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時々強烈な虚無感に襲われるのは何故でしょう?

最初は躁うつ病かな?とも思ったのですが、あちこちのカテで訪ねるうち、「どうも違うな」と感じこちらのカテで質問させて頂きました。 (他のカテで聞いた質問です) http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3437189.html 時々、突然強烈な虚無感に襲われます。 つい先程まで、自分でも信じられないくらいの自信と希望に満ちていたのに、突然何も…動く事すらしたくない状態になります。 そして、「どうして自分は生きているのだろう?」という思いがこみ上げて来ます。 1日以内にまた元に(普通の状態に)戻るのですが、これが数時間をようします。 むろん、普通の状態も数時間続くのですが、効率が悪いので非常に困っています…; 特に、仕事中突然起こったりする事もあるので、原因を知りたく思います; パニック症、躁鬱病、色々調べましたが、どうも違うような気がします; もっと何か根源的なものが原因のような気がします。 皆さんのお考えを(アドバイスでも構いません)聞かせて下さい。 (ちなみに、自分なりに色々と考えた所、今の仕事・生活が自分あっていないのでは?←典型的かも知れませんが;、とも思いました。でも、何が嫌なのかさっぱり分かりません;)

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  • ベストアンサー
  • mmky
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回答No.3

「心」というのは不思議なものなのですね。中国の高僧・天台ちぎは「おもいの針」といっていますね。磁石の針はいつも北を向きますが「おもいの針」はあっちを向いたりこっちを向いたりなかなか定まらないのですが、人にはそれぞれ向きやすい方向というのがあるようです。質問者さんの場合はその針の方向が「哲学者的な面、つまり修行僧の面」に向くようですね。季節や環境や日にちなどに応じて「おもいの針」がいろいろな気持ちに向くことは誰にでもあることですが、立ち止まることもよくありますね。「おもいの針」は自由にしておけばそのように不安定なものですが「管理可能」なものでもあるのですね。「突然強烈な虚無感に襲われます。」とのことですが前兆はあるはずです、それを捕らえて「いかんいかん今は仕事に集中しよう」というように心に言い聞かせれば徐々に制御できるようになります。 「「どうして自分は生きているのだろう?」という思いがこみ上げて来ます。」この心も質問者さんの「心の定点」のひとつですからだいじにしないといけませんね。余暇を利用して哲学書や宗教書を読むのも「心の定点」を満足させるいい方法ですね。 誰も彼もこの世では仕事をして生計を立てていくしかないのですね。それが本来の自分の姿(心)ではないとしても修行ですからね。でもこれは修行の形態であって心の本質じゃないんですね。質問者さんの心の本質は哲学的、宗教的な面が強いのでしょう。その面に心の針が止まるということですね。これも誰にもあることですね。私にもありました。 「心の針」を日々管理していくことでいろいろな自分を発見するはずです。 参考まで

maddog
質問者

お礼

>前兆はあるはずです なるほど、言われてみれば、今まで見逃していたような気がします。 仏教のような、心の話、とても参考になりました。 確かに、「心の方向」については考えていませんでした。 仰るとおり、「私の心の方向」と「現在の方向」に「ズレ」があるのかもしれません。 それ故に、道に迷い、今、哲学という霧の中にいるのかもしれません。 興味深い話でした(もっと聞いてみたいかもしれません:笑)。 ありがとう御座います(合掌)

その他の回答 (3)

noname#50219
noname#50219
回答No.4

現実に埋もれて、大切なことを忘れてしまう。見失ってしまったので、虚無感が時折飛来して、鳴く。そして自分は自身に問います。 「大切なことは何であったのか。」 その大切なことと言うのが、悲しみではないでしょうか。人が見失ってしまうものです。悲しみを忘れなければ、諸々の悪に打ち負けません。  根本的解決のためにはどうすべきかと言うことを、自己の在り方に求めたものとして、前回答を挙げました。 そうすれば、全面的に、自分を生きていける、そうしたいと自らも望み、そうしたかったのだと確信できる生き方になりうるからです。 世界が果てしなく広いと言うのは、世界とそこに起こる事象を限定しない、できない、されえない、する必要もないという意味です。 とめどなく清い、純粋であるというのは、何も触らない、触れない、不可侵、届かないという意味です。 そして悲しいというのは、つまり生きる理由があるということです。 果てし無く、純粋である世界が、悲しいから、私は○○でいよう、ということが、生きる意味ではないでしょうか。 届かない所に届かんとして、現在であるということ、それが、私達の可能な限りの現状であり、これが人生の始まりだと思うのです。それで、人生は錆びないのです。

maddog
質問者

お礼

>現実に埋もれて、大切なことを忘れてしまう。見失ってしまったので、虚無感が時折飛来して、鳴く。そして自分は自身に問います。 >「大切なことは何であったのか。」 仰るとおりです。 私にとって「大切なこと」とは何であったのか…。 何故、悲しんでいたのか…。 今ではもう分かりません…。 どうやら、長い年月のうちに仕事に忙殺され、忘れていたようです…いえ、忘れたかったのかもしれません…(そうせざるを得なかったのかもしれませんが…) 。 >世界が果てしなく広いと言うのは、世界とそこに起こる事象を限定しない、できない、されえない、する必要もないという意味です 確かに、仰るとおりだと思います。 >純粋 純粋というのは、つまり私達には手が届かない。 「理解できない」「到達できない」という比喩(?)でしょうか?? >届かない所に届かんとして、現在であるということ、それが、私達の可能な限りの現状であり、これが人生の始まりだと思うのです。それで、人生は錆びないのです。 つまり、私達は「届かない」ところに「届こうとしている」。 しかし、私達は暗に「届かないという事を無意識に理解している」。 そして、それが「悲しみという形」で存在しているが、私(人間)には仕事があるし、家庭もある。 だから、「忘れるしかない」。 しかし、それは自分にとって「大切なもの」。 だから、「悲しみ」を「忘れる」事にしたが、それがぽっかりと心に穴を開け、それが「虚無感」として心の穴から風となって私の心を吹き荒れている。 と、まぁこういうことでしょうか…?;(なんだか強引な解釈のような気がしないでもないですが) ありがとう御座います。 だんだん分かりかけて来た気がします。

noname#50219
noname#50219
回答No.2

悲しみに応じて、ということが、存在の意味であるような気がします。

maddog
質問者

お礼

確かに悲しみは必要ですね。 しかし、その先にあるものは?その意味とは? ありがとう御座います。

noname#50219
noname#50219
回答No.1

世界は果てしなく広いのだということ、とめどなく清いのだということ、そして悲しいということ、自分は如何に在ればよいのでしょうか。

maddog
質問者

補足

すみせん;何となく言いたい事は分かるのですが、もう少し具体的に説明していただけると、助かります;