- ベストアンサー
「感動を与える」は高飛車ないいかたですか
3月11日讀賣新聞・読者の意見欄に「『感動を与える』に違和感」 という記事が載りました。高校野球チームの主将が「感動を与えられるよう、自分たちの野球をやっていきたい」と語ったところ、「感動を与える」という表現に違和感を覚えたという意見が3月1日の「気流」に載ったのだそうです。 それに対して「高飛車な言い方を定着させないで。感動を覚えていただけるように、などとすべき」「大目に見ていい悪意のない言葉」という読者の意見2つが紹介されていました。 悪意があったとはとても思えないのは確かだとしても、言われてみれば「高飛車」のような気もします。 歌手が「ファンに感動を与えるために歌いたい」、役者が「観客に感動を与えるために演じたい」などと言ったら高飛車でしょうか。
- みんなの回答 (8)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
確かに、悪意があっての発言ではないでしょうが、それは高校球児の言う言葉ではないと思います。 なぜなら、高校球児は感動を与える商売をしているわけではなく、学校の課外活動の一環として野球をするだけの、ただの選手なのですから。「感動を与えられるよう頑張りたい」と言われれば、「ならば君たちは野球での勝負は二の次で、人々に感動を与えるために野球をするのか?」と聞きたくなるわけです。 また、私など、野球は娯楽として気楽に楽しみたいものです。一方的に「感動を与え」られても、そんな押しつけがましい“感動”はいらないと思ってしまいます。 先の回答にもありますが、高校球児の姿を見て感動するか否かは、見る側の問題です。 頑張る選手を見て結果的に感動した時に、感動した側が、「感動させてくれてありがとう」と思うことはあっても、まだ試合をしていない高校球児に対して「感動を与えるようなプレーをしろ」とか、「感動させてもらえないのなら、高校野球の意味はない」と思っているわけでもないでしょう。 とはいえ、最近は“感動”ブームで、やたらと感動したがっている人たちが多いような気がしますので、実際には見る側が感動させてもらいたいと思っているのでしょうから、「感動を与えられるようにがんばります」と言わなくてはならないのかもしれません。そう発言すること自体が、ニーズに応えていることなのかもしれません。 けれども、私にしてみれば、「感動を与えるためにプレーしている」などと公言した試合など、「そのプレーは感動的に見せるための演技だろう」と思ってしまいます。つまりある意味、ヤラセと同じだと感じてしまいます(根性がひねくれていますゆえ)。 とはいえ、そんな「演技」が、高校球児にできるとは思いませんので、「感動を与えたい」という言葉自体に「高飛車」だとか、その他の悪意があるとは思ってはいません。 「感動を与えること」を商売としている人でさえも、普通はへりくだって、「みなさんが感動してくださるなら嬉しいです」「皆さんに感動してもらえれば嬉しく思います」くらいの言い方をすると思いますよ。
その他の回答 (7)
「感動をありがとう!」といった調子で民放などが讃えるでしょう。 「感動」の粗製濫造のもと球児がそんなこと口にするのもわからなくはない。 「感動を与えたい」ということばが、こうして槍玉にあがるから、いいので、そうでなければ、 例の「応援よろしくお願いします」みたいに猫も杓子も「感動を与えたい」といい出すんです。 勝負どころで打席に立つ球児が、ユニホームの胸のあたりをつかむような仕草をする。 元はといえば、PLなんです。宗教の学校よろしくユニホームの下にお守りをつけてる。 そのお守りに祈ってるんです。そのポーズがカッコいいと思ったらしく、 どこの球児もおなじ仕草をするようになった。 お守りつけてんのかな。
お礼
ありがとうございます。 仕草といえば、夏の終戦記念日に、試合中か合間に選手が黙祷するのどうかと思います。
高飛車かどうかは別にして、 感動を与えるという考え方はあまり好きではありません。 感動を受けるかどうかは人それぞれで、演じる方が押し付けるべきものではなく、演じている最中は人の事なんか考えていないはずです。 みな、如何に自分の最高の部分を出してうまく演じるか、如何にして勝つかそれしか考えていないのではないでしょうか? 自分のために演じたり、試合を戦っているのにも関わらず、他人に感動を与えるためにというのは欺瞞のにおいがします。
お礼
ありがとうございます。感動を与えるために試合する、というのは目的が違う気がします。結果的に観客が感動すればいうことなし、ぐらいでしょう。
