日本赤軍とは、もともと極佐過激派の一派である赤軍派のメンバーが、海外に進出たテロ集団です。赤軍派は後の連合赤軍(あさま山荘事件の首謀者)とも密接に関係しています。では、赤軍派とはどのような団体か?この辺の生い立ち?を少々書かせていただきます。
これらの団体は、昭和40年頃の大学闘争時代に(一部はその前の第一次安保闘争)に結成された過激派です。彼らは、学生の自治権確保や大学の授業料値上げに反対などと云う大義名分のもとで、内ゲバ(リンチ)や暴動を繰り返した団体です。さて、赤軍派の誕生ですが昭和44年9月4日の葛飾公会堂で結成されました。この年は、東大安田講堂攻防戦等、大学闘争が最も激化した年です。
赤軍派は極左過激派全共闘(反代々木系)から分離独立した派閥でした。ちなみに9月4日は早稲田大学の過激派学生による封鎖が排除された日です。
赤軍派は結成と同時に、トロツキズム路線にそって武装蜂起しました。大阪や東京で各警察署を火炎瓶や爆弾で攻撃したりしました。しかし、彼らも11月5日の一斉検挙により、主力の殆どが逮捕されました。また、この年、毛沢東主義を掲げて「京浜安保共闘」という過激派グループも結成されました。このグループは指導者・川島豪のもと「革命は銃から生まれる」を信じて、各地のライフル店から銃を強奪しました。
さて、主力の大部分を失った赤軍派は、海外拠点を作ったり、革命資金を手に入れるため、銀行を襲うようになります。この海外拠点をつくるため、ついに北朝鮮の金日成を頼り、日航機ハイジャック事件を起こします。また、中東アラブのテロ集団と手を結ぶために、重信房子らの中東亡命事件などに発展しました。これら、海外に逃亡した赤軍派は世界各地でテロ活動(シンガポール事件やダッカ事件など)をおこし、日本赤軍と呼ばれるようになります。
国内に残った赤軍派は昭和45年の第二次安保闘争終了と同時にますます過激な行動をおこします。そしてついに、昭和46年12月31日に先の京浜安保共闘と赤軍派が手を結び、連合赤軍を結成しました。
連合赤軍は、各地で爆弾テロを起こし、また、榛名山山中では永田洋子らが仲間をリンチし殺害しました。そして、浅間山荘事件をおこしたのです。
以上簡単ながら、赤軍派の事を説明させていただきました。親戚に聴いたのですが、当時子供が悪いことをすると、日本赤軍が来るよといって脅かしたそうです。
お礼
回答ありがとうございました。 いろいろと詳しく載っていてとても参考になりました。