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幕末の三重の学校教育

三重では明治初期(まだ民法も刑法も憲法もなかった頃)に割と優れた裁判官が輩出したと最近聞きました。どういう背景があったのでしょうか。藩校の伝統とか何か聞いたことがあったら教えてください。 その頃の役人は基本的には郷里の(つまり三重の)藩校(当時はもう無くなっているだろうからその後身)で勉強し,その後東京に出て,司法省(またはその前身)の付属学校で1,2年勉強(速成教育)して,故郷に戻ったのだろうと推測します。東京での速成教育はどの地方出身者でも同じはずだから,違いがあるとすれば,藩校での教育ではないでしょうか。というのが質問の趣旨です。 よろしくお願いします。

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  • mapato
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回答No.2

こんにちは。 三重県に藩庁を置いていた有力藩の一つに「桑名藩」(幕末藩主・久松松平氏)がありますが、そこには「寛政の改革」で知られる松平定信が経営拡張し、その子定永が転封と共に移設した「立教館」という藩校がありました。 明治四年の廃藩まで四十数年桑名の地で続いた立教館では、聖堂を設けず釈奠(孔子を祀る儀式)も行わずに、講堂正面中央に大神宮御祓を奉戴して、国民的自覚の上に立って学問・習書・数学・容儀・舞楽・武芸の諸科を教導していたということです。 これは他藩に例を見ない特色であると言われます。 文に篤い藩主の影響もあったでしょうが、神宮のお膝元を領する藩であるという意識が高かったのでしょう。 このような精神は修学心得を記した『立教館童蒙訓』と共に後世永く伝承され、指導原理の支柱を為したと言われます。 また歴代教授の多くは昌平坂学問所で学んだ人々であり、維新前の学徒は二百名前後、明治三年以後に至っては三百余名に及びました。 藩校は明治の時点で(資料を失っているところを除いて)約八割の藩に設けられていましたが、幕末更には明治に至って設立されたところも多く、その中にあって桑名藩のそれは名君と呼ばれた定綱が寛永十二年(1635)に設けた学問所を起源としていますから、十分に長い歴史と篤学の伝統をもった藩校であるということが言えるかと思います。 勿論桑名藩の例だけをもって「三重県の藩校教育」を語ることは出来ませんが、そのような特徴をもった藩校が存在したことは鑑みられても良い要素の一つではないかと思い回答させて頂きました。 ご参考までに。

resorts
質問者

お礼

とっかかりになりそうな情報だと思います。ありがとうございます。

その他の回答 (1)

  • nagoyakko
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回答No.1

三重県図書館に行けば 情報があるかもしれません。 http://www.milai.pref.mie.jp/mie-lib/#inform 電話でも資料があるか相談できるみたいです。 http://www.milai.pref.mie.jp/mie-lib/info/index.html#a07 電話:059-233-1180

resorts
質問者

お礼

三重に調査に行ったならご紹介いただいた番号にお世話になることになりそうです。ありがとうございました。