• ベストアンサー

大和朝廷が国内統一するまでの過程

古代、国内には数多くのクニが存在しその中のひとつが卑弥呼を長とするクニであり また天皇を長としたクニであり中でも天皇を長としたクニが最も勢力が強く 他のクニを制圧していきやがては大和朝廷として国内を統一していく という流れでいいでしょうか? だとすれば邪馬台国も天皇勢力によって制圧された可能性もあるでしょうか?

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • kenkey
  • ベストアンサー率19% (8/42)
回答No.3

お初です 卑弥呼を長とするクニは「倭国」で邪馬台国一国の王ではないと思われます。一方、大和朝廷(近畿天皇家)は群雄割拠の後に近畿天皇家が一歩抜け出し、葛城氏など諸豪族を屈服させて徐々に大きくしていったものと思います。 質問者様の >天皇を長としたクニであり中でも天皇を長としたクニが最も勢力が強く 他のクニを制圧していきやがては大和朝廷として国内を統一していく という流れでいいでしょうか? で宜しいと思いますよ ただ、私見では統一状態になったのは7世紀以降だと考えています。新旧唐書に倭国と日本国の記載があること、聖徳太子らの制定した冠位十二階で授けているのが近畿圏内の豪族に限っている事(遠方の豪族へは大化改新以降)などから邪馬台国がどこに存在していたかにも拠りますが私は九州説を採用していますので統一は遅かったと考えています。

その他の回答 (2)

回答No.2

「邪馬台」=「大和朝廷」である可能性も否定できないでしょう。邪馬台国については結局のところ中国の書物による記述しかないのですから、あちらの解釈によって事実がゆがめられた可能性もあります。後進国と見下して「卑」や「邪」といった字を当てているのではと思いますし。 「国内統一」については、本当に出来たのはかなり後の話になるのでは。東方を制圧するための職である「征夷大将軍」は明治維新まで存在していましたし。

  • j_nishiz
  • ベストアンサー率26% (183/697)
回答No.1

現代の考古学で言われている内容をたどると、このような結論になるんじゃないんでしょうか。 邪馬台国が制圧された可能性もあるでしょう。 しかし、どこにあったかも分からないクニですから、証明は難しいでしょうね。