- ベストアンサー
人はみんな打算を求めて行動している?
タイトルの通りですが大学で心理学に関するディペードになって此のことを疑問に思いました。 特には「人が人に親切にする行動の目的」についてガ最終的に議論の問題点でした。 私は「人は打算以外の目的でも行動することはある」と言う意見で精神科医の担任の教授と共に多数派なのですが、 少数派の「人は全て自分の打算的な目的のために動き、つまりは自分が快楽を得たいが為に行動している」 と言う方々をうまく説得できないで困っています。 私は例え話として 母親が乳児を育てるときに自分の利益を考えているか?自分の打算動向以前に子育てのことで手一杯だろう 今にも人が車に惹かれそうになっていて助けたときはどうか? 感謝と言う打算的な見返り以前に自分の得なんて考えていないだろう 電車で目の前に苦しそうな妊婦さんや御老人が現れて不意に席を譲った時はどうか? 最初から感謝されたい見返りを求めた打算的な動機だったか? 感謝する人は多いかも知れないが、仮に打算的な動機で譲っても中には「余計なお世話だ」と怒って断る人もいるだろう 嫁と姑の仲が悪くて嫁は姑が糖尿病になって困るように毎日料理に砂糖を多く入れていた、 しかし姑は実は甘党で逆に嫁に好意を抱くようになった嫁は快を求めてとった行動だったが不快になった 病院は周囲に求められて人を助けている 確かに自分が求めても射ないのに助けられても良い迷惑だが 自分が何か相手に頼ったり欲求してそれを相手が満たしてくれたりしたら嬉しいだろう? など少し稚拙かも知れませんが本から引用しながら反例を説明して 『確かに中には人に「良い人」と見られたいが為に打算的だったり、「~してあげる」と感謝と言う偽善で恩着せがましい見返りを求めていたり、規範意識で守る人など様々いるだろうが、 必ずしも全員打算的だとは言い切れない 行動だけ客観的に見て主観で評価していれば人の行動は全て打算的に見えるかも知れないが 当人の行動した動機によって行動の意味合いは変わってくる。』 と結論付けようとしたのですが、 否定派の意見として 「やはり人に親切にするのは最終的に自分が快楽を得たい体」 「自分が相手のために良いと思ったことを、そのまま実践しなければ自分を抑圧することになる、その不快な嫌な気分を避けるために快楽と言う打算で行動するんだ」「人が急に殴ってきたら避けるだろう、結局自分が大切だから人に親切にする行動も全て打算的なんだよ」 と言い返してきてだんだんこちらが混乱してきまし混乱してきました。 何とかうまく言いくるめる切り返し方はないでしょうか? 皆さんなら同言いますか? 論理的な言葉遊びでも禅問答のような公案でも哲学者の言葉でも、心理学的なデータや行動心理の引用でも構いません。 稚拙な質問だったら恐縮ですが どなたか良い提案が御座いましたらご教授ください。 よろしくお願い申しあげます。m(_ _)m
- みんなの回答 (5)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
人が人に対して起こす行動に関して、打算的かどうかをテーマにしているのでしょうか。 ちょっとディベートのテーマが分かり難いのですが、そう仮定して考えます。違っていたら訂正してください。 まず、どんな行動に関しても2面性を認めることができます。 したがって、全て打算であると言う論理を構築することの方が、実は一部は打算的でないということを証明するよりも簡単です。 しかし、このディベートに勝とうと言うのであれば、自分の損得と、相手の損得を考えた場合に、明らかに自分の損が大きく、 そのため相手の得が大きい場合の行動を打算的と考えるかどうかに焦点を当てることをお勧めします。 例えば、前の回答にもある、自己犠牲。 自分の命を賭してでも、相手を救った場合、自分が死ぬ可能性が高いことが明らかなのに、 それでも行動に出るというのは、快楽と言うレベルをはるかに超えたリスクではないかなど。 他には、大東亜戦争時に特攻隊に志願した兵士達。明らかに死ぬことが分かっていながら、 国のために死ぬことを良しとした行動はどうなのか。 自分に得が少なくて、相手に得が大きければ、自分が損したことにならないのか? 自分は損してでも行動するのであれば、打算的とはいえないのではないか、 という切り口で、議論を進めてみるのはいかがでしょうか。
その他の回答 (4)
全く打算感覚がない人はいないのでは。人として打算でうごくことはあります。打算的な人、そうでない人であって全く打算的なことはしないという人はいないでしょう。
お礼