高校生が「人々を感動させるために野球をしている、または、したい。」と聞いてガッカリしました。そんな高校生が増えてきたのでしょうか。 こんなことを言う高校生が多いチームは、優勝なんてできません。 「他人に感動を与えるため」なんて余計なことを考えていては、試合に勝てるわけがありません。死ぬ気でやらないと勝てません。 こんな高校生は、世の中に出ても「底の浅い安サラリーマン」で終わることは目に見えています。 高校野球も実社会もそんな甘いモンやオマヘン(*^o^)。 「高飛車」という言葉が当たっているかどうかですが、チョッと違うような気がするな。
お礼
ありがとうございます。死ぬ気でやるのですね。といっても白装束に△頭巾の姿で野球をやられても困りますが。
「高飛車」は勘違いも甚だしいという気がします。 そのキャプテンは、 「こたびの働き、大儀であった! その方に○○一国を与えよう」 などと、かつての天下人が言ったのを真似たわけではないのですからね。 他人の素晴らしい活躍ぶりに強い感動を受けた人が、「自分もあのように人々を感動させてみたいものだ」と思うのはごく自然な気持ちで、それが職業選択の動機にもなったりするわけです。あくまでその意味で「感動を与える」と言うのであれば、傲慢でも何でもありません。 ただ‥ 言葉がしばしば発言者が思っても見なかった意味に受止められるのが世の中というものです。 「“与える”だと? ふん、えっらそーに!」 などとおっしゃる向きも中にはあるわけです。その辺は「言いたい人には言わせておけばよい」と割り切る他はないでしょう。さもないと、怖くて何も喋れなくなってしまいます (笑) 「与える」という言葉の持つ語感の他に反感を買う理由があるとすれば、それは高校生らしからぬ饒舌さが原因かもしれません。 高校球児達が栄冠を目指して一心不乱に球を追い求める姿に、多くの人は「爽やかさ」とか「清々しさ」を感じるわけですが、特にそのイメージに酔いたい熱烈なファンにとっては、高校球児というものは “すべからく朴訥でなければならない” のだろうと思います。 つまり、「絶対に優勝したいっス!」と一言だけ熱く語って欲しいのに、「皆様に感動を‥」などという余裕の発言?が彼等の口から漏れると、折角のイメージが台無しになって気分が悪くなるのでしょう。全国の高校野球ファンの夢を壊さないために、能ある球児は本音を隠すべきなのかもしれませんね。 もっとも、臆せずに堂々と夢を語れるのは、ある意味学生の特権です。人は、一旦社会に出たら言いたくても言えないことばかりで、程度の差こそあれ、誰もが腹黒くならざるを得ません。私としては、学生時代からそんな知恵を身に付けて欲しくないなと思います ( ^^
お礼
ご意見ありがとうございます。確かに本音として「人にか感動を与えるために」ということが職業選択の動機だとしても自然だと思います。あまりそれを表に出すといやらしくなくということでしょう。 「高飛車」・・・なんとなく使っているこの言葉、反意語は「低香車」でしょうか。
プロの歌手や役者が言う分には、構わないと思います。お客を喜ばせたり、泣かせたりして、お金を稼ぎます。 喜ばせたり、泣かせたりすることを、「感動させる」「感動を与える」と言ってもいいと思います。 しょうもないヘナチョコ歌手だと「何を生意気な!」と思うこともありますが。 高校野球はお客に見せるために、やっているんじゃないでしょう。 自分達が喜びたいためにやっているんでしょう。 観客を意識せずに一生懸命にプレーすることが、結果として観客を感動させることになるんでしょう。 「感動させること」自体が目的になっては、高飛車とは思いませんが「イヤな感じ」ですね。 純真な高校生が「演技」をしちゃあいけません。
お礼
ありがとうございます。確かにプロは見てもらうのが仕事ですから、高校生とは違います。 プロではない高校生の放送を「ハイビジョン」でやるのはなんか場違いで気持ち悪いのです。
- saezuri
- ベストアンサー率25% (13/52)
確かに「感動を与える」には違和感がありますね。 高飛車と言う表現はどうかと思いますが…。 『感動』というのは自分の中から湧き上がる、心を揺さぶられる感情だと思いますので他人から与えられるものでは無いはずです。
お礼
ありがとうございます。感動の材料を他人からもらうことはあるでしょうけど、感動するのは自分自身ということですね。
感動は「人から与えられるモンじゃない」と思うんですけどね。 そもそも、高校野球の選手が >「感動を与えられるよう、自分たちの野球をやっていきたい」 って言っちゃうこと自体、間違いだと思います。 ぶっちゃけ「勝ってナンボ」の世界なんだし。 あ、高校野球は「教育の一環」だから問題ないのかな(苦)。
お礼
ご回答ありがとうございます。 「教育の一環」にしては一日中全試合放送があるのが異常です。 うっとおしい季節です
お礼
ご回答ありがとうございます。精一杯プレーして、結果的に「感動を覚えてもらえれば」なおいい、のでしょう。