- ベストアンサー
イノセンス 会話と用語の解釈
- イノセンスを咀嚼し、作中の会話や用語の解釈について皆さんの意見を聞きたい。
- 具体的には、ガイノイドの故障による攻撃、人間の人形作りの意図、バトーの人形の囮判断、記憶と思い出の違い、マトリクスの均一性についてわからない点がある。
- リプライをお待ちしております。
- みんなの回答 (1)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
1.検死室にて 言ってしまえば、内容的にはアシモフの3原則と同様でしょうが、ガイノイドにはガイノイドのための倫理コードが存在するはずです。それを表に出さないのはクリエーターとしての意地ですね(笑)。そしてそれは劇中では第3項以外明らかになっていません。なので、これはこれで劇中で表現されていないコードから検証してわかったと逃げることができますし、このこと自体、「ガイノイドが意思を持っている(かもしれない)」ことを示すスパイスですから、それ以上深くツッコんでも余り意味はありません。質問者様への回答としては「ハラウェイの結論ありきのの推論」です。 それでも、なお、敢えて、劇中からわかる範囲で拾い集めるとすると、その自ら故障した説への帰結へは単純に否定法から導かれます。「規制されている行動が取れる状態に移行したということは、すなわち故障したことを示す。ではその故障はハードに原因があるのか、ソフトに原因があるのか?調べた結果、ハードに問題がない。となればソフトしかありえない。」ハラウェイはプログラムが消去されているので証拠はないけれど、とガイノイドが意思を持っている前提で話をしています。ドグサはロボットに意思はなくプログラムで人間をまねているだけだという認識です。バッファに残った「たすけて」が三者三様の解釈をしているところを見せたいのであって、プログラムに自壊が組み込まれていたかどうかに関しては知りようがありません。 2.検死室にて どこがわからないのか、わかりません。 神がこの世に降臨された御姿をなぜ人は自らの似姿として認識するのか、なぜ鉄腕アトムは人型なのか、なぜジェニードールは人々に愛されるのか…、これらは全て根源は共通していると思いますが? 3.キムの屋敷にて 判断は経験則、でしょうね。バトーたちは場数を踏んでいますから。 逃げようとする側が別の義体に移行したような行動をあからさまにするはずないので、経験値は関係ないかもしれないけど。 キム自体は逃げたのかもしれません。というか、キムがそこにいたのは事実ですが、クローンであり、はじめから本体は別のところにあったのかもしれないし、その逆かもしれない。いずれにせよ、欲しいのはキムの持っている情報ですから、オリジナルであれコピーであれ問題ないわけです。どう解釈すると話が膨らむか、観客の判断にゆだねられるところです。 4.キムの屋敷の庭にて バトーは思い出も記憶も同じだと言っているのでは?実際、自分の人生と照らし合わせてどうですか?記憶が事実と矛盾していたことはありませんか?質問者様の解釈ならば、そのような事実があった時は記憶を思い出と誤認していたことになり、まさに「理解されるのは常にあとになって」という状況です。 しかし、私は「記憶は主観的事実であり、思い出は記憶の主観的解釈である」と考えています。その区別がされるのは客観的事実が知らされたときです。普通の状況であれば客観は必ず主観の後に来ます。 主時間とは主観的時間であり、外部と繋ぐことで主観的時間と客観的時間の両方に同時にアクセスすることになり、主観的時間のみを取り分けてセーブすることができないから、主観的事実を解釈しようにも主観的事実そのものが存在しないということになります。 というわけで、キムは「今」を記録(記憶ではない)していましたが、それを記憶と錯覚して情報が書き換えられていることに気付かなかった。 ご質問は主観的時間のみを取り分けて記憶することができない理由、でしたね。 キムがやっていたのは客観的事実としての記録であり、バックアップです。本来はネットにつながった時点で、他社との関係の中での自分はあっても切り離された存在としての個ではありません。キムに限らず、ネットにつながった時点でネット上にバックアップを取っているはずですが、それは時間軸に沿った流れであり、思い出を探ろう(記憶の主観的解釈を試みよう)とすれば、その中から主観的事実(記憶)を取り出す作業が必要となります。ま、取り出す時点で記憶は思い出に変容する気もしますが。 5.キムの屋敷の庭にて 前作参照、ってそんなことはわかってますよね。そこから推測してみてください。 ここはトグサに対してバトーが言えないのでごまかしていることがわかれば、話的には問題ないのですが。 >かるく検索してみたのですが、よく分からず現在に至ります。 検索してわかることではないです。監督の本意とは裏腹に映画の解釈は観客が決めるものです。質問者様が他人の意見に流される主体性のない人物ならともかく、映画は娯楽なのですから自分の好きなように感じて、楽しめばいいんです。納得できなければできないで、それはそれで質問者様がその映画から受ける感想であり、時と共に忘れてもいいし、一生そのまま考え続けても一向に構わない性質のものです。
お礼
回答ありがとうございました。 本日で回答を締め切らせていただきます。 大変興味深いご意見でした。
補足
orihalconさん、回答どうもありがとうございました。 私よりもずっと思慮深い見解のため、興味深く熟読させていただきました。 そのせいで、お返事が遅れてすみませんでした。 回答内容について、ほとんど「ああ、なるほど。そう解釈するとすっきりするな」と思えました。 ですので、ここでは私の文章力不足からうまく伝わらなかった点や、もっと詳しく教えていただきたい点について、少し補足させていただきます。 質問2「人が人形を作りたがる理由」 >これらはすべて根源は共通している う~ん…考えてみたんですけど、「自分がそれ(人形)みたいにようになりたいから」とか「その形とか動きがかっこいいから」とか「それが欲しいから」みたいな単純なものしか思い浮かびません。 質問4「主観的事実と主観的解釈の違いは?」 記憶を主観的事実、思い出を主観的解釈という一連の考え、とても興味深いです。 ただ、この2つの違いをもう少し明確に知りたいです。 主観的事実=自分が事実だと思っていること。 現実と矛盾することもある。 主観的解釈=主観的事実の自分なりの解釈? 例:右のトマトは左のトマトより赤い=記憶 だから右のほうがおいしい =思い出? 最後に… >他人の意見に流される主体性のない人物 う~ん…かなりきついご意見ですが、私をそういうふうに表現することもあながち間違ってないかもしれません。 偉い人でも犯罪者でも、彼らの言っていることや行動、思想、認識が「今の自分の考えより正しい(現実に即している、優れている)」と思えば考えを改めるし、間違っていると思えばそのままです。 だらだらと書いてきましたが、もしお手数でなければ、また回答をよろしくお願い致します。