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教育や情報の大衆化
誰もが教育を受ける機会があって、自己実現・自己統治や職業選択の自由があるのはとても良いことだと思いますが、その反面、教育や情報の大衆化の社会におけるデメリットも多いんじゃないかと感じます。 でも自分の中でそれを上手くまとめることが出来ていません。 教育や情報が大衆化したことによる弊害・デメリットをあげるとすれば、どんなことが考えられますでしょうか? アドバイスお願いいたします。
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人様に喜ばれ、社会に貢献できてこそ「人生、華である」という前提で、御質問の文面を精読させていただきました。 mdas1192さんのおっしゃる教育や情報というのは、この目的を達成するための手段であるという視点。 これを見誤ることほど「衆愚」な話はない、ということだといえましょう。 それにつけてもmdas1192さんの、「教育や情報の大衆化」という視点は鋭い切り口ですね。 ここで、教育を受ける側が修了後に社会で貢献するにあたって、その成果を多かれ少なかれ還元するものなのだという性善説のような視点ですと、デメリットが見えてこないのかもしれません。というのも、 ●該当する教育の目的と受講側の目的・意志・ねらいとの不一致。 ●受講側の修了後における目的・意志・ねらいの喪失。 ●実際に「習得した内容を生かして」社会で成功し認知された体験がない。 ●人間性を豊かにするための常識・しつけを受けていない。 ●「結果の悪平等」論を旨とした教育での成果を引きずっている。 今ちょいと思い浮かべただけなのですが、このような条件が該当すると、高度な教育や情報を持っていても自ずとマイナスな結果にしかならなくなります。 なぜか。 おおよそ次に挙げるような能力のどれひとつ欠けても、社会に貢献できる人間として授けられた高度な教育や情報を生かすことができないばかりでなく、反社会的な犯罪行為に活用してしまう、なんてヤカラが出てこなくもないからです。というか、すでに日本国内にあっても残念ながら出現してきていますわな。 ○知識・常識・教養にとどまらない物事を正しく理解する力 ◎柔軟な論理的思考能力 ◎まともな判断力 ○全うな実行力 全ての人が該当するわけでは当然ありませんが、特に高学歴の方々をはじめとしてまさに御質問の文面にありますような「教育を受ける機会があって、自己実現・自己統治や職業選択の自由」を享受してきた人達については、これだけの能力をフル動員して社会に貢献して然るべきところ。 が、その実態はどうか。 たとえば、世間を騒がせるテロ事件を起こした過激は集団や某カルト宗教団体の幹部なんていうのは、どこの国かを問わず、実は端から高学歴なヤカラだったなんていうのは象徴的です。 犯罪を、凶悪犯の中でも粗暴犯・知能犯に分けたとしますと、教育や情報を受けた経験のある人達というのは圧倒的な割合として知能犯に多いというデータは、出典不明ですが、聞いたことがあります。 見るからに何か犯罪を犯しそうな風体だというわけではないにもかかわらず、この体たらくになってしまうのは、ズバリ、判断力の欠如でしょうな。 全ての宗教が、該当するわけではないことを、申し添えておきますけれども、右や左のセクト思考・宗教団体のタチの悪さもさることながら、こういったものに頼らざるを得ない人達の、「志」の弱さと「人間」の弱さと「頭」の弱さ…。 これが問題となるところでありましょう。 一方で、NOVAの経営破綻で明らかになった「英会話教室」受講者の数。 私はあれを見聞きして仰天しましたね。 余談ですが、外資系企業で、日本人しかいなくて日本人相手に会話するのに、わざわざ英語で会話するなんていう空気の読めない「KYな」人達がいまだにいるのも、これまた否定できない事実です(苦笑)。 こういった日本人特有の英語コンプレックスがどう関係したのか、いざ知らず、といったところですが。 英語教育というのは、これを修了したらば英語を母国語とする文化圏に出向いて、そこで何らかの生産的な活動をする、という確固たる目的がないことには受講してもムダなことだと思いますね。 では、そのような目的があるにせよ、その目的を達成するための手段はいくらでもあるはずなのに、なぜ高額な受講料を払ってまでも英会話教室がはやるのか。 手段にこだわる人が多いように想像します。 といって、なにも英会話学校に通うのがいけない、と主張するつもりは毛頭にありません。 