回答ありがとうございます。 >全く打算感覚がない人はいないのでは。 恐縮ですが、ごめんなさい。 論点がずれておられるようなので詭弁に見えました。 ここでの論点は「人は打算感覚があるか?ないか?」ではなく 「人の行動は全ての行動動機は打算的か?」という論点です。 仰る通り「人は打算感覚があるか?ないか?」ならば、私も含めてほとんど大多数の人が間違いなく「ある」と答えるでしょう。 ただ、「人の全ての行動動機が打算的目的か?」と聞かれれば「その通りだ」とは言い難いです。動機としての反例がいくつかあるからです。 反例が一つでもあればその論理は必ずしも成立しません。 結果だけ見て主観的な価値観で評価すれば「この世はみんな打算的!」と特に人間不信の強い人なら確実にそう思うと思います。 しかし、問題点として (1)対象の行動だけ見ている (2)対象の動機を無視している (3)主観的結論であり、客観的な評価であり、妥当性に欠ける という問題点が出てきて相対的にも論理として成立しません。 No4さんの仰るように「打算」を考える際には自他の損得の大きさを測りに掛けてみる必要があります。 その上で「自己犠牲」については良い反例になると思います。 「明らかに自分の方が損が大きいのになぜ?」となるからです。 この時点で「全く打算的なことをしない人はいない(逆接すれば打算的な人しかいない)」という理論も反例によって崩れます。「そうとは言い切れない」からです。 特攻隊の例や母親の原初的没頭を例に出したりして 「必ずしも打算的とは言い切れない」と論破した上で、 次に「行動」とそれを行った「動機」について焦点を当て、 「客観的には打算的に見える行動も動機を見れば打算的ではない場合もありうる」 と理を入れ、 「抑えたら欲求不満になるから行う」というのは「もしなかったら」という仮定上の結果論で、未来に起こりうる結果を仮定しての結果論で、それを行動原因と考えるのは本末転倒である。 動機として「本能的欲求」や「自己犠牲」という場合もありうるため、「行わなければ欲求不満になるから行う」のではない。 よって「必ずしも打算的な目的のために行動しているのではない」と結論付けたいと思います。
- akamanbo
- ベストアンサー率17% (462/2680)
「打算」の定義がまず必要だと思いました。 人間、どんな行動であれ自分がそうしたいと思うからそうしているわけで(そうでなかったら脳の病気)、そうしたい理由が自分に直接の利益をもたらすためだったり、自分の心理の安定のためだったりするだけだと思います。 自分の心理の安定のための行動を「打算」と呼ぶかどうかによるんじゃないですか。
お礼
回答ありがとうございます。 まず最初にお詫びとして、 携帯電話からの投稿だったので質問文章が読みにくかったですよね・・ 多少御見苦しかったと思います。失礼しました。 なるほど、確かに心理の安定の為に行っている側面は強いと思います。 今の自分の状態に過去を合わせる「安定性」という言葉もありますしね。 仰るとおり、必ずしもその行動が打算的とは言えないと思います。 例えば「喉が渇いたから水を飲んだ」とすれば確かに欲求を満たすために行った行動ですが「打算的か?」と聞かれるとそうとは言い切れないと思います。動物的な本能的欲求がそこにあるからだと思います。 「それを抑えれば苦痛になるから飲むんだ」と言うのは「もししなかったら」という仮定上の結果論で、間違ってはいないですが、行動動機としては違うと思うからです。 ウィニコットの対象関係論における原初的没頭なんかもそれにあたると思います。精神医学において「無償の愛」がこれに言い換えられてる気がします。正常なことなのですが、どこか精神病的である意味合いも含んでいます。 これらが心理的な安定のためかどうかは不明ですが、どちらにしても打算的とは言いがたいと思います。 回答ありがとうございました。
なかなか、面白いですね。 人間の行動として考えると、結局すべて打算という結論になるかも。 それでは、動物はどうか? 哺乳類が子供にミルクを与えたり、 鳥が雛を守ったり。 ここに打算があるか? 多分ない。種族保存本能があっても、意図的な計算はない。 だとしたら、なぜ人間の子育てすべてが打算と言えるか?
お礼
回答ありがとうございます。 まず最初にお詫びとして、 携帯電話からの投稿だったので質問文章が読みにくかったですよね・・ 多少御見苦しかったと思います。失礼しました。 なるほど、私もその意見に賛成です。 人の行動を客観的に見て主観で評価すれば、人によっては全て打算的に見える人もいると思います。 ただ、人間全員がそうか?と聞かれると「それはありえない」と答えます。 「人を助ける、親切にする行動」は同じに見えても 他者の顔を気にして助ける、親切にする人 規範意識で助ける、親切にする人 自分が感謝されたいがために打算的に助ける、親切にする人 お金を貰っているから助ける、親切にする人 従順で助ける、親切にする人 求められたから助ける、親切にする人 他者の反応はどうあれ、本心から助ける、親切にする人 無意識に助ける、親切にする人 考えられる「動機」だけでもこれだけ多彩です。 しかも「親切」と相手が感じるか否かは相手自身に掛かっているので、打算的な目的で期待していた場合、自らの自己満足(快)を求めて行動したのに、必ずしもその欲求を満たされずに不快な気持ちになることもと思います。 逆に相手の為に行っていなくても、なぜか相手のためになってしまっていたことも多くあると思います。 このように一人でも反例があれば「必ずしもそうとは言い切れない」からです。 仰るとおり、人間の場合、「行動」と「その動機」は別として(主に動機を重視して)考えないといけないと思います。 「本能的ならば”他者を助けなくては”という本能的欲求(エス)を抑圧すれば辛いから、その辛さから解放されるために、その行動を行うんだ。結局、自分の快楽のためだ」と言ってくる気もしますが、 「その行動を抑圧したら辛い」という状況は「もし行わなかったらどうなるか」という仮定上の結果論で、 行ったら本能的欲求が満たせて快楽が得られた(得られない場合もある)という結果論とは違い、 時間軸も論点も主観客観の視点もズレているのだと思います。 「ではなぜ、行っても自分の快にならないことが分かっているのに(もしくは大方の予想はつくのに)、それを行うことがあるのか?」 という自己犠牲の反例を挙げれば論破できると思います。 また新しい視点をご教授頂けた気がしました。 ありがとうございます。
