、この世界に本義での犯罪者は存在しないことになります。 罪のないもの罰与えられません。この社会システムの崩壊に繋がると思います。
前置き省略。 脳科学者の池谷裕二氏が『脳はなにかと言い訳する』の中で、「自由意志」はないけれど、「自由否定」はできる!とし、この神経倫理の疑問に答えています。仮に誰かを殴りたいという衝動が生まれたとしても、脳に殴ろうという指令が下るまでには0,2~0,3秒の時間の遅れがあり、その意志を行動に移すことを止(と)めることは可能だと論じています。未だに脳は未知の領域です。 ここからは僕の私見です。その止(と)めようとする意思は、真の「自由意志」で生じたのか、はたまた偶然という名の必然なのか………どこまでいってもキリがありません。人間の自由意志は、お釈迦様の手のひらから逃れることは出来ないのかも知れませんねぇ~。 神様や仏様の目線を類推すれば「自由意志」は無いけれど、人間の目線での「自由意志」は有る、というのが僕の結論です。この問題は、言葉の定義によって結論が違ってくるように思います。それだけの違いですよ、突き詰めればね。 頭のいい人なら、もっと違う答えを出すかもしれませんが、思いつかないんだから仕方がありません。
お礼
回答ありがとうございます。 『脳はなにかと言い訳する』についてですが。 現代社会では、人を殴るという行動は損なことが多く。 本能的に身を守るための判断時間とすれば自由否定ができなくても可能です。 どうして自由否定ができる根拠になるのか調べたいと思います。
お礼
回答ありがとうございます。 実にそうだと思います。wikipedia等で詳しく調べたいと思います。