おおよそ、こういった視点でこの回答の冒頭に挙げました「該当する教育カリキュラムの目的と受講側の目的・意志・ねらいの不一致」と、そもそもの「受講側の目的・意志・ねらいの喪失」、論理的思考能力・判断力の欠如が原因となるでしょうね。 御質問の文面での「教育や情報の大衆化の社会におけるデメリット」とは、本来の教育の目的、すなわち社会で一人前に食っていけるための社会貢献のできる人間の育成であるということを見損なったヤカラが、確固たる「志」もなく、詰め込められるだけ詰め込まれた知識だけをもって社会に出た結果 問題を解決することが求められる局面 において「論理的思考能力」「判断力」が欠如、もしくは発揮できないために間違った結果を出してしまい、それが実際に社会に悪影響を及ぼしてしまうこと、なのではないかなあと斟酌できると思います。 拙い長文になってしまい大変恐縮ですが、御参考になれば幸いです。
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- jamiru
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恐らく先人はこうあることを予測したのか理解していたのか分かりませんが、ヒキコモリになったんでしょうね。 一番の例は天皇でしょうね。 絶対に大衆に飲み込ませない高潔な存在。 こういう生き証人を残すことで、愚かさを是正させる。 他の国では無い事です。
お礼
回答ありがとうございます。 天皇家の皆さんも人間(人権享有主体かどうかはさておいて)ですから、国民がそういった高潔さをよすがとするのはどうなのでしょうか。 三笠宮家の寛仁殿下のご告白や雅子妃のご病状を報道で拝見する限りで、ご当人たちが息苦しさを感じておられますから・・・ わたしも、この国の歴史と共にあった天皇制は今後も是非とも維持すべきだと思いますが、少なくとも国民と共にある象徴天皇制の下では、ことさらに我々大衆が天皇家を神格化・特別視すべきではないと思います。現人神として庶民の目に触れない所で暮らされていた戦前とは違い、庶民と同じ学校に通い、数多くの公務をされている現代とでは、事情は全く違うように感じます。 側室をおけない時代に男子誕生(男系)を過度に期待したり、我々庶民とは違う別格の高潔さを求めるのは天皇、皇族におかれても酷なことなんじゃないでしょうか。 一般大衆ならとうに定年して悠々自適な暮らしをしている年齢なのに、両陛下がひたむきに公務をなさっておられる姿勢には、ただただ頭が下がります。それだけに複雑な心境です。
- ucok
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(1)誰もが等しく一定の水準の学力を得る必要が出てきたこと。昔なら、読み書きが苦手でも、奉公に出たり、狩猟採取して暮らしていけましたが、今は最低でも中学程度の学力は身につけないと、まともに雨露しのげません。職業選択の自由は、その教育をきちんと受けてこそ成立します。 (2)誰もに等しく一定の水準の学力を提供する必要が出てきたこと。1学級40人。天才もいればおちこぼれもいるのに、少ない数の教師を集めて等しく教育を施さないといけない。さらに価値観も多様化したので、宿題を多く出してほしい家庭もいれば、その逆の家庭もいる。全員が塾に行っていると思いきや、行っていない子もかなりいる。そういう40人を相手にする先生方はさぞや大変でしょうし、多忙ゆえに義務を消化できない教師を前に親も子も混乱します。
お礼
回答ありがとうございます。 大学・短大へ進学するのが過半数となってしまいましたから、確かに勉強が嫌いな子にとっては生きづらい時代になったのかもしれませんね。 公立校では学力順にクラス分けという訳にもいかないでしょうから、確かに同じ水準の強いることの矛盾というのは大きいのかもしれません。
お礼
回答ありがとうございます。 社会貢献に価値を見出すというのは今の日本的な社会に一番欠けている点ですね。 #2さんのおっしゃる通りだと思いました。 利口バカの粗製濫造になってるという面は否めないように感じます。 英会話学校だけじゃなくて、大学も就職する際の要件ていどにしか機能してないですよね。学ぶ意欲がなくても大学全入で、とりあえず大卒の資格が求められるというのも変な話だと思います。 国も専門教育は大学院で、と考えてる気がしてなりません。アメリカと違い日本には法学部があるのにさらにその上に法科大学院を作ったりと・・・ 大変勉強になりました。