- tinycat19
- ベストアンサー率25% (322/1287)
自己犠牲という行為はどう説明できますか。 たとえば、殉職する警察官、鉄道に落ちて轢かれそうになった人を自分の命をなげうち救う人、そういう人が一部にいることは事実です。 英語でSacrificeと訳されると思いますが、キリストが人類の原罪を背負って、十字架に掛かったのも、自己犠牲です。これが宗教的な意味合いを持つとしても、誰かのために命を投げ打つという行為はあるわけで、ものすごく讃えられていますね。 この崇高な感情に、果たして自己満足があるでしょうか。 私なら、数少ない事例をあげて、その心理について説明します。 一方、簡単な例なら、謙譲の美徳という礼儀作法が日本にはあります。 何かするとき、あなたお先に、いいえあなたこそ、と譲り合うことです。 これも本能に反して、逆方向のことをするわけで、打算で、譲り合うとは考えにくい複雑さがあります。日本人にはそういう規範的な行動様式があって、自然と礼法として行動している場合が多いです。 打算というのは西洋式な解釈であり、それが昔からの規範だからそうする、というのが日本の考え方です。 この謙譲の美徳の説明はどうでしょう。
お礼
回答ありがとうございます。 まず最初にお詫びとして、 携帯電話からの投稿だったので質問文章が読みにくかったですよね・・ 多少御見苦しかったと思います。失礼しました。 なるほど 打算的な目的以外で自分の命を投げ出す「自己犠牲」に 譲り合う「謙譲の美徳」ですか。 とても参考になります。 周りがどう思おうとも当人の動機としては自分への得がそこにないですものね。 打算は西洋式な解釈で日本は昔から自然な規範意識になっているという事実は知りませんでした。とても勉強になりました。 解決する糸口としては「本能」「自然」と言う言葉がキーになると思います。 反対派が 「それならば”他者を助けなくては”という本能的欲求(エス)を抑圧すれば辛いから、その辛さから解放されるために、その行動を行うんだ。結局、自分の快楽のためだ」と言ってくる気もしますが、 「その行動を抑圧したら辛い」という状況は「もし行わなかったらどうなるか」という仮定上の結果論で、 行ったら本能的欲求が満たせて快楽が得られた(得られない場合もある)という結果論とは違い、 時間軸がずれているのだと思います。 また新しい視点をご教授頂けた気がしました。 ありがとうございます。
お礼
回答ありがとうございます。 まず最初にお詫びとして、 携帯電話からの投稿だったので質問文章が読みにくかったですよね・・ 多少御見苦しかったと思います。失礼しました。 なるほど、確かに「打算」を考える際には自他の損得の大きさを測りに掛けてみる必要がありますものね。 その上で自己犠牲については良い反例になると思います。 仰ったように大東亜戦争における特攻隊という例は非常に参考になります。 その例や原初的没頭を例に出したりして 「人間はすべて打算的に行動している」という論理を反例によって「必ずしもそうとは言い切れない」と論破した上で、 次に「行動」とそれを行った「動機」について焦点を当て、 「客観的には打算的に見える行動も動機を見れば打算的ではない場合もありうる」 と理を入れ、 「抑えたら欲求不満になるから行う」というのは「もしなかったら」という仮定上の結果論で、未来に起こりうる結果を仮定してからの結果論で、それを行動原因と考えるのは、文字通り本末転倒である。 動機として「本能的欲求」や「自己犠牲」という場合もありうるため、「行わなければ欲求不満になるから行う」のではない。 「人を助ける、親切にする行動」は同じに見えても 他者の顔を気にして助ける、親切にする人 規範意識で助ける、親切にする人 自分が感謝されたいがために打算的に助ける、親切にする人 お金を貰っているから助ける、親切にする人 従順で助ける、親切にする人 求められたから助ける、親切にする人 他者の反応はどうあれ、本心から助ける、親切にする人 無意識に本能的に助ける、親切にする人 考えられる「動機」だけでもこれだけ多彩であり、 しかも「親切」と相手が感じるか否かは相手自身に掛かっているので、打算的な目的で期待していた場合、自らの自己満足(快)を求めて行動したのに、必ずしもその欲求を満たされずに不快な気持ちになることもと思います。 逆に相手の為に行っていなくても、なぜか相手のためになってしまっていたことも多くあると思います。 よって「必ずしも打算的な目的のために行動しているのではない」と結論付けたいと